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「また来たのか?」
「んー…?」
「まあいい。夜明けまで、もうしばらく眠るといい」
「うん…」
クノお兄ちゃんのたてがみに顔を埋めて。
もう一度、目を瞑る。
心地良い風が吹き抜けていく。
優しい、風が…。
「それでですが、クノさま」
「静かにしないか。ルウェが眠るまで待てないのか?」
「あ…。はっ…失礼いたしました…」
「…すまないが、少し席を外してくれ。お前は、どうも仕事の話をしたいらしいのでな」
「はっ…では…」
薄く目を開けると、すぐ前でユラユラと揺れるものがあった。
なんとなく、手を伸ばして掴んでみる。
「ひゃっ!?」
「んー…」
「そら。お前が騒ぎたてるから」
「な、なんでもいいですから、離してください!」
「昔からお前は尻尾が弱点だな」
「ク、クノさま!」
「ははは。ルウェ、離してあげなさい」
「うん…」
手を離すと、大きく飛びのいて。
しきりに尻尾を気にしている。
…誰?
「こいつはクルクス。私の補佐をしてくれている。まあ、若大将といったところだ」
「若…」
「そうだな、若だ」
「ル、ルウェさま…。いきなり尻尾を掴まないでいただきたいです…」
「んー…。ミコトに似てる気がする…」
「ミ、ミコト…?」
「似てるも何も、実の兄妹だからな」
「あぁ、ミコトですか。そういえば、最近名前を貰ったとはしゃぎ回ってましたね…。契約もいつの間にか取り付けてきたみたいで…」
「お前が見届けたのではなかったのか?」
「ええ。どうやらツクシだったようです」
「ふむ。それは残念だったな。まあ、今度契約者に会ってくるといい。挨拶も兼ねてな」
「はい。ありがとうございます」
「若の名前はなんていうの?」
「私…ですか?私は契約を結ぶことなく、ずっとクノさまの補佐として仕えておりましたので、名前を戴く機会に恵まれることはありませんでした」
「ふぅん…。じゃあ、若はなんて呼べばいいんだ?」
「若で結構ですよ」
「そうだ、若。ルウェに名前を付けてもらってはどうだ」
「えっ、しかし…。ルウェさまは私の契約者ではありませんし…」
「では、ルウェと契約するか?」
「ダ、ダメです!昨日も琥珀と契約してるんです!これ以上負担を掛けるわけにはいきません!それに、クノさまの補佐が疎かになってしまっては…」
「ツクシも、契約を結びながら上手くやってくれているじゃないか。お前に出来ないわけはないだろ?それに、この子は…」
「……?」
クノお兄ちゃんはこっちを見ると、ザラザラした大きな舌で舐める。
…どうしたのかな?
「こいつは見た通り、頑固者だ。手間は掛かるだろうが、よろしく頼んだぞ」
「えっ、クノさま!?私の話、聞いてました!?」
「案ずるな。私が手伝おう」
「そういう問題じゃないです!」
「ルウェ。今、何か持っているか?」
「んー…」
「クノさま!」
懐の中を探ると、名札が出てきた。
真お姉ちゃんに作ってもらった、大切な名札。
「ほぅ、万金か。純度も高いようだな。さすがに良いものを持っている」
「どういうこと?」
「いや、今は知る必要はない。必要となれば、そのうちに分かってくるから」
「……?」
「クノさま…。もしかして…」
「そういうことだ。…さあ、ルウェ。目を瞑りなさい」
「うん…」
名札を強く握って、目を閉じる。
…クノお兄ちゃんのたてがみは、やっぱり気持ち良いな。
ゆっくりと、その温かさの中に落ちていった。
眩しい…。
朝…なのかな。
目を開けると、もう見慣れた天井がそこにあった。
「おはよ、ルウェ」
「おはよ…」
「朝ごはん、持ってきてあるよ」
「ありがと、なんだぞ…」
「みんな、紅葉お姉ちゃんについて行っちゃった。まあ、私がルウェを看てるからって言ったんだけどね。鞄を作るんだって」
「うん…。昨日、翔お兄ちゃんと弥生が話してた…」
「そう。お昼には戻ってくるって。朝は材料集めなのかな」
「ふぁ…」
「あ、まだ眠い?」
「んー…」
「寝てる?」
「ううん…。もう起きる…」
「じゃあ、朝ごはんにしよっか。昨日と同じで申し訳ないけど…って、紅葉お姉ちゃんが言ってたけど。お粥だよ」
「うん…」
「自分で起き上がれる?」
「んー…」
力が…入らない。
なんでかな…。
そういえば、若との契約はどうなったのかな…。
「ダメ?」
「うん…」
「仕方ないね。よいしょっと…」
起こしてもらって、やっと座ることが出来た。
でも、相変わらず力は入らない。
喋るので精一杯だった。
なんとか、首だけを動かして。
「今日は梅干し入りだよ。大和が、今日は相当消耗してるだろうからって。なんで分かったのかな。ルウェは分かる?」
「………」
「どうしたの?あ、早く食べたいよね。ごめんごめん」
「望…」
「ん?どうしたの?」
「望…望…」
「もう、どうしたのよ」
「うえぇ…望ぃ…」
ただ泣くことしか出来なかった。
今すぐ望に抱きつきたいのに、身体が動かなかった。
今すぐ望の匂いを確かめたいのに、身体が動かない…。
だから、泣くしかなかった。
嬉しくて、でも、哀しくて。
「…ごめんね、心配かけて」
「望…うえぇ…」
「もう大丈夫だから。お医者さんが治してくれたから」
「うん…うん…」
「また、一緒に旅が出来るよ」
「うぅ…うえぇ…」
望は、そっと抱き締めて、頭を優しく撫でてくれた。
望だ…。
この匂いも感触も、全部間違いないんだぞ…。
望…。
本当によかった…。
本当に…。