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凡人枠シリーズ

前世が産婦人科医だったので異世界で「安全な出産」を広めたら聖女より崇拝された

掲載日:2026/04/05

一 神様の予算が足りない


 真っ白な空間で目が覚めた。


 ベッドはない。天井もない。壁もない。あるのは白い空間と、目の前に立つ——青年。


 中性的な顔立ち。サイズの合っていないとんがり帽子。星柄のマント。「MAGIC」と刺繍されたチープな杖。——胡散臭い魔法使いのコスプレ。


 「やあ、初めまして。私はツクヨ。転生管理局の窓口担当です。——あなたは先ほど、お亡くなりになりました」


 ツクヨが、疲れた目で言った。


 (……神様が社畜の目をしている)


 「お亡くなりって……あの、それ、この胡散臭いコスプレの方に言われても」


 「これはコスプレじゃなくて上層部が指定した正装です。——センスは問わないでください」


 「死因は急性心不全。享年34。——お若いのに。残念です」


 知っている。大学病院の産婦人科で36時間連続のオンコールをこなし、仮眠室のベッドに倒れ込んで——そのまま目が覚めなかった。過労死だ。


 「34歳で過労死する職場を残念と言うなら、労働基準監督署に言ってください」


 ツクヨが苦笑した。


 「さて。転生先は異世界になります。通常、転生者にはチートスキルを一つお渡しするのですが——」


 チートスキル。小説で読んだことがある。鑑定とか、無限収納とか、全属性魔法適性とか。


 「今期の予算が厳しくて」


 「……予算?」


 「神界にも予算があるんです。前四半期に勇者を3人出したので、チートスキルの在庫が枯渇しておりまして」


 「神界にも四半期決算があるんですか」


 「あります。監査も入ります。——というわけで、お渡しできるスキルがこちらです」


 ツクヨがチープな杖をかざした。光る文字が浮かぶ。


 【読み書き(この世界の言語)】


 「…………」


 「…………」


 「それ、チートじゃなくて生活必需品ですよね」


 「はい」


 「異世界で読み書きできなかったら生活できないですよね」


 「はい」


 「つまり、チートスキルは実質ゼロということですか」


 ツクヨが深々と頭を下げた。


 「申し訳ございません。来期の予算案には改善要求を出しております」


 「来期って、私もう転生するんですけど」


 「……本当に申し訳ございません。——というわけで、あなたは『凡人枠』での転生になります。予算の都合で、チートスキルを付与できない方を凡人枠と呼んでおりまして」


 「名前からして不穏ですね」


 「しかしご安心ください。凡人枠とはいえ、前世で活躍された方、あるいは前世の能力を活かせる分野に配属しております。決して無責任な配置ではございません」


 「それ、ブラック企業の社長が『うちはやりがいのある職場です』って言うのと同じ構造ですよね。残業代の代わりにやりがいを支給するやつ」


 ツクヨが目をそらした。とんがり帽子の先端が微妙に揺れた。


 「……重ね重ね申し訳ございません。——あの、何かご要望があれば、できる範囲で対応します。本当にできる範囲で」


 できる範囲。


 「……聴診器をください」


 「はい?」


 「聴診器。胸に当てて心臓の音を聞く道具です。あと、メスと鉗子と縫合針のセット。前世で使っていた産婦人科の手術道具一式。——できれば滅菌パックで」


 ツクヨが首を傾げた。とんがり帽子が少しずれた。


 「武器ではなく? 剣とか、魔法の杖とか——」


 「私は産婦人科医です。剣はいりません。人を斬る道具ではなく、命を取り上げる道具をください」


 ツクヨが、少しだけ微笑んだ。胡散臭いコスプレのくせに、その笑顔は怖いほど優しかった。


 「——承知しました。医療器具一式、ご用意します。こちらは予算外の『備品枠』で処理できますので」


 「備品枠」


 「はい。武器や防具と違って需要がないので、在庫は潤沢です。——もっとも、こういった専門道具のリクエストが全くなかったわけではありません。稀に、前世の道具を希望される方がいらっしゃいます」


 「そうですか。……私だけが物好きというわけではないんですね」


 「あの、最後に一つ。——転生先ではお体に気をつけてください。前世の死因が過労死なので……窓口担当としても、その、心配です」


 「ありがとうございます。——36時間オンコールを禁止にしてくれると、もっとありがたいんですが」


 「それは転生先の問題なので管轄外です。申し訳ございません」


 視界が白くなる。意識が薄れていく。


 ——最後の最後に思ったのは、「チートなしで異世界に放り込まれる恐怖」ではなく、「あの聴診器、ちゃんとリットマンのカーディオロジーⅣにしてくれるだろうか」だった。——あと、あのとんがり帽子、上層部の指定って本当だろうか。上層部のセンス、大丈夫だろうか。凡人枠より心配だ。



二 回復魔法は出産に効かない


 ユウスケ。それが転生後の名前だった。前世の「佐伯陽介」から、ツクヨが「現地に馴染むよう調整しました」と言っていた。名前を変えても凡人枠は凡人枠だ。


 性別は男性のまま。年齢は18歳。身分は——なし。国籍もない。貴族でも平民でもない、どこにも属さない流れ者として、異世界の平原に放り出された。せめて平民の身分証くらいつけてくれても良かったのではないか。備品枠で処理できなかったのだろうか。


 34歳で死んで、18歳の体で目を覚ました。若い。だが、若さ以外に取り柄がない。魔法は使えない。剣も振れない。体力は鍛えたこともない18歳のそれだ。


 最初の2年は、生き延びるだけで精一杯だった。【読み書き】のおかげで看板は読める。契約書も理解できる。薬草図鑑も読み漁れた。——これがなかったら文字通り路頭に迷っていた。チートスキルとは呼べないが、命は繋いでくれた。ツクヨさんの判断は正しかった。


 根性だけはある。36時間オンコールを何百回も耐え抜いた根性は、異世界でも通用した。雑用でも何でもやった。なんとか人並みの生活ができるようになった頃——20歳の時に、勇者パーティーに拾われた。


 異世界に来て分かったことが三つある。


 一つ、この世界には魔法がある。


 二つ、この世界の産婦人科は壊滅的だ。


 三つ、チートスキルがないと、本当に何もできない。


 勇者パーティーの鑑定士に調べてもらったら、ステータスは全項目が「一般人以下」。唯一の持ち物は、ツクヨがくれた医療器具一式と、前世で2,000件以上のお産に立ち会って蓄積した知識と技術。


 勇者パーティーに拾われた時、勇者にこう言われた。


 「お前、医者なんだろ? だったら回復魔法を覚えろ。パーティーに回復役が必要なんだ」


 回復魔法。この世界の万能薬。怪我を治し、病気を癒し、毒を消す。——だが私は回復魔法が使えない。魔力がない。文字通りのゼロだ。


 「回復魔法が使えないなら要らない。剣も振れない、魔法も使えない。お前に何ができる?」


 ——子供を取り上げることができる。


 と言いたかったが、勇者パーティーに妊婦はいないので、黙っていた。


(まあ、勇者のほうが先に倒れそうな生活習慣だが。パーティーの健康チェックを頼まれた時に分かった。皮下脂肪が厚い。食事内容と運動量から見て、内臓脂肪も相当だろう。——前世の触診技術と問診は、魔法がなくても使える。チートスキルよりも、この手のほうが正確だ)


 追放された。


 ——小説で読んだことがある。流行の展開だ。パーティーから追放された主人公が、実はとんでもない能力に目覚めて、元パーティーが「あいつを追い出すんじゃなかった」と後悔する。いわゆる「ざまあ」展開。じゃあ、このあと、私も凄い能力に目覚めて、晴れて「ざまあ」になるわけだが——


 もちろん、そういうことはなかった。


 能力に目覚めない。覚醒しない。隠された血統もない。チートスキルは来期の予算案にも載っていない。


 「ざまあ」ないのは、私のほうだった。


    * * *


 辺境の村、エルデの里。


 人間とエルフが混在する、戸数30ほどの小さな集落だ。追放された私は、ここで何とか生きている。村の古老に教わった薬草の知識と基本的な診察で、村の「何でも屋」のような立場だ。腰痛の老人、発疹の子供、二日酔いの村長。——二日酔いは週3回来る。


 赴任……ではなく、この村に落ち着いて数ヶ月。ある日、村長に呼ばれた。


 「先生、お産の経験はありますかな」


 ——ある。前世で2,000件以上。


 「はい、前世で——ごほん。えー、『以前から』少しだけ経験がありまして」


 (危ない。口が滑った。まだ22歳だ。2,000件の経験があるなどと言ったら正気を疑われる)


 「実は、村にお産を控えた女性がおりましてな。あと少しで臨月に入るのですが……不安だと」


 当然だ。聞けば、この村では過去10年で出産が12件。うち3件で母体が死亡している。死亡率25%。——前世の日本は、世界で一番赤ちゃんが安全に生まれる国だった。妊産婦死亡率は10万件あたり約4件。比較にならない。


 「回復魔法の使い手は?」


 「おりますが……いつも『できることはやった』と言うだけで、結局……」


 私は、この世界の出産事情を調べ始めた。——調べるほど、血の気が引いた。


 この世界の出産は、「回復魔法があるから安全」ということになっている。


 ——嘘だ。


 回復魔法は「病気と怪我」に効く。骨折、切り傷、感染症、毒——これらには劇的な効果がある。だが、妊娠・出産には——ほとんど効かない。


 なぜか。


 妊娠は、病気ではないからだ。


 前世でもそうだった。日本の健康保険は「疾病」に適用される。妊娠・出産は疾病ではない。だから健康保険の適用外だった。経済的な補助はあったが、制度の根幹として「病気ではない」という扱いだった。——妊娠は、並みの病気や怪我よりもはるかに体に負担がかかる。10ヶ月にわたって臓器が押しやられ、骨盤が開き、血液量が1.5倍に増える。なのに「病気ではない」から、制度の網にかからない。


 この世界の回復魔法も同じ構造らしい。村の回復魔法使いに聞いたところでは、回復魔法の本質は「体を正常な状態に戻す」ことだそうだ。——私自身は魔法が使えないので、聞きかじりの知識だが。病気や怪我は「異常」だから、「正常」に戻せる。だが、妊娠は「異常」ではない。胎児は「病原体」ではない。子宮の収縮は「損傷」ではない。陣痛は「症状」ではない。


 ——だから回復魔法は、陣痛を止められないのだそうだ。胎位異常を直せない。分娩時の出血を「怪我」として処理しようとすると、子宮の正常な収縮まで止めてしまうらしい。


 つまりこの世界では、「回復魔法があるから安全」という神話のもとで、実際には——妊婦が適切なケアを受けられずに死んでいる。


 病気より大変なのに、病気じゃないから、誰も本気で向き合っていない。


 ——前世と同じだ。


 前世の産婦人科学が、そっくりそのまま必要だ。


 チートなし。魔法なし。あるのはこの手と、2,000件の経験と、ツクヨにもらった聴診器だけ。


 ——十分だ。前世だって、最後に頼るのはこの手だった。


(ツクヨさん、チートスキルはいりませんでした。この聴診器のほうが、よほど役に立ちます。——備品枠で処理してくれたおかげです。転生管理局で一番有能なのは、チートスキル開発部門じゃなくて備品管理課なのでは)



三 最初の患者


 リーナ。人間とエルフの混血。24歳。初産。妊娠34週。


 村長に連れてこられた彼女は、爪を噛む癖があった。——不安が体に出ている。


 「先生……って呼んでいいですか。本当にお産の経験が……」


 「あります。信じてもらえるかどうか分かりませんが——」


 一度、言葉を切った。この世界に来てもう何年にもなるが、誰にも言わなかった。言えなかった。22歳の若者が「前世の記憶がある」と言ったら、頭がおかしいと思われる。村長にも口を滑らせかけただけで、ごまかした。


 だが、目の前に不安で爪を噛んでいる妊婦がいる。この人には、嘘をつけない。医者として。


 「——私は前世で産婦人科医でした。別の世界で、赤ちゃんを取り上げる専門の医者をしていました。お産に立ち会ったのは2,000件以上です」


 リーナが目を丸くした。——だが、その驚き方は「頭がおかしい人を見る目」ではなかった。


 「先生……それ、もしかして——『転じてんじびと』ですか」


 「転じ人?」


 「別の世界から来て、前の世の記憶や技を持っている人のことです。……エルフの古老から聞いたことがあります。伝説だと思っていましたけど。——時には、凄まじい力……超常の術を使う者もいると」


 チートスキル持ちの勇者のことだろう。この世界では転生者の存在自体は、少なくとも伝承としては知られているらしい。


 「凄まじい力は、残念ながらありません。予算の都合で」


 「予算……?」


 「こちらの話です。——ただ、前世の医学の知識と技術はあります。力ではなく、手の技術です。2,000件分の」


 リーナが、爪を噛む手を止めた。


 「に、2,000……。先生、22歳ですよね……?」


 「今の体はそうです。前の世では34歳で死にました。——信じてもらえますか」


 リーナがしばらく黙った。そして、ゆっくり頷いた。


 「……先生の手を見ていたら、信じられます。さっき村長の二日酔いを診ていた時の手つき……22歳の手じゃなかった」


 ——見ていたのか。


 「というわけで、まず健診をさせてください。お腹を触らせてもらっていいですか」


 手をリーナのお腹に当てた。前世のレオポルド触診法。手のひらの感覚で、胎児の位置、大きさ、向きを確認する。——魔法は要らない。熟練した産婦人科医の手は、超音波がなかった時代から、これだけで赤ちゃんの状態を診てきた。


 (頭位。頭が下。問題ない。大きさは週数相応。お腹の張りは正常範囲。——ただし、骨盤がやや狭い。経腟分娩は可能だが、注意が必要だ)


 次に、聴診器を取り出した。ツクヨにもらった、前世と同じリットマンのカーディオロジーⅣ。——ちゃんとリクエスト通りのものをくれたらしい。


 「リーナさん。赤ちゃんの心臓の音、聞いてみますか?」


 「え? そんなことが……」


 聴診器をリーナの腹部に当てた。胎児心音を探す。——前世では超音波ドップラーで簡単に拾えたが、聴診器だと位置を探すのにコツがいる。胎児の背中側に当てるのがポイントだ。


 ——聞こえた。


 トクトクトクトク。小さな、速い鼓動。


 聴診器の片耳をリーナに渡した。


 「——聞こえますか」


 リーナの目から涙がこぼれた。


 「……っ、これが……この子の……」


 「はい。大人の心臓の倍くらいの速さで打ってるんです。元気な証拠ですよ。——ついでに言うと、今、お母さんのほうがドキドキしてますね」


 「だ、だって……初めて聞いたんです。この子の音。お腹が動くのは分かってたけど……」


 そうか。この世界には、聴診器も超音波検査もない。妊婦は、お腹の中の命の存在を、胎動でしか感じられない。「元気かどうか」も、「ちゃんと育っているかどうか」も、分からないまま出産の日を迎える。


 ——それは、怖い。


 リーナの爪は、不安で噛んだのだ。


 「これからは定期的に健診をしましょう。赤ちゃんの大きさ、向き、心臓の音、お母さんの体調。全部チェックします。前世では『妊婦健診』と呼んでいました」


 「妊婦健診……」


 「病気じゃないから回復魔法は効かない。でも、病気じゃないからこそ——ちゃんと診る必要があるんです。回復魔法で治せないものは、予防するしかない。——魔法は使えませんが、この手と、この聴診器があります」


 リーナが泣き笑いの顔で言った。


 「先生……もっと早く会いたかったです」


    * * *


 妊婦健診を始めた。


 最初はリーナ一人だったが、「赤ちゃんの心臓の音が聞ける」という噂を聞いた近隣の村からも妊婦が来るようになった。全員泣く。例外なく泣く。夫も泣く。——前世では当たり前だったことが、ここでは奇跡だ。気がつけば、診療所の前に「妊婦健診の予約は先着順です」の看板を出す羽目になっていた。


(ツクヨさん。聴診器、大活躍です。チートスキルより聴診器のほうが人を泣かせます。——来期の予算が通ったら、チートスキルの代わりに全員に聴診器を配ったらどうですか。勇者も一本持っておくべきです。血圧とか測れますし)


 やることは地味だ。触診で胎児の状態を確認し、聴診器で心拍を聴き、脈で母体の血圧を推定し、栄養指導をし、異常の早期発見に努める。前世なら新人研修でやるレベルの「妊婦健診」だ。魔法は一切使わない。使えないのだから当然だが。


 だが、この世界では革命だった。


 「赤ちゃんが逆さまになっている——骨盤位、いわゆる逆子の場合は、こうしてお腹の外から手で赤ちゃんの向きを変えます。外回転術と言います」


 「魔法も使わずに逆子も直せるんですか!?」


 「前世でも魔法なしで直してましたよ。手の技術です。——ただし、タイミングが大事です。妊娠36〜37週ごろが最適です。早すぎると自然に戻ることも多いし、遅すぎると赤ちゃんが大きくなって回りにくくなる」


 「先生、妊娠中に食べちゃいけないものってありますかな」


 「あります。この世界の『ゴルゴンの実』、生で食べると胎児に影響する寄生虫がいます。加熱すれば大丈夫です。あと、魔力を高める系の薬は控えてください。——胎児の魔力回路が未発達なので、暴走する可能性がある」


 「魔力増強ポーション、飲んでたんですけど」


 「今日からやめてください。——あと、飲酒もやめてください。前世で——」


 何人かが怪訝そうな顔をした。


 「……えー、以前から一貫して申し上げていることですが、アルコールは妊婦にとって大敵です」


 (また口が滑った。リーナは知っているが、他の妊婦たちには話していない。この22歳の若者が「前世」とか言い出したら完全に変人だ。……リーナがフォローしてくれることを祈ろう)


 「えっ……エルフの薬草酒も?」


 「エルフだろうが人間だろうが、アルコールは胎盤を通過します。赤ちゃんにも届きます」


 妊婦たちの顔が一斉に曇った。


 ——「薬草酒なのにダメなの?」の顔。薬草だろうが何だろうが、アルコールはアルコールだ。「体にいいお酒なら大丈夫でしょ?」の顔は、どの世界でも共通だ。前世で1万回くらい見た。


 「あと、もう一つ。——体重管理もしましょう。妊娠中の理想的な体重増加は——」


 全員が目をそらした。一人は窓の外を見始め、一人は急に爪の手入れを始めた。


 ——この反応も、どの世界でも共通だ。「先生、体重計壊れてません?」は、種族を超えた名言だ。



四 エルフの出産


 リーナの出産予定日が近づいていた。初診から4週間。リーナは38週を迎え、お腹はすっかり大きくなった。赤ちゃんも順調に育っている。——健診のたびに、爪を噛む回数が減っている。


 そんな折、村に馬車が到着した。紋章入りの、見るからに高級な馬車だ。馬ではなく、角の生えた白鹿が牽いている。——エルフの上位貴族だ。村長の二日酔いが一瞬で醒めた。


 中から降りてきたのは、銀髪のエルフの女性。透き通るような肌に、翡翠の瞳。年齢は——エルフだから分からない。20歳にも200歳にも見える。後から聞いた話では、エルフの初産としてはまだ若いらしい。


 ——そして、臨月だった。辺境まで馬車で来るのは相当に無茶だ。だが、回復魔法が効かない体質では、他に頼れる場所がなかったのだろう。


 「あなたが……『聴診器の先生』ですか」


 「はい。どちらさまで」


 「セレスティア・イル・ファルネーゼ。エルフ族、ファルネーゼ侯爵家の嫡女です」


 侯爵家。——大物だ。


 「噂を聞いて参りました。魔法を使わずにお産をする人間の医者がいると。——私は、回復魔法が効かない体質なのです」


 「……お子さんのお父様は?」


 セレスティアの目が一瞬だけ揺れた。


 「——魔王軍との戦で。半年前に」


 それだけ言って、口を閉じた。——これ以上は聞かない。医者に必要なのは、目の前の患者と赤ちゃんの情報だけだ。


 珍しくはない。前世でも、特定の薬にアレルギーがある患者はいた。この世界では「回復魔法への抗魔体質」と呼ばれているそうだ。数百人に一人の確率で存在するらしい。——私は魔法の理論には不案内だが、「効かない人がいる」という事実だけは、医者として確実に把握しておく必要がある。


 「王都の神殿で聖女様に診ていただきましたが、『回復魔法が効かないなら、できることはない』と——言われました」


 セレスティアが一瞬、唇を噛んだ。


 「つまり、見捨てられました」


 声は冷静だった。だが、手が震えていた。


 「診ましょう」


 セレスティアに横になってもらい、触診を始めた。リーナが横で補助する。——リーナはもう、私の「前世」の話を知っている。どうやらセレスティアが診察室に入る前に、「あの先生は、前世の記憶がある人なんです」と耳打ちしていたらしい。セレスティアは、「前世」という言葉に驚かなかった。エルフは長命だから、輪廻転生の概念にも馴染みがあるのかもしれない。


 前世と同じレオポルド触診法だ。手のひらで子宮底の高さを測り、胎児の向きを確かめ、聴診器で心拍を聴く。——魔法のスキルはない。あるのは、2,000件の経験で鍛えた手の感覚だけだ。


 ——胎児心拍:聴診器で確認。正常範囲。ただし——


 (胎児が横を向いている。横位だ。経腟分娩は不可能。——加えて、腹部の触診で下腹部に不自然な膨らみがある。前置胎盤が疑われる。前世なら絶対に超音波で確認するが、この世界に超音波はない。前置胎盤疑いでの不用意な内診は、胎盤を傷つけて致命的な大出血を招く——絶対的禁忌だ。指先で確かめたい衝動を抑える。内診はしない。腹部触診の所見だけで判断する。子宮底の形状、胎児の位置、下腹部の硬さ。2,000件の経験が、前置胎盤だと告げている。——帝王切開一択。しかも、回復魔法が効かない患者。リーナより先に、こちらを急がなくてはならない)


 前置胎盤に横位。回復魔法不可。しかも確定診断のための超音波もない。——前世でも「上級医を呼べ」と叫ぶレベルの症例だ。


 ここには上級医はいない。——私しかいない。


 「セレスティアさん。率直に申し上げます。自然分娩は危険です。赤ちゃんの向きと、胎盤の位置に問題があります」


 「……やはり」


 「ですが、方法はあります。——帝王切開という手術です」


 「帝王……?」


 「お腹を切り開いて、赤ちゃんを直接取り出す手術です」


 ——帝王切開。前世の言葉で「Cesarean section」。名前に「帝王」とあるが、実は皇帝とは関係がない。ラテン語の「caedere」——「切る」という動詞が語源で、それがドイツ語で「Kaiserschnitt」——「皇帝の切開」と誤訳され、日本語で「帝王切開」になった。翻訳の連鎖的な誤解だ。もっとも、この世界にラテン語もドイツ語もないので、説明しても仕方がない。


 かつてこの術式は、母体が助からない場合にせめて胎児だけでも救う、最後の手段だった。19世紀になって、麻酔と消毒の技術が進歩し、さらに子宮の縫合技術が確立されて——母体も胎児も救える安全な術式へと変わった。前世の時代には世界中で年間数千万件。日本では約4人に1人がこの方法で生まれていた。


 ——その技術を、今からこの異世界の診療所で、一人でやる。


 セレスティアが息を呑んだ。


 「お腹を……開く? 回復魔法も、特別な魔法もなしで——」


 「はい。私の前世には回復魔法はありませんでした。——リーナさんから聞いているかもしれませんが、魔法そのものがない世界です。全ての手術を、人間の手と道具だけでやっていました。——私はそのうち帝王切開を370件以上執刀しています」


 セレスティアが私を見つめた。長い沈黙があった。


 「……先生。もう一つ聞いてよろしいですか」


 「どうぞ」


 「怖く——ないのですか」


 正直に答えた。


 「怖いです。いつも怖い。2,000件やっても慣れませんでした。——でも、怖いからこそ丁寧にやるんです。怖くなくなったら医者をやめるべきだ、と前世で教わりました」


 セレスティアが、微かに笑った。——この状況で笑える人は、強い。


 「……先生。あなたを信じます。——この子と、私の命を預けます」


    * * *


 帝王切開の準備を始めた。


 前世の設備はない。手術室もない。モニターもない。電気メスもない。魔法もない。チートスキルもない。——だが、あるものはある。前世の知識と技術。ツクヨがくれた手術道具一式。そして、この手だ。


 「消毒は、エルフの蒸留酒。アルコール度数が70を超えるから消毒液として使えます。——はい、飲むんじゃないです。手を洗うんです」


 「もったいない……」と村長が泣いた。「3年物の特級品ですぞ……」


 「命と酒、どっちが大事ですか」


 「……命です」


 「よろしい。——次。縫合糸はミスリル糸を使います。魔力を帯びているので抗菌性があり、数ヶ月で生体に吸収されて消える。前世の吸収糸より優秀です。——これは前世にはなかった素材です」


 セレスティアがかすかに笑った。「先生は、『前世』という言葉を当たり前のようにお使いになるのですね」


 「……もう隠しても仕方がないので。——信じてもらえますか」


 「リーナから聞いています。それに、エルフは長命ですので。前の世の記憶を持つ者がいても、驚きません」


 「麻酔は?」


 「この世界の睡眠魔法を応用してもらいます。腰から下だけに弱くかける。意識は保ったまま、下半身の感覚だけを消す。——リーナさん、あなたに睡眠魔法の制御をお願いしたいのですが。私は魔法が使えないので」


 (前世の硬膜外麻酔と同じ効果を狙う。麻酔科医がいない以上、魔法で代用するしかない)


 リーナが頷いた。臨月の妊婦が手術の補助をする。——前世の先輩に話したら卒倒するだろう。だが、リーナの体調は安定しているし、エルフの血を引く彼女は睡眠魔法の適性が高い。村の回復魔法使いに確認したが、睡眠魔法は「畑違い」だと断られた。何より、他に頼める人がいない。


 「リーナさん。必ず椅子に座って、無理な体勢は取らないでください。お腹が張ったらすぐに言ってください。——あなたの赤ちゃんも、私の患者です」


(産婦人科医は、前世でも看護師不足のなか自分で消毒、自分で器具出し、自分で記録を書いていた。転生しても何も変わっていない。チートスキルがあっても解決しない問題だ。……ツクヨさん、次の予算案に「人員配置の改善」も入れておいてください。チートスキル『分身の術』があれば前世から欲しかった)


 「先生、他に必要なものは?」


 「清潔な布を大量に。お湯。それと、細い管を一本——尿を通すための導尿管です。お腹を開ける前に、膀胱を空にしておかないと危ない。切開のすぐ下に膀胱があるので、膨らんだままだと傷つけてしまう」


 村長が顔を真っ赤にした。


 「そ、それはその……侯爵家のご令嬢に対して……」


 「医療行為です。照れている場合ではありません。——それから、子宮収縮薬の代わりになる薬草を。あらかじめ採取して乾燥させておいた『惑星草』がありますので、煮出しておいてください。子宮の収縮を促す成分が含まれています。手術後の出血を抑えるために必要です」


 (前世ではオキシトシンの静脈投与で済んだ。この世界にオキシトシンはない。だが、前世の薬理学の知識と、この世界の薬草図鑑を2年かけて読み漁った成果だ。麦角アルカロイドに似た成分を含む薬草が、この世界には存在する。——チートスキルではない。勉強の成果だ)


 「それと——」


 私は一度、深呼吸した。


 「——落ち着いた空気が必要です。手術で一番大事なのは、術者の腕じゃない。その場の空気です。誰か一人でもパニックになると、全員に伝染する。深呼吸。はい、皆さんもどうぞ」


 全員が深呼吸した。村長が一番深かった。——酒を消毒に使われたショックからの回復だろう。


 「セレスティアさん。準備はいいですか」


 「はい。——先生、一つだけお願いがあります」


 「何でしょう」


 「この子が生まれたら——最初に泣き声を聞かせてください。私に」


 「もちろんです。それは医者の仕事ではなく、お母さんの権利です」


 セレスティアが目を閉じた。その表情は、恐怖でも諦めでもなかった。静かな、覚悟だった。


 診療所が静まり返った。窓の外で鳥が鳴いている。それ以外の音は、ない。


 手術が始まった。



五 おかえりなさい


 セレスティアの腹部に、最初の切開を入れる。メスは、ツクヨにもらった前世と同じものだ。


 手が——震えなかった。2,000件の記憶が、この手に残っている。前世の体は死んだが、技術は魂に刻まれていた。チートスキルではない。36時間オンコールを何百回も繰り返して得た、人間の技術だ。


 「切開します。——リーナさん、睡眠魔法の強度、そのまま維持して」


 「はい……っ」


 皮膚、皮下脂肪、筋膜、腹膜。一層ずつ、丁寧に開いていく。子宮に到達。前置胎盤が疑われる以上、胎盤の位置を避けて切開しなくてはならない。——前世なら超音波ガイド下で胎盤の位置を確認しながら切る。今は超音波がない。チートスキルもない。


 手のひらを子宮に当てた。前置胎盤の輪郭を、触診で探る。——指先に伝わる硬さの違い。胎盤の縁を、手の感覚だけで分ける。


 前世の超音波検査の精度には及ばない。でも、超音波がなかった時代の産婦人科医は、こうして手の感覚だけで手術をしていた。——私はその技術を、前世で学んだ。


 胎盤を避けて、子宮下部にメスを入れる。切る場所を1センチ間違えれば大量出血になる。


 ——切れた。正しい場所だ。


 小さな切開を起点に、両手の指で横方向に鈍的に広げていく。——前世のKerr法。メスで切るのではなく、指で広げる。そのほうが血管を傷つけにくい。子宮の筋繊維は横方向に走っているから、横に広げれば筋繊維に沿って開く。前世の産婦人科医なら誰でも知っている基本だが、この世界では私しか知らない。


 子宮を開いた。


 羊水が溢れ出る。——その向こうに、小さな体がいた。


 「……いた」


 横向きの赤ちゃんを、そっと手で回転させながら取り出す。頭、肩、体——手の中に、温かい重さが来た。


 前世で2,000件のお産を通じて感じてきた重さだ。——何回感じても、同じだ。命の重さは、グラム数では測れない。


 赤ちゃんがまだ泣かない。


 ——1秒。口腔内の羊水を拭う。


 ——2秒。背中をさする。


 ——3秒。まだ泣かない。


 リーナが息を飲んだ。村長の深呼吸が止まった。


 ——4秒。足の裏を指で弾く。


 泣いた。


 「おぎゃあ!」


 診療所が、声で満たされた。


 ——この音だ。


 この世界に来て、何度も魔法を見た。竜も見た。勇者の聖剣も見た。だが、生まれたての赤ん坊の泣き声以上に神聖な音は、どの世界にもない。


 「——女の子です。おめでとうございます。元気ですよ」


 へその緒を切り、素早くお湯で拭いて清潔な布で包む。

 「村長、赤ちゃんを。——絶対に落とさないでくださいね」

 「ひ、ひぃぃ……っ! 落とすくらいなら私が床にクッションとして身を投げますぞ!」

 村長が、貴重な蒸留酒の瓶よりも慎重な手つきで、震えながら赤ん坊を受け取った。


 私はセレスティアの処置に戻る。まず、胎盤。子宮内を手で確認し、胎盤を用手的に剥離・除去する。卵膜の残留がないことを確認。前世ならここでオキシトシンを静注するが、代わりの手立ては打ってある。


 「リーナさん、片手は空きますか。先ほど煮出した惑星草の汁を布に浸して、セレスティアさんの口に含ませてください。——私の手は今、清潔域です。患者の口に触れたら、このまま縫合に戻れなくなる」


 仰向けの患者に無理に液体を飲ませれば気管に入る危険がある。こうして粘膜からゆっくり吸収させるのだ。子宮の収縮を促し、出血を抑えるためだ。


 子宮筋層をミスリル糸で縫合する。2層に分けて丁寧に縫う。——前世では1層縫合との優劣が議論されていたが、この世界には次回妊娠時の経過観察ができる画像診断がない。2層にして、安全側に倒す。縫合の滑らかさは驚くほどだった。——前世にはなかった素材だ。異世界にもいいものはある。


 子宮漿膜、腹膜、筋膜、皮下組織、皮膚。一層ずつ、丁寧に閉じていく。開けた層を、一つも飛ばさずに。


 止血を確認し、縫合を終えて——母子ともに健康。村長から赤ちゃんを受け取り、セレスティアの胸にそっと乗せた。母親の肌に直接触れさせる。体温で温め、心拍を聞かせる。前世のエビデンスでは、生後すぐの肌の接触が母子の愛着形成に効果があるとされている。


 銀髪のエルフが、涙を止めようとして——止められずに泣いた。


 赤ちゃんの指が、セレスティアの銀髪を握った。小さな手に、銀色の糸が絡まる。


 「……っ……この子が……」


 「よく育ちました。——お母さんが頑張ったからです」


 セレスティアが赤ちゃんを見つめた。赤ちゃんが目を開けた。——翡翠色の、お母さんと同じ瞳だ。


 「……先生」


 「はい」


 「『おめでとう』って——こんなに、嬉しい言葉だったんですね」


 私は笑った。——異世界での最初の「おめでとう」。前世で何千回も言った言葉が、こんなに感慨深かったことはない。


 「ええ。——『おめでとう』は、世界で一番最初の『おかえりなさい』です。この世界に、ようこそ」


 セレスティアが泣いた。赤ちゃんも泣いた。リーナも泣いた。村長も泣いた。——村長は、深呼吸と号泣を同時にしようとして盛大にむせた。


 ——前世の手術室では、自分は泣かなかった。プロだから。医者は泣かない。泣く暇があったら次の処置をしろ。指導医にそう教わった。


 でも、ここは手術室ではない。異世界の、小さな村の診療所だ。


 泣いた。前世では一度も泣かなかったのに——初めて、泣いた。


(ツクヨさん。チートスキルはなくても、大丈夫でした。——ありがとう。聴診器と、この手があれば——十分です)


 ——ふと、窓の外に三日月が見えた。満月にはまだ遠い、細い月。


 気のせいかもしれないが——あのとんがり帽子の形に似ている気がした。いや、とんがり帽子はこんなに細くない。——でも、微笑んでいるように見えた。


    * * *


 翌日。


 セレスティアがベッドの上で赤ちゃんに授乳していた。授乳の仕方も指導した。赤ちゃんの口の開け方、抱き方の角度、左右交互に飲ませること。この世界には「授乳指導」という概念がそもそも存在しなかった。——魔法では教えられないことだ。


 「先生。——産後の体調管理でお伺いしたいのですが」


 「はい?」


 「私、泣いてばかりなんです。赤ちゃんの顔を見ると泣けて、寝顔を見ると泣けて、さっきくしゃみしただけで泣いてしまって……。おかしいのでしょうか」


 「おかしくないです。産後はホルモンバランスが大きく変動するので、感情が不安定になるのは正常です。前世では『マタニティブルーズ』と呼んでいました。——数日から2週間ほどで落ち着きますが、2週間以上続くようなら相談してください」


 「……前世の医学は、心の問題も扱うのですね」


 「ええ。——産科で一番見落とされがちなのは、体ではなく心のケアです。魔法では治せない領域です」


 セレスティアが微笑んだ。——泣きながら。


 「先生、一つ聞いてもいいですか」


 「どうぞ」


 「前世で2,000件のお産に立ち会って——先生ご自身には、お子さんは?」


 「……いません。36時間連続のオンコールの合間に、恋愛をする暇がなかったもので」


 「36時間……?」


 「産婦人科医は、赤ちゃんが生まれるタイミングを選べないんです。深夜だろうが未明だろうが朝食中だろうが、破水したと連絡が来たら走る。デートの約束は3回に2回キャンセルしました。——3回目で相手がいなくなりました」


 「……ひどい話ですね」


 「ええ。前世では、自分の生活を犠牲にして他人の命を守っていました。結果、過労死しました。——皮肉なことに、2,000件のお産に立ち会って、自分は一度も親になれなかった」


 セレスティアが黙った。しばらく、赤ちゃんの寝息だけが聞こえた。


 「……今世では、ご自分の人生も大切にしてください」


 「努力します。——ツクヨさんにも同じことを言われました」


 「ツクヨ?」


 「転生する時に会った、転生管理局の窓口担当です。とんがり帽子のコスプレで。『お体に気をつけて』と言ってくれました。——窓口担当に体の心配をされる凡人枠、なかなかないですよ」


 セレスティアが、くすりと笑った。


 「先生」


 「はい?」


 セレスティアが、赤ちゃんを胸に抱いたまま、こちらを真っ直ぐに見た。


 「娘の名前、先生に付けていただけませんか。——命を救ってくれた人に名付けを頼むのは、エルフの風習です」


 前世では、患者の子供の名前を付けたことはない。そういうルールだった。医師と患者の距離は、適切に保つべきだ。


 でも、ここは異世界だ。前世のルールは、もういい。


 「……ヒカリ。光、という意味です。——前世の言葉で」


 「ヒカリ……」


 セレスティアが、その名を噛みしめるように繰り返した。


 「……素敵な名前ですね。——この子にぴったりです」


 赤ちゃんが——ヒカリが、小さなくしゃみをした。タイミングが良すぎる。


 セレスティアが笑った。——今度は、泣かずに笑った。


 「先生。——この子が大きくなったら、この子のお産も診てくれますか」


 「……エルフの成長速度だと、100年後くらいですかね。長い予約ですね」


 「それまで、ここにいてくれますか」


 ——それは。


 それは、プロポーズだろうか。


 前世では、患者からの好意は受け取らないのが鉄則だった。前世の指導医の顔が浮かぶ。「患者に情が移ったら医者は終わりだぞ」。はい先生、分かっています。分かっていますが、ここ異世界なんです。チートスキルもない代わりに、前世のルールもないんです。


 医師法もない。倫理委員会もない。コンプライアンス研修もない。


 あるのは、目の前の人と、生まれたばかりの命だけ。


 「……長い契約ですね」


 「エルフとの契約は、いつも長いんです」


 私は笑った。——前世では、笑いながら泣くことなんてなかった。


 ——前世では、他人の命を守って、自分の命を使い果たした。


 今世では、命を守りながら——自分も生きよう。


 「100年契約、お引き受けします」


 セレスティアが、微かに息を吐いた。


 「——ユウスケ先生」


 名前で呼ばれたのは、初めてだった。


 「……はい」


 「よろしくお願いします」


 ——その声は、患者が医者に向ける声ではなかった。


 ——もっとも、私は人間だ。エルフの100年は永遠の一部だが、人間の100年は寿命を超える。


 「……先生。人間の寿命では、100年は……」


 「ええ。途中で私はいなくなります。——だから、弟子を育てます。私がいなくなっても、この手と技術が残るように。前世の医学は、何百年もかけて何万人もの医者が技術を繋いできた。一人が100年生きなくても、技術は生き続けます」


 セレスティアが目を細めた。


 「……それもまた、エルフの発想に近いですね。一つの木を何世代にもわたって育てるのが、エルフの流儀ですから」


 「では、これは木を育てる契約です。100年の間に、種をたくさん蒔きましょう」


 赤ちゃんが、もう一度くしゃみをした。——承認の合図だろうか。


    * * *


 その後。


 セレスティアの無事な出産の噂は、ファルネーゼ侯爵家を通じて大陸中に広まった。


 「回復魔法を使わずに安全に出産する医術」。


 人々はそれを「魔法なしの奇跡」と呼んだ。——奇跡ではない。前世では当たり前の医療だ。チートでもない。ただの、人間の技術だ。いつの間にか、王都の聖女様より先に私の名前が挙がるようになったらしい。「妊婦は聖女より聴診器の先生を崇拝している」と。——ただの医者なのでやめてほしいのだが。


 王都から、貴族の領地から、辺境の集落から。妊婦が私の診療所を訪ねてくるようになった。


 「妊婦健診」「帝王切開」「逆子の外回転術」「産後ケア」「授乳指導」——前世では当たり前だったことの一つ一つが、この世界を変えている。回復魔法は一つも使っていない。


 助産師の育成も始めた。私一人では限界がある。——前世でも産婦人科医の不足は深刻だったが、助産師がいてくれたから現場は回っていた。この世界にも、助産師が必要だ。リーナが出産後に最初の弟子になった。セレスティアの帝王切開を補助した経験はだてではなく、今では触診の基本を覚え、聴診器で胎児の心拍を聴く役を任せられるようになった。彼女が心拍を聴かせた妊婦も、例外なく泣く。


 勇者が魔王を倒して王国を救った、と聞いた。——ついでに、勇者が痛風で歩行困難になっているとも聞いた。そうだろうと思う。あの生活習慣では内臓脂肪も相当だろう。チートスキルでは治せない。——生活習慣病だけは、勇者でも自力で戦わなくてはならない。ツクヨさんに頼んでも『尿酸値低下スキルは備品枠でも在庫がございません』と言われるだけだろう。勇者よ、チートの前にまずプリン体を控えろ。


 私は、今日までに47人の赤ちゃんを取り上げた。5人の難産を帝王切開で救った。妊産婦の死亡はゼロだ。——全て、回復魔法なしで。チートスキルなしで。ツクヨさんの予算が足りなくても、命を取り上げるのに予算は要らない。


 勇者の剣が救った命と、この手が迎えた命。——比べるつもりはない。ただ、勇者は命を「守った」が、私は命を「この世界に迎え入れた」。ベクトルが違う。どちらも、必要な仕事だ。


 聖女に「見捨てられた」セレスティアが、今では「産科の聖女」と呼ばれている。——本人は「聖女の称号は辞退します。あの方と同じ肩書きは不愉快ですので」と、侯爵令嬢らしい言い方で断った。


 先日、王都から使者が来た。聖女様からの親書だという。中には「ファルネーゼ侯爵家に対する対応は適切でなかったと反省している。ぜひ一度、聴診器の先生の診療所を視察したい」とあった。


 セレスティアは一読して、静かに笑った。


 「『適切でなかった』。——『見捨てた』とは書けないのでしょうね」


 私は返事には口を出さなかった。医者は政治に関わらない。——ただ、聖女がもし「回復魔法が効かないならできることはない」と言わずに、「回復魔法が効かないなら、魔法以外の方法を探そう」と言ってくれていたら。——セレスティアは、臨月の体で辺境の村まで馬車を飛ばす必要はなかった。


 「ざまあ」展開は、来なかった。能力にも目覚めなかったし、覚醒もしなかった。——でも、「ざまあ」と言われて困るのが聖女のほうだという、この展開は予想外だった。


 リーナも、セレスティアの後に無事出産した。経腟分娩。男の子。3,200グラム。元気。名前は「ソラ」。リーナにも名付けを頼まれた。彼女も半分エルフだから、同じ風習なのだろう。——前世の言葉で「空」だ。泣き声が村一番に大きかった。肺活量は将来有望だ。——リーナはもう爪を噛まなくなっていた。


 そして二年後。助産師としてすっかり頼もしくなったリーナが、走り回るソラを追いかけながら言った。


 「先生、前世では過労死したって聞きましたけど……今世では大丈夫ですか?」


 「セレスティアが健康管理してくれるので、たぶん大丈夫です。——毎日8時間睡眠を義務付けられました。オンコール36時間はファルネーゼ家の家法で禁止されました」


 「家法……侯爵家が法律を?」


 「『あなたが倒れたらこの国の妊婦が困る。よって、夫の健康管理は国家事業です』と。——医者に養生しろとは、患者に言うのは簡単なんですが、言われる側は初めてです」


 リーナがにやりと笑った。


 「奥さんにしっかり管理されてますね」


 「この世界に婚姻届はないようですが……ともあれ、100年契約の、まだ2年目です。——ヒカリのおむつ替えはもう手慣れたものですよ。ただ、産婦人科医は新生児の扱いは得意なんですが、2歳児の自己主張は医学書に載っていなくて苦戦しています」


 「先生、すっかりお父さんですね」


 「毎日が試行錯誤です。——チートスキルに『イヤイヤ期対応』があれば良かったんですけどね。ツクヨさんに要望書を出そうかと。備品枠で『絵本』なら在庫があるかもしれない」


 リーナが声を出して笑った。——初めて会った時、不安で爪を噛んでいた女性が、今は自分の子供を追いかけながら笑う。それだけで、ここに来た甲斐があった。


 「先生。前世で2,000件のお産に立ち会ったんですよね。——先生自身の『おめでとう』は、いつですか?」


 「……そうですね。たぶん——もうすぐです」


 セレスティアのお腹に、新しい命が宿っている。帝王切開から丸二年。子宮の創部が十分に回復するのを待ってからの、産科医がしっかり計画した安全な妊娠だ。


 今度は——自分の子供だ。


 前世で2,000件のお産で言ってきた「おめでとう」を、今度は自分が言ってもらう番だ。


(ただし産婦人科医として一つだけ言えるのは——自分の妻の出産は、自分で執刀しないほうがいい。手が震える。2,000件のお産で一度も震えなかった手が、妻の出産では確実に震える。……弟子のリーナに頼もう。私は待合室で村長と一緒に深呼吸していよう)


 ——命を取り上げることは、世界で一番最初の「おかえりなさい」。


 その「おかえりなさい」を、今度は自分の子供に言う。


 回復魔法は、出産には効かない。チートスキルも、もらえなかった。


 でも、この手があれば——十分だ。


 夜空に、三日月が輝いている。


 転生前に見た、あのとんがり帽子の形に似ている——気がする。ツクヨさん、見てますか。チートなしでも、やってますよ。



(完)

お読みいただきありがとうございます。


この物語の主人公には、チートスキルがありません。異世界転生ものなのに。——それは、産婦人科医という仕事の本質が「人間の技術」だからです。


お産に立ち会う医者に必要なのは、魔法ではなく、手と耳と経験です。レオポルド触診法という技術は、100年以上前に開発され、超音波がない時代や地域では今も使われています。聴診器だけで胎児の心拍を聴く技術も同じです。——現代医療の進歩は素晴らしいですが、それらがなかった時代の医者たちも、同じように命を守っていました。


産婦人科医不足は、現代日本の深刻な問題です。36時間オンコール、24時間365日の呼び出し、訴訟リスク——産婦人科を選ぶ若い医師が年々減っています。でも、あの「おぎゃあ」を聞くために走る人たちがいます。


妊娠は病気ではない。だからこそ、健康保険の適用外だった。だからこそ、この物語では回復魔法が効かない。——でも「病気じゃないから大丈夫」は嘘です。妊娠・出産は、ほとんどの病気や怪我よりも体に負担がかかります。病気じゃないのに、病気より大変。——その矛盾にもっと光が当たってほしいと思います。


「おめでとう」は、世界で一番最初の「おかえりなさい」。

——この一行を書きたくて、この話を書きました。


感想・ブックマーク・評価、何でも嬉しいです。

チートスキルはありませんが、前世より健康的に書いておりますので、安心してお読みください。

神界の予算は来期に改善される見込みです。ツクヨの正装が改善される見込みはありません。

なお、備品枠で聴診器をリクエストしたい方は、転生管理局の窓口までお問い合わせください。在庫は潤沢だそうです。


本作の執筆にあたり、医療監修として専門的な知見を提供してくださった方に深く感謝いたします。お忙しい中、繰り返しの確認と修正に付き合っていただき、本当にありがとうございました。あなたのおかげで、「チートなし」の産科医が、説得力を持って戦えるようになりました。


***


★★★【連載中・まもなく最終回!】★★★

→【連載版】チートで荒らされた領地に赴任したら、前世が地方公務員だったので普通の行政で立て直すことにした


「凡人枠」シリーズの地方公務員版が、ついにクライマックスを迎えます。チートスキルで荒れ放題になった領地を、前世の行政経験——予算管理、住民対応、条例整備——だけで立て直す物語。「チートで壊して、行政で直す」。勇者が蒔いた種を公務員が刈り取る、逆転の領地経営譚。

まもなく最終回です。完結前に追いつくなら今がラストチャンスです!


★★★ 同じ「凡人枠」シリーズ ★★★

→ 前世が小児科医だったので——(好評公開中)

産婦人科医が命を「迎え入れる」話なら、小児科医は命を「育てる」話。この世界の子供たちに、前世の小児医療を届けます。聴診器の先生の後輩が、もうすぐやってきます。お楽しみに。


***


この作品を気に入っていただけたなら、こちらもぜひ:

→「異星人が『お前たちを滅ぼす』と言ったのは誤訳だった——とりあえず、缶コーヒーを出してみた」


よろしければそちらもぜひ!


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>この物語の主人公には、チートスキルがありません。異世界転生ものなのに。 メタ的に考えると、世界設定から送り込まれる転生者と能力が考えられて物語が生まれるのではなく、 凡人枠が活躍するにはどんな世界…
備品枠があって性別転換もせずにすんでるから小児科の先生よりマシなんかな。
>>産婦人科医不足は、現代日本の深刻な問題です。36時間オンコール、24時間365日の呼び出し だというのに、「男性産婦人科医は転科して産婦人科医は女性医師と女性看護師だけにしろ」とかほざいて暴れる…
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