Ⅴ 盟す
「王継忠と申します」
「知っている」
韓徳譲の前では少しぶっきらぼうに振る舞っていたものの、さすがに太后の前だと神妙だ。
「どうされました」
「宋への交渉を補佐を頼んでいたな」
「はい」
太后が目を開く。
「宋への、使節を命じる」
「使節、ですか」
王継忠が混乱したような顔をした。
「我々は、講和への道筋を探りたい」
韓徳譲が引き継いだ。
「そうですか、私でよろしいのですか」
「もちろんだ。逆に貴殿しかできないことでもある」
王継忠が考え込んだ。
「わかりました。やってみます」
「感謝する」
「もう勅書は書いてある。持っていけ」
「はっ」
王継忠が拝礼し、退出した。
「うまく行けばいいのですが」
「どう落ちつかかせるか、見物しましょう」
韓徳譲は宋軍が籠る澶州を眺めた。
王継忠は澶州に入城した。
何人か見たことのある顔がいる。
王継忠は死んだという噂も流れるほどの負傷をしたのだから、宋側も強気には出られないはずだ。
「勅書を読み上げます」
宰相らしき男が頷いた。
「柴栄が奪った関南の地である瓦橋関・益津関・淤口関を返還して頂ければ、遼軍は撤退する」
「何と…」
場が騒めく。
関南の地とは、元々遼の領土で、柴栄が北伐してきた時に虚を突かれて宋に奪われた土地である。
この地域は白溝河などが流れる湿地帯で、遼の得意とする騎兵の進軍を妨げる天然の障害物となっていたくらいの要所であることは王継忠も知っていた。
「しばし、時を貰いたい」
「はっ」
「こちらから返使を送るので、王継忠殿は帰っていただいて結構です」
時間稼ぎか。
姑息な手だ。
顔に出さず答えた。
「承知しました。色良い返事をお待ちしています」
退出した。
「関南の地、か。致し方ない。譲ろう」
「陛下、何を甘いことを言っておられるのですか」
「しかし、それで引いてもらえるのだぞ」
「遼の騎兵の足止めの要所を失うのですぞ!国家の危機です」
寇準は必死に止めた。
「なら、どんな策があるという」
「歳幣です」
「歳幣、とな」
「毎年貢物を送るのです。古来、劉邦がとった方法と同じです。我々は皇女は差し出しませんが」
帝が驚いた顔をした。
「して、こちらの体裁は取れるのか」
「領土は国家の要です。こちらの方が体裁は危うくなります」
「ふむ…」
帝が考え込んだ。
「使節に行くものはおるのか」
下に下がると、ちょうど群臣が集まっていた。
「宋に仕える臣民たちよ。貴殿らに遼への使節に行くものはおるか」
寇準が呼びかけた。
静まり返る。
失敗すれば、殺されもかねない任務ですらある。
「成功して帰ってこれば、刺史として任じよう」
ざわめいた。
刺史は州の長官だったが、今は名誉職で皇帝に直接拝謁もできる高級な位階である。
「いないか」
「私が」
一人挙手した。
「そなた、名と階級を」
「曹利用、枢密院令史です」
「そうか」
国防の要・枢密院の使い走りにすぎない役職である。
もし失ってもさして影響はないと思えた。
「曹利用、遼への使節に任じる」
「はっ」
「そうか、曹利用か」
「はっ」
「父は確か、曹諫と言ったな」
「覚えていただけていたのですか」
素直に嬉しかった。
「あぁ、崇儀使の時に目を通したことがある」
「ありがとうございます」
曹利用は深く拝礼した。
「して、曹利用よ」
「はっ」
「最悪、銀と絹合わせて百万までなら出しても構わん。それで収まるなら安い」
「百万…」
銀が三十万両、絹が七十万匹と仮定すれば、今の宋の予算には確実に多大な影響が出ることは間違いない。
皇室にとっては一年間の支出より少し多いくらいだろうが、何十万人という庶民を数十年維持できるえげつない量の額である。
「これで遼も安心じゃろう」
真宗が笑った。
「あくまで、宋が兄、遼が弟だ。厳冬に苦しむ弟に兄が絹を贈与するだけだ、曹利用」
「御意」
「まあ、なるべく低くな。しかし無理はするな」
「はっ」
曹利用は退出した。
「おい、曹利用」
「なんでしょう、寇準殿」
部屋を出たところで宰相に呼び止められた。
「陛下は百万と言っておられるが、お前が三十万を超えて承諾してきたら、帰ってきた時にお前の首をはねるぞ」
背筋が凍った。
「御意に」
これは厳しい交渉になりそうだ。
宋の使節が陣に入ってきた。
王継忠は目を見開いた。
若い時に都で何度か会った曹利用が使節だったのである。
韓徳譲が言った。
「返使が来ていただき、ありがたく思う」
「はっ」
「早速だが、もう一度言う」
曹利用は肩を震わせた。
「もともと我が国の領土であった関南の地を返還せよ。さもなくば、このまま黄河を渡って開封まで攻め入るのみだ」
「それは不可能な相談だ」
「ほう。なぜだ」
「我が宋にとって、土地は先祖から受け継いだ神聖なもの。一寸たりとも他国に譲ることは、たとえ皇帝の命であってもできぬ。もし土地を望むなら、今すぐここで戦いを再開するがよい」
意外とやるではないか。
「ただし、土地は一寸たりとも譲らぬが、平和の証として財物なら贈ろう」
曹利用が昔から無駄にあったのを思い出す。
「土地を譲らないなら、毎年百万の絹と銀の歳幣を出せ」
「百万などという額は、我が国の国庫を空にする。だが、両国の平和を願う誠意として、銀十万両・絹二十万匹であれば、なんとか工面しよう」
韓徳譲が髭を撫でた。
「今ここでお前を殺して総攻撃を始めたら、お前は逆臣ぞ」
「我が国の国庫を空けた無能な臣と言われるよりはるかに良い」
どうにも強情なようだ。
韓徳譲が王継忠のもとに来た。
「継忠よ、本当に百万の絹と銀の歳幣は無理な願いなのか」
小声で言ってきた。
「宋の提示した額は向こうが出せる最大限だろう。見たところ、これ以下とならないように誰かに命じられている気配がある」
韓徳譲が曹利用を振り返る。
「これを断れば戦争が長引き、遼にとっても被害が出るだろう」
「三十万で遼はどれほどの利益を得られる」
それを俺に聞くのか。
「絹は西方の国と貿易すると多大な利益を得られるはずだ。また、遼が宋の物産を略奪する時の危険性を冒す必要もなくなる」
「そうか」
「ただ、この講和が成った時、二つ危険がある」
「なんだ」
「一つは、撤退するときに背後を突かれる危険です」
「そうだな」
「贈られた銀や絹は遼の貴族たちに分け与えるでしょう」
「おそらく」
「絹や銀は、彼らが戦わなくなり彼らから武勇を奪うだろう」
韓徳譲が目を見開く。
「太后と喋ってくる」
うまく行くといいのだが。
「シャオチャオ」
「その名で呼ばないで」
「わかりました」
「構いません」
「え?」
「三十万が限界なのでしょう。ならこちらも従いましょう」
太后は珍しく弱気だ。
「いいのですか」
「略奪に頼る軍事国家のままでは、内紛や飢饉ですぐに崩壊します」
「そうですが」
「お金をもらっても、狩猟や騎射の訓練を続ければ武勇は衰えないはずです」
「太后」
「なに」
「シラ・タランは、もういませんよ」
太后の手が震えた。
「シディや、あなたがいます」
失言だ。
韓徳譲は、踵を返した。
韓徳譲が来た。
「陛下、太后殿は三十万でいいとおっしゃっています」
「わかった」
ムンシュヌは鷹揚に振舞った。
「情けをかけるという体裁で、行け」
「御意」
「宋の使節よ」
さっき喋った丞相らしき男が来た。
「はっ」
「銀十万両、絹二十万匹を毎年宋が送ることを約束してくれるのだな」
「間違いなく」
「なら、講和しよう」
「ありがたく」
曹利用は拝礼した。
「もし違えたなら、貴国をもう一度火の海にする」
「はっ」
なんとか任務は成せた。
曹利用が陣から出ようとしたのを王継忠は手を掴んだ。
「利用!」
曹利用が驚きと共に振り返った。
「継忠じゃないか。死んだと思っていたぞ」
王継忠は苦笑した。
「私は今でも元気だ」
「よかった」
王継忠は澶州を遠目に見た。
「私はもう宋の地を踏むことは叶わないが、この平和が続くことを願っている」
曹利用が寂しそうな顔をした。
「そうか…やはり」
「陛下によろしく伝えてくれ」
「わかった」
これを、澶淵の盟という。
澶淵の盟が結ばれたのち、宋と遼の間では約百二十年にわたる異例の平和が続き、国境付近には交易場である「榷場」が設けられて両国の経済は密接に結びついた。
宋は軍事費を節約しつつ文化・経済の黄金時代を謳歌したが、一方で遼は歳幣による富と宋文化の流入によって、かつての騎馬民族としての荒々しい武勇を徐々に失い、国家全体が軟弱化していくこととなる。
この「遊牧史」全五部のうち、最も支持を得たものを長編化する予定です。
もし「この時代の先を、もっと深く読んでみたい」と感じていただけたら、ぜひ評価や感想であなたの声を聞かせてください。
歴史を動かすのは、いつだってその場の熱狂なのだから。
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