Ⅳ 澶淵
「シラ・タラン。王継忠は回復しましたか」
「えぇ。まだ眠っていますが、起きれば歩けると思います」
恐ろしい将だった。
宋のたかが地方軍にあんな猛将がいるとは。
シラ・タランも少し肩をやられた。
「王継忠には、遼の官位を与え、娘を皇族から娶せよう」
太后が言った。
よほど実力に惚れ込んだらしい。
「しかし、床子弩には気をつけねばなりませんね」
「数は少ないから設置場所を避ければいいのではないですか」
「いえ、それを城門に隠されたらと思うと恐怖に感じただけです」
もっともだが、あんな巨大なものは隠しにくいし、ずっと前から準備しなければいけない。
大丈夫だ。
遼は勝つ。
「祁州・徳清軍が陥落しました!遼軍は澶州へ進軍中です!」
「そうか」
寇準は腰を上げた。
望都が陥落した時点で、寇準は決めていた。
刻が来た。
士気を上げ、黄河を擁する澶州で遼軍を止めるには、一つしか方法はない。
「陛下に、拝謁する」
趙徳昌は、寇準と二人で相対していた。
宦官も払ったので、本当に二人きりだ。
「澶州に、行けと申すか」
「はい」
「命の保障はあるか」
澶州は黄河を挟んで北と南に城が分かれていて、そこが抜かれれば開封まで遮るものはなかった。
「ありません」
「なら、行かんぞ」
退出しようとした。
「ただ」
趙徳昌は足を止めた。
「国の保障も、ありません」
「宰相よ」
この男は、いつもそうやって動かさせる。
「南城までだぞ」
「御意」
こんな男で国が救えたら、儲け物だ。
これは、帝という地位を背負ってしまった不幸だな。
「物見より伝令。宋の帝が開封より出陣したようです」
「なんだと」
シラ・タランが叫んだ。
なんということだ。
暢気に居座っているとばかり思っていたが、やる時はやるらしい。
韓徳譲は聞いた。
「あと何日で着く」
「十日もありません」
「先鋒はもう澶州に到着しているよな、シラ・タラン」
「そのはずだが」
「できるだけ猛攻をかけておけ。着けば補給する」
「命じておく」
「さすがに南岸に留まると思うが、どうだ」
「向こうの宰相が発破をかけたら、来るかもな」
韓徳譲のなにかを悪寒が走った。
「黄河の南岸の偵察を増やしておけ」
シラ・タランは少し疑問を感じたような顔をしたが、頷いた。
「わかった」
嫌な予感がする。
生きていた。
なぜだろう。
死んだとばかり思っていた。
「起きたか、王継忠」
漢人が入ってきた。
「お前には、宋への交渉の補佐を担ってもらう」
「誰だ」
「韓徳譲と言う。遼の大丞相だ」
そんな大物が。
「なぜ俺に」
「お前が一番宋を知っているからだ」
「しかし、遼には降っていないぞ」
韓徳譲が氷の微笑みを浮かべた。
「手伝って欲しいだけだ」
「わかった、丞相」
「南岸にだけ行くと言っていただろうが!」
趙徳昌は激怒した。
黄河の向こうに夥しい遼軍が見える。
行くわけがない。
「しかし陛下、今、全軍の兵士は陛下が来られるのを首を長くして待っています。南岸に留まっては、兵士たちは陛下が逃げようとしていると思い、一気に崩壊しますぞ!」
寇準が叫んだ。
趙徳昌は少し怯んだが言った。
「しかし、もともと南岸に行くとしか言っていないぞ朕は!」
「いえ、もともと“澶州”に行って欲しいと私はご相談して陛下はそれを了承なさいました」
この野郎。
「陛下のご義兄である李継隆殿が澶州の守備に就かれています」
「知っている」
「さっき李継隆殿の伝令が来て、北岸の兵士たちは陛下の姿を一目見なければもはや戦えないと言っています」
「は?」
「ですので、ご同行ください」
「黄龍旗も用意しております」
皇帝の象徴の旗だ。
いつの間に。
いやそんな場合ではない。
「朕はただの凡人ぞ」
「いえ、皇帝陛下です」
呆気に取られている間に、馬の轡を取られる。
黄河の浮き橋が見える。
目を瞑った。
少しだけ、ほんの少しだけ、そんなにも必要とされることが嬉しかった。
北城に行けば、黄河が背後の背水の陣だ。
退路などない。
宿運というやつか。
ここで死ぬなら、それもまた運命よ。
「北岸に渡っただと!」
韓徳譲が珍しく驚いた。
「間違いないです」
どんな手を使って運んだのだ。
「城壁に姿をも見せるそうです」
「見に行く」
「待ちなさい、シラ・タラン」
太后に呼び止められた。
「宋の攻撃に気をつけて」
「はっ」
大丈夫だ。
騎乗する。
従者とシディとともに陣を出た。
城が見える。
ちょうど黄龍旗が翻った。
皇帝が姿を現す。
宋軍が湧いた。
シラ・タランは呆然としていた。
シディも驚いてる。
「一人の男でこんなにも士気が上がるとは」
これは、勝てるか。
微かに弦を引く音がする。
床子弩か。
思えば前まで来すぎた。
なぜ気づかなかった。
槍のような矢が飛んできた。
「シディ、徳譲」
死ぬ定めか。
楽しい人生だった。
「遼を頼む」
真正面から向かい合った。
雄々しく死のう。
シラ・タランの眉間を矢が貫いた。
「急報!シラ・タラン殿が宋軍の床子弩によって戦死しました!」
シャオチャオは体から力が抜けた。
なんとなく、嫌な予感がしたがそれを振り払って視察を止めなかったのである。
自分のせいだ。
「太后!気をしっかり!」
徳譲とムンシュヌが支えてきた。
「一人に、させてください」
自分の部屋に入った。
軍服を脱ぐ。
喪に服すほかなかった。
一番信頼していた軍人が、一族の誇りのシラ・タランだった。
咽び泣く。
遼軍は、負けるかもしれない。
「李継隆殿より伝令!遼軍総大将の蕭達覧を討ち取りました!」
「なんだと」
寇準は信じられなかった。
「どうやって」
「陛下が城に現れた時に城壁に近づいたそうです。その時に床子弩が発射され、命中した模様です」
大戦果である。
「遼軍の士気はどうだ」
「総攻撃をかけるならおそらく弔い合戦となり、一時的に上がるとは思われますが現状は沈滞しています」
この状況でなんとか和睦に持ち込めたら思いがけない収穫だ。
「王継忠に使者として宋に行かせましょう」
韓徳譲は持ちかけた。
「蕭撻覧の死を隠し通すことはできません。ならば、この動揺が全軍に広がる前に、宋側に慈悲をかけるという体裁で講和を申し出るのです。王継忠を使えば、宋は喜んで飛びついてくるでしょう」
太后が目を上げた。
「早く命じなさい。尭哥」
「幼名で呼ばなくても結構です」
少し調子を乱され、咳払いをした。
「一つ懸念があります、シャオチャオ」
自分が幼名で呼んできたくせにこちらが呼ぶと太后は不快そうになった。
「裏切りです」
「ありえません」
太后は即答した。
「なぜです」
「彼は王超の援軍を恃み、ほぼ全滅しました。宋は恨みこそすれ、味方にはつきません」
「ならいいのですがね」
と言いつつも韓徳譲は太后を信じていた。
幼い頃から一緒の育ち、先帝が死んでからはほぼ一緒に行動している。
判断力は悲しみに暮れていようが明晰なことぐらいはわかった。
「王継忠を呼べ」
「はっ」
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