II 高梁河
冒頓という巨星が堕ち、匈奴が内紛と漢の猛攻に裂かれ、その栄光が北の荒野へと霧散したとき、北方の静寂は破られた。
南へ下った匈奴の末裔が五胡の乱を惹起し中原を血で洗う傍ら、モンゴル高原では鮮卑、柔然、突厥といった新たな騎馬の主たちが次々と興亡の輪廻を繰り返す。
その幾星霜にわたる覇権の陰で静かに爪を研いでいたのが、契丹であった。
遼太祖・耶律阿保機は本作ではペルシア語の音写に倣い、アーバキーと呼ぶ。
耶律休哥はシウゴーで、その副官はシラ・タラン、別の将、耶律斜軫はシェジェン。
燕京は現在の北京。燕京は古名だが、そう呼ぶ人が当時多かったためそう表記した。正式名称は南京析津府。
具体的な位置を把握したければ
https://www.y-history.net/appendix/wh0303-032.html
を見ながらだと読みやすいと思う。
916年-塩池
アーバキーは遥かに流れる雲と、ラオハ河、雄大な草原を眺めていた。
「ユリドよ」
妻のユリドに呼びかけた。
「なんでしょう」
「世界はどこまで続いているんだろうな」
「それを知ってどうなります」
「全て、手に入れたいなどと思ってしまう」
「ご冗談を」
その時、従者が来た。
「アーバキー様、即位の準備が出来ました」
「ユリド、行くぞ」
「はい、アーバ殿」
青牛と白馬を捧げ、芝を焼いて天を祀った。
正直、こんな形式じみたものより早くアーバキーは戦いに出たかった。
「ユリド、暇なのだが」
「ご自分で解決なさってください」
ふざけるとユリドはすぐに冷たくなる。
「ふん。しかしこの左前の服に明らかに冕冠は似合わんぞ」
この冠は前と後ろにたくさん数珠がつながっていて、とても周りの見通しが悪い。
「中華よりも上に立ちたいのなら、我慢するべきです」
「そうなのだがなぁ」
「さ、始まりますよ」
「わかっている」
台の上に立つ。
「元号を、神冊とする。我は今より、天皇帝となる」
少し間を空ける。
風が吹いた。
「妻のユリドは地皇后とする」
世界を変える、風が吹く。
「国号はキタイ。首都はここ、皇都とする」
ここに、二百年間東アジアの最強国として君臨するキタイ帝国が生まれた。
916年に耶律阿保機が即位しキタイを建国すると、遊牧民の武力と農耕民の統治技術を融合させ、万里の長城を越え南下する準備を整えた。
936年、中国の後晋の建国者・石敬瑭が、政敵を倒す援軍の見返りとして、遼に北京周辺の燕雲十六州を割譲し、さらに遼の皇帝を「父」と仰ぐ臣下の礼をとったことで、遼は戦わずして戦略的要衝を手に入れる。
しかし、その後の中国王朝後周の名君・柴栄は、959年に奪還作戦を開始し、またたく間に三つの関所を奪い返したが、遠征途中に病に倒れ、燕雲奪還の夢は目前で断たれた。
960年に北宋を建てた趙匡胤は、後周の失敗を教訓に、まずは南方の小国を順に滅ぼして国力を蓄え、遼とは平和を保ちながら資金を貯める慎重な戦略をとった。
ところが976年、趙匡胤が急死し弟の趙光義が即位すると方針は一変し、彼は「金で買うより武力で奪う方が早い」と考え、979年に北漢を滅ぼしたその足で、疲弊した将兵を叱咤し強引に遼の燕京へと進軍させた。
979年-高梁河
趙光義は、夜の燕京を眺めていた。
しかし、キタイ改め遼が保持する燕雲十六州を獲得しなければ、真に中華統一したとは言えない。
北漢を破り、ついに中原は制した。
三ヶ月の攻囲はさんざん守将の韓徳譲を苦しめているはずだが、それでも落ちない。
しかし救援軍は来ないから、あと一押しで押し通せると見ていた。
「七王、燕京はそろそろ落ちるな」
皇太子として連れてきていた七王に行った。
「そうですかね。あと一週間はかかると城内の士気を見れば思うのですが」
小賢しい。
戦争をわかっていないと感じる。
後継候補として考えていたが、戦に赴かせるのはやめさせるよういつか厳命しなければいけない。
「八王はどう思う」
兄の子で優秀な資質を見せ始めている八王に言った。
「そうですね、もう落ちると思いますが。伏兵か援軍に気をつけてさえいれば二日はかかりません」
正直、七王よりも英明だ。
群臣を上手く使うのにも長けていると聞く。
後継をこのまま告げずに死んだら、八王になりそうだなと漠然と思ってしまった。
「陛下!」
その時、切羽詰まった様子で従者が来た。
「どうした」
「遼軍が夜襲して来たようです!」
これはまずい。
「どこから!どれくらいだ!」
「北西の山岳地帯から急に現れ、砂塵で軍勢は細かくはわかりませんが、およそ松明の火から見て十五万に上るかと」
「なんだと」
それほどが、急に現れたのか。
「事実です」
申し合わせたかのように燕京から一斉に太鼓が打ち鳴らされた。
遼軍が歓声に包まれる。
光義は唇がわなわなと震えるのを感じた。
「将は、わかるか」
「どちらも旗を掲げていません。しかし、二十万の軍勢ほどの軍旗は見えるようですから、約十八万は下らないと思います」
「それは全て、騎馬か」
「はい」
絶句した。
十八万の騎馬。
こちらが十万の歩兵中心の軍だから、絶望的でしかない。
「陛下、撤退はされますか」
「撤退する」
決断した。
これは、負ける。
手ぶらで帰るにはあまりにも惜しいが、生きていれば再帰はできるはずだ。
横の七王を見ると、ただ震えて呆然としている。
置いて行こうかと、一瞬だけそう思った。
「急報!」
「今度はなんだ!」
「遼軍は軍勢を二つに分け、燕京の北と南に先回りされ、包囲されました!」
再び絶句した。
西は城で、東は高梁河というちょうどここの本陣の近くにある川が流れている。
逃げ場はない。
「我が軍は、嘆かわしいことですが一部が逃走しているようです」
「もういい」
撤退などという場合ではない。
「禁軍を固め、帰還する」
「禁軍も逃亡者が相次いでおり…」
「黙れ!」
「はっ」
「今あるものを集めろ」
「御意に」
「光義は、それはそれは困っているだろうなぁ」
「でしょうな」
シウゴーは副官のシラ・タランに言った。
「宋軍は、北から追われ、南を塞がれ、東は川、西は城壁だ」
「皇后殿下は、戦の才をお持ちなんでしょう」
本当にそう思う。
燕京の北西の山岳地帯に遼軍十万を三ヶ月も潜ませるなどという度胸のあることを命じたのは皇后だ。
今、今上帝は病床に伏しているため、ほぼ政務は皇后の蕭綽が執っている。
素直に言えばそんな大軍は普通に考えれば、すぐに見つかるからさっさと帰って堂々と向き合いたかった。
しかし、皇后のかつての恋人らしい韓徳譲が燕京の守将だと知ってから考えを改めた。韓徳譲は今の皇太子であるムンシュヌにも父と同格として尊敬されているらしい。そんな人物に籠城を任せる皇后の度胸に応えたかった。
出陣した時に大軍に見えるように松明を大量に作らせたりして、もう一人の将のシェジェンとともに準備は万端だった。
進発を告げる伝令が皇都改め上京来た時はシウゴーが感じた戦場の刻と同じだった。
「こちらは北だから、あまり逃げてくる兵も少ないが、南は狩るので大変だろうな」
「シェジェン殿は嬉しそうでしたがね。南に行くと決まった時」
「さて」
篝火が爆ぜた。
「光義は、どこに逃げる」
高梁河が宋兵の死体で埋まっているのを見て、禁軍は言葉を失い散り散りに逃げ始めた。
光義は叫んだ。
「皇帝を置いて逃げる奴があるか!」
禁軍の一部はそれに一瞬振り向いたが、暴挙に出た。
光義が乗る馬車の車輪を砕いたのである。
「何をしている」
「どうせ連れ帰っても俺や、俺の仲間たちはあんたに処刑される。なら、八王殿に帝になってもらった方がいい」
「お前…」
慣れない大剣を抜いた時にはもうその兵はいなかった。
どうすればいいのか。
「陛下!」
幼い頃に拾った従者が一人だけ残っていた。
「驢馬車をお使いください」
「なぜだ。どこにある」
従者が引き出したのは、誰でも持っているような民が使う驢馬車だった。
人を運ぶようなものですらない。
「この荷台に隠れてください」
藁が積まれている。
屈辱だが、受けない手はなかった。
遼軍の喚声はここにも聞こえてくるほどだった。
「わかった」
「家から騒ぎを見て、逃げ出す住民のふりをすれば隠し通せます」
荷台に入る直前、死体を踏み越える宋兵が目に入る。
矢が飛んできた。
肩を貫く。
声も出ない。
俺は、死ぬのか。
光義は気を失った。
「陛下!陛下!」
光義は跳ね起きた。
「ここは、どこだ」
「涿州です。逃げおおせました」
「何人がいる」
「それが、三万人を下回るほどかと」
大敗、か。
従者が耳を近づけた。
「八王殿を、帝に立てる動きがあったと」
「なんだと」
「どうやら、潘美殿を中心にしているようです」
あの馬鹿者。
しかし、一旦は首都に戻らねば。
「進発せよ。粛々と隊列を組み、開封に戻れ」
「御意に」
「ほう。光義は八王を自殺させたか」
「燕京でもかなり筋のいい囲みをしていたのにな」
シェジェンが言う。
「宋は、また来るかな」
シラ・タランに言った。
「国があれば、来るでしょう」
「なら」
退却する遼軍を眺めた。
「また、勝たねばな」
「当たり前だ」
シェジェンが無邪気に笑った。
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