第三幕 『容赦のない人』
千景は黄蝶に肩を組まれたまま寝室へ移動する。
(近い)
少しでも顔を右に向ければ唇が当たってしまいそうな距離感だ。
首を無理にでも反対側に曲げて緑埜に助けを求める視線を送るが、彼は千景の武運を祈るように心静かに合掌していた。
「緑埜さま‼」
「千景さん、なにかあったら叫んでください。すぐ助けに向かうので」
多少の良心はあったようで、去り際にそう言ってくれたが、本当だろうか。
千景は訝しげな顔をしつつ寝泊まりしている寝室に入ると、黄蝶は片手で器用に扉を閉めながら呆れ声を出す。
「やっぱり一度、堅気の職についているやつは、こういうところで甘いな。叫ぶ前に対処する方法なんていくらでもあるというのに」
黄蝶は挑発するように鼻で笑った。
「こう見えてオレは緑埜とは互角に戦えるぜ?」
黄蝶は緑埜よりも一回りほど小柄だが、その表情は自信に満ち溢れていた。千景は真顔のまま「そうなのですね」と呟く。
「つまんねー反応。もしかして、荒事に慣れすぎちゃった?」
彼は唇を尖らせてから、肩をすくめた。そして徐々に千景との距離を詰めていく。
「黄蝶さまは、ずいぶんといつもの雰囲気とは違うのですね」
寝巻の羽織をかけ直し、後ろに下がりながら問うと、黄蝶は前髪をすき上げる。
「もう取り繕う必要はないかと思ってさ」
「!」
千景の背中が壁に当たった。すかさず黄蝶が千景の体を囲うように壁に両手をつく。
「オレだってさ、優しいままでいたかったんだぜ? でもお前があまりにも無知で、弱くて、それなのに小賢しいからさ。そろそろわからせてやろうと思って」
意地の悪い笑みを浮かべながら、千景の髪に触れる。
「赤月の優しさは偽物なんだよ」
「え?」
「赤月がお前に傘をかざしたのは、初代『赤月』が『白藤』に拾われたときのことを再現しただけだ」
千景は眉を寄せ、黄蝶の目を真っすぐ見つめる。
「……どういうことですか?」
「初代『赤月』は酒を飲むたびにその話しかしなくてさ。『なあ、坊主、俺と一緒に来ないか』って誘われて。衝撃的で運命の出会いだったと、耳がタコになるほど聞かされたよ」
黄蝶は小さな子をあやすように目を細めるが、その奥は笑っていなかった。千景は反射的に言い返す。
「でも赤月さまは、わたくしが助けを求めていたからとおっしゃってくれました」
「!」
一瞬にして黄蝶の顔がこわばった。千景と黄蝶の視線が交差し、沈黙が訪れる。
「あいつが本当にそう言ったのか?」
先に口を開いたのは黄蝶だった。千景は小さく頷く。
「間違いなく」
「……あーあ、赤月も罪深い男だな。こんな無垢な女の子を弄ぶなんて」
一段と昏い目で千景を見下ろした。
目の前にいる男性は、顔立ちの造形に黄蝶の面影はあるが、艶やかで華やかな雰囲気は一切ない。あどけなさの中に冷徹さと非情が混ざる顔つきこそ、本来の姿なのか。
「千景の手足ってさ、簡単に折れそうだな」
そういって、黄蝶は千景の腕に片手を滑らせる。柔らかい皮膚に親指を喰い込ませるようにぐっと力を入れた。にぶい痛みに、千景は顔を歪ませる。
「こんなときでも生意気な目をするんだな」
「……していません」
「否定している時点で認めているようなもんだろう。あんまり煽ると痛い目見るぞ」
黄蝶は指先で千景の腕をなぞると、次に首筋に触れた。身を逸らそうとするが、黄蝶が膝で千景の浴衣を押さえて身動きできないようにする。
そして首筋の動脈の辺りを何度も撫でてから、千景の耳元で囁く。
「逃げ道ならすでにあるだろう? 『ねえ、千景ちゃん。あなたが望むなら、ここから逃がしてあげようか』なんてな」
途中、声色が鈴が転がるような声に変わった。
千景は眉根を寄せて、唇を震わせる。
彼の意志は、出会った当初から変わらないのだ。
「ふ……ふふっ」
千景はこらえきれず、笑い声をこぼした。それを見て、黄蝶は怪訝そうに眉を寄せる。
「なぜ笑う」
「いやだって、ごめんなさい」
段々と笑い声が大きくなっていき、肩を震わす。一方で黄蝶は千景の豹変した様子におののいたのか、拘束を解いた。
千景は片手で口元を覆う。
「みなさま、必死にわたくしと赤月さまを遠ざけようとしているんですもの。みなさまは赤月さまのことが大好きなのですね」
「はあ⁉ 好きじゃねーし!」
即座に黄蝶が反論するが、指摘されたことに気恥ずかしさを抱いたのか、頬が若干赤く染まっていた。
千景は黄蝶に微笑みかける。
「みなさまが、わたくしと赤月さまが近づくことに対して、なにかを恐れていることはよくわかりました。でもわたくしは、自分のためにもかかわることから逃げたりしません」
「ここまで来て、まだ綺麗ごとばかり並べるのかよ」
黄蝶は片手で頭を抱えたあと、ゆっくりと顔を上げる。
「お前の覚悟は、女性としての幸せを手放してまで貫けるものなのか?」
「……」
「地方に行けば、緒方和冴なんて比にならないくらい、お前を幸せにしてくれる男が現れる。普通の幸せが手に入るんだぞ」
まるで、誰かの後悔を代弁したような言葉だった。
黄蝶の悲痛な声を聞き、千景は弱々しく微笑む。
(ああ、黄蝶さまは本当にお優しい方なのですね)
千景は右手をそっと伸ばし、黄蝶の頬に触れる。彼は一度だけ顔をこわばらせたが、瞼を震わせながら閉じた。
「黄蝶さま。わたくしに化粧をしてくれたとき、どうして白浪一族の話をしてくれたのですか?」
「……」
「本当は白浪一族のことをわたくしに理解してほしかったからではありませんか?」
「お前、うるさいよ」
黄蝶はその場でうつむくと、小さな声で問う。
「オレが盗みをするのは、完璧な変装をするためだ。任務に必要だと思えば、お前を利用するし、時には騙すだろう。それでもオレのそばにいたいと思うのか?」
千景は迷いなく告げる。
「はい。だから黄蝶さま、どうぞ心ゆくまでご自身の気持ちに従ってください。わたくしもそうしますから」
一拍置いて、黄蝶が「このわからずや」と吐き出した。