甘味と秘密の甘い関係③
出航した船は次第に加速し、白い飛沫を撒き散らしながら工場地帯へ進んでいく。夕陽が今にも沈みそうで、湿った夜風が頬を叩き髪をかき上げる。
「クルージングバーなんて、初めて来ました」
「実を言うと、俺もだ。友達がデートなら、ここに行くべきだと教えてくれてな」
「オルソさんが?」
「俺にはオルソ以外にも、友達の一人や二人いるぞ」
年中常夏で観光客で賑わうフィンドレーの海は、夜になると急に大人びる。
私たちが飛び乗った船は、元々は漁船だったのか、客室が改造されていてバーテンダーがお酒と軽食を提供している。キャムレンさんが目で合図をしたけれど、ビュッフェに映画館のポップコーンで、お腹は満たされているから、私は黙って首を振った。
「だけど車で来たら、酒が飲めないことをすっかり失念してた」
「私が言うべきじゃないかも知れませんが、お酒は身体に毒ですよ」
「バーテンダーらしからぬ発言だな」
「別にいいの。アルバイトですから」
夕陽色のライトを浴びている煙突に繁る無数のパイプを海から眺めると、ただの工場地帯なのに、どこか知らない異国に来たようで胸が弾む。ただ夜景を見ながらお喋りしているだけなのに、キャムレンさんは照れたように笑いかけてくれる。
「それに、キャムレンさんは酔うと送り狼をするから、飲まない方が良いですよ」
「俺が? まさか。そんな度胸も卑怯さも、俺は持ってない」
弱みにつけ込んでデートを約束させるのは、卑怯じゃないの?
そう抗議したかったけど、空気を読んで質問を変えた。
「覚えてないんですか? あの日、階段を降りている途中で……」
不思議そうに瞬きを繰り返すキャムレンさんの瞳の色は、青緑色だ。
琥珀色に変わったのは、私の見間違い?
ううん、そんなわけない。 ハッキリ見たもん。
……あれは、一体何だったんだろう。
「いきなり私を抱きしめて、キスしてきたじゃないですか」
「えっ?! 俺が?! ……全く覚えてない。そんなに酔ってたか? いや、酒を言い訳にしたらダメだな。本当に申し訳なかった」
「よく考えたら、あれがファーストキスだったんですよ。あの後、死体を見つけちゃったから、すっかり忘れてたけど……。ちょっと、キャムレンさん。ニヤニヤするの止めて下さいよ!」
「ノエル、安心しろ。俺は責任を取る男だからな」
「とらなくていいですよ。あれは、カウントしないことにしましたから」
青くなったり赤くなったり忙しいキャムレンさんと私の間に、強い風が吹き、ブルリと大きく身体が震える。背の高いキャムレンさんを風よけにしようと思って肩が触れ合うまで近づくと、キャムレンさんは何を勘違いしたのか凄く嬉しそうに下唇を噛んでいる。
その顔を見ちゃったら、また心臓の鼓動がおかしくなっちゃったから視線を外すと、数メートル離れた所に同じように海と夜景を眺めていた恋人達がキスしていた。
すぐ視線を海に戻したのに、キャムレンさんも周囲の恋人達が密着していることに気が付く。
気まずい。ものすごく、気まずい。
「ノエル、俺の事を『好き』って、言ってみてくれないか?」
「え? でも私は」
「嘘で良い。嘘でも良いから、聞いてみたいんだ」
「……す、好き?」
「感情を込めて」
「キャムレンさん、好き……?」
「もっと大きな声で」
これ、なんの発声練習?
断るという選択肢もあった事に気が付いたけど、もう遅い。
キャムレンさんは真剣そのものなので「だーいすき!」で誤魔化すと、キャムレンさんは満足げに頷く。嘘なのに。「これで明日も仕事を頑張れる」と、キャムレンさんが満足げに言うので、つい声を出して笑ってしまった。
「やっと笑ってくれたな。ノエルの顔には、表情筋がないのかと思う程、動かないから内心心配してたんだ。つまらないデートをしたら、ノエルに嫌われそうで……」
「私、無表情で何を考えてるか分からないってよく言われるんで、気にしなくて良いですよ」
笑うとお母さんに殴られたから、縁を切って一年も経ってるのに、未だにどうやって笑えば良いのかよく分からない。今みたいに瞬間的に笑えても、罪悪感がチクリと胸に刺さる。
「今日会ったら、まず謝ろうと思ってたんだ。デートの誘い方が、強引で卑怯だった。おまけに下品だ。俺が悪かった。反省してるが、後悔はしてない。我慢できなかったんだ。ノエルが店長と不倫してるんじゃないかと思って……」
夜の海を見つめていた潤んだ青緑色の瞳が、私を捉えた。零れ落ちそうな涙を指先で弾くと、映画館を出てから繋ぎっぱなしだった手にグッと力が入る。
「俺だけを見て欲しかったんだ。ノエルに聞きたいことは沢山あるし、俺の事も知って欲しい」
真剣な口調で言われて、恥ずかしさはあったけれど、嫌な気持ちにはならなかった。
駐車場でフラッシュバックに苦しめられて泣いても、気を遣って深く理由聞かずに慰めてくれたし、些細な言動で一喜一憂するほど真剣に思ってくれてる。それに、デートの誘い方に非を認めて謝ってくれた。
腹を割って話してくれているのに、私はキャムレンさんの事だけを考えられない。
私がこうしてキャムレンさんに手を握られてドキドキしている間にも、ブライアンが警察署で厳しい取り調べを受けているかもしれないのに、脳天気に恋愛なんて出来ない。
「困ってるノエルを見て、俺も困ってるんだ。どうしたら俺に興味を持って貰えるんだ? 空回りしてるのは、自分でも分かってる。ノエルは、にこりともしないし……」
私が笑えないのは、キャムレンさんのせいじゃない。お母さんとアノ人から受けた暴力のせいなのに。後遺症が、キャムレンさんを悲しませてしまっているし、喜怒哀楽を自由に表現できないなんて、人として不適格な気がして落ち込んでくる。
押し黙る私を見つめながら、次第にキャムレンさんの顔に、悲愴の影が落ちる。
「ノエル、無理して何か喋ろうとしなくても良いからな」
「キャムレンさん……」
「俺の話を……最後まで聞いてくれてありがとう」
深呼吸を一つすると、もう気持ちを切り替えたらしい。
キャムレンさんは何事もなかったかのように、スマホを取り出して実家で飼っている二匹の犬の写真を私に見せながら、どれだけ賢い犬なのかを熱弁し始める。
話題が急に犬になったので余計に戸惑ったけれど、「この子達は、シェパード? 人間でいうと、何歳なんですか?」と、当たり障りのない言葉を返せた。
話題を変えてくれたキャムレンさんの心遣いが、ヒリヒリと心に沁みる。
可哀想だと思った。
好きな人に、本気で「好き」と言って貰えないキャムレンさんが。
嘘だと分かっているのに「好き」と言われて、舞い上がるキャムレンさんが。
船は、陸に向かって波を切るように進む。
「ノエル、聞きたいことがあるんだ」
「またですか? 今度は、なんですか? ペットなら飼ったことはありませんよ」
冗談っぽい軽い口調で言うと、車内からブライアンの家を眺めた。築年数が浅い割には格安な借家の紺色のカーテンが揺れ、人影が動いたのが見える。逆光で顔は見えなかったけど、それが誰か直ぐに分かった。
ブライアン?! ブライアンだ! 絶対にそう! 帰ってきたんだ!
「次の日曜日、もし予定がなかったら」
キャムレンさんがまだ話している途中なのに、助手席のドアを開けて玄関まで走った。背中から私の名前を叫ぶ声が聞こえたけど、立ち止まる事なんて出来ない。
半開きになっていた門戸を押すと同時に、玄関の扉が開く。照れくさそうな表情を浮かべたブライアンが、家から出てきた。
たった数日で、酷くやつれている。
数ミリ単位でカットしていた自慢の髭もボサボサに伸びているし、目の下の隈も酷い。いつもヘアーワックスで整えているツーブロックも、寝起きのように乱れていた。
「ノエル、ただいま」
「ブライアン……っ! ブライアンっ!」
腕を広げているブライアンの胸に飛び込むと、煙たくて臭いだけだと思っていた煙草の香りが懐かしくて、余計に胸を締め付ける。
エマのように刺し殺されていない。
ブライアンは、ちゃんと生きてる。
それが煙草の匂いと体温と声で実感出来て、子供みたいに大きな声を出して泣きたかった。
「おおっ?! ノエルが可愛くなってる! サラ、俺には秘密にしてたんだな。本当は魔法使いだったのかよ?」
「やだあ、何言ってるのよ。褒めすぎ!」
相変わらずバカップルだなあ。二人の軽口が懐かしくて、ブライアンの胸の中で小さな声で笑う。泣き笑いながら抱きしめ合う私たちを見ながら、サラさんは嬉し涙を零している。
婚約祝いにプレゼントしたギンガムチェックのエプロンは、如何にも新婚ぽくて、いつも幸せそうに笑ってるサラさんによく似合う。
ブライアンが帰ってこない間、年下の私を不安にさせないために、サラさんは明るく振る舞っていた。だけどベッドに入ると、声を押し殺して泣いているのを知っていたから、安堵の涙を零すサラさんを見て、私まで目頭が熱くなってきた。
「感動の再会は、家の中でやってよ。早く玄関を閉めないと、虫が入って来ちゃう」
エプロンで涙を拭ったサラさんに言われるがまま、家に入ろうとして、ハッとして振り返る。
キャムレンさんは少し離れたところで、声を発することなく私たちを見ている。
完全に忘れてた……。自分の薄情さに反省しながら、ブライアンの服を引っ張った。
「キャムレンさんに、お礼を言わなくて良いの?」
「え? なんでキャムレンさんに?」
「キャムレンさんが、弁護士費用を出してくれたんだよ。知らなかったの?」
その言葉に驚いてのけぞると、門灯の明かりがギリギリ届かない闇に立っている人がキャムレンさんだと、ブライアンはやっと気が付いた。駆け寄って、話し込んでいる。大人の会話に口を挟むつもりはないけど、あの二人が何を話しているのか少し気になる。
「ノエルちゃん。デートは、楽しかった?」
「映画はつまんなかったけど、ビュッフェとクルージングは良かったですよ。船が思った以上にスピードが出るから、上下に揺れてスリルもありましたよ」
サラさんは、明らかにホッとした表情で胸をなで下ろす。
「良かったあ。絶対にキャムレンさんは、ノエルちゃんの好きなタイプだけど、デートを無理強いさせちゃったかなって、あの後反省してたから……」
「サラさんが気に病む必要ないですよ。その……意外と、楽しかったし」
借りたネックレスを外すのに苦戦していると、サラさんの小さな手が首に伸びてきた。
「それ、あげる。ブラちゃんが無事に帰ってきたんだもん。お祝いだと思って受け取って」
「いいんですか? これ、本物の金ですよね? 大事にしてたはずなのに……」
「いいの、いいの。バー・オアシスが繁盛したら、ブラちゃんに新しいのを買って貰うから!
私たちに心配かけさせたんだから、これからは馬車馬のように働いて貰わないとね!」
わざと悪い顔をして戯けてみせるサラさんの金のネックレスは、事故で亡くなった妹の形見だとブライアンから聞いていたから、何と言えば良いのか分からない。
遠慮したら気を悪くするかも知れないし、ハッキリと断る勇気も理由もなく、しどろもどろにお礼の言葉を言うと、私を見て微笑むサラさんの瞳が潤んでいた。