甘味と秘密の甘い関係①
「あっ、こらー! いま寝てたでしょ!」
サラさんの戯けた声に導かれて瞼を開けると、白い壁に薄型テレビが張り付いている。不要になったテレビ台には、サラさんとブライアンの写真と小さな観葉植物が居座っていた。
その横に、死んだお父さんの写真が飾ってあるけど、私は未だに直視出来ない。大好きなお父さんのことを思い出すと悲しいし、幸せじゃない私をお父さんに見て欲しくないから。
「ノエルちゃん、もしかして自分で髪切ってる? 長さがバラバラだから困っちゃった。今度切りたかったら、うちのお店に来なよ。割引券あげるから」
「……ん、ありがとう」
髪の毛を弄られると、どうして眠くなっちゃうんだろう。ウトウトしている間に、美容師のサラさんの技術でアレンジヘアーは完成していた。ドライヤーが不必要なほど短い髪なのに、ヘアーアイロンでクルリとカールされ、飾りの付いたヘアピンが何本も刺してある。
「どう?! いい感じじゃない? 流石、わたし!」
「なんか……髪がキラキラしてますね」
「ラメ入りスプレーをかけたの。初デートだもんね。このくらいしなきゃ!」
美容師が天職の明るい性格のサラさんだけど、いつも以上にテンションが高い。これからキャムレンさんとデートと言うのもあるけれど、私に余計な心配をかけまいと必死なのが伝わってくる。私も大人にならなきゃと思うけれど、溜息ばかりついてしまう。
「そんなにデートが嫌なの? キャムレンさん、変わってるけど一途そうなのに」
「ソコが嫌なんですよ。キャムレンさんが言うには、私は前世の恋人らしいですよ」
「すっごーい! ノエルちゃんに運命感じちゃったのね、羨ましいなあ!」
「ええっ……? どこがですか? ヤバくないですか?」
どうして誰も賛同してくれないんだろう。普通に考えて、運命の相手だの、前世の恋人なんて、妄想が過ぎるのに。サラさん、恋愛ドラマに毒されてない?
壁掛けテレビの中の気象予報士が、ぐねぐねと渦巻く気圧のグラフを指差し明日の天気を告げ終わると、画面は再びスタジオに戻ってきた。
『知人と駅で別れた直後、被害者のエマさんの後を付ける黒い服を着た人物が、フィンドレー駅構内の防犯カメラに写っていました。彼女は何故、改札を出たんでしょうね』
『そうですねえ、警察が公開した映像からは、駅で別れた知人の後を追っかけているようにも見えますが……。被害者の後を付ける、この人物も気になりますね。もしくは、何者かに呼び出された可能性があります。警察は今後、遺留品の携帯電話の解析をするでしょう』
テレビの中のコメンテーター達が、誰にでも思いつきそうな憶測を並べる。
そして、どのようなナイフで、どこを何箇所、どのくらいの深さで刺されたのか臨場感たっぷりに、彼女の死に様が解説されていく。
誰にも助けて貰えず殺され、道に捨てられて、死後はエンターテインメント。
彼女は、私だ。
名前も知らなかったくせに同一視してしまうのは、私も死に近いところにいたせいだと思う。
ブライアンが私をあの家から逃がしてくれなかったら、今頃はお母さんとアノ人に殴り殺されて、庭に埋められていたかも知れない。
助けて、と何度も言ったのに。厄介なことには関わりたくないと目を逸らされ、次第に抵抗する気力も奪われていった。
ブライアンが私を助けてくれなかったら、きっと今頃は私が彼女のように報道されていたのかも知れない。
他人の不幸は、蜜の味。どんな惨事も他人事。
テレビで流れるニュースには誰もが傍観者で、危機感は希薄。
自分は交通事故に遭わない、と信じて疑わないように。
でも誰だってそう。私も、いつの間にかソッチ側の人間になってしまっていた。
エマ。彼女の名前は、エマだ。
ブライアンの事が好きだった、エマ。もう二度と忘れない。
「紐で首を絞められたのは、言わないんだね」
オレンジのチークを塗ってくれるサラさんの声に、ハッとして顔を上げるとまた怒られる。
「ダメだってば。動いちゃダメ。んもー!」
「確かにそうですよね。首に紐が巻き付いてたのに、テレビはナイフのことしか言ってない。なんでだろ?」
「えー? わかんないけど、首を絞めた紐は犯人の物だったんじゃない?」
「ナイフは、彼女の私物?」
「あ、そっか。じゃあ違うね。……ねえ、リップはピンクとオレンジ、どっちがいいかな?」
サラさんは報道されてない情報とその理由に、興味がないみたい。
紐が犯人を特定できる証拠品なら、犯人が逃亡するのを恐れて発表してないとか?
大学生の女の子が防犯ブザーのように護衛用ナイフを持ち歩くわけないんだから、犯人の私物に間違いないよね。
ナイフと紐の差異は何だろう。
刺殺だから? 紐は致命傷じゃなかったから?
「ノエルちゃん、そんなに嫌だったら、今からデートを断っても良いんだよ」
サラさんが静かに言う。眉間に寄せていた皺のせいでファンデーションがよれてしまっていて、サラさんは柔らかいパフで整えてくれた。
「そんなに嫌がるって事は、キャムレンさんに何か嫌なことされたの?」
「そんなんじゃないですよ。私は大丈夫。ただ……ブライアンが帰ってこないから」
警察は、まだブライアンを疑ってる。
キャムレンさんが言ったとおりだ。
普通に考えれば、死の直前まで一緒にいた人が一番疑わしい。
ブライアンが人を殺すわけないのに。そんな事が出来る残酷な人だったら、お母さんとアノ人から暴力を振るわれていた私を逃がすわけない。
ブライアンは、虐待されていた私を助けてくれた。
だから、今度は、私がブライアンを助けたい。
でも私に出来る事は、弁護士費用代わりにキャムレンさんとデート。
シャーロックホームズみたいな、明晰な頭脳があれば良かったのに。
鏡の中の私は、年相応にオシャレを楽しんでいる女の子みたいで、直視出来ずに目を逸らした。
待ち合わせ場所に指定された駅前の噴水の前で私を待っていたキャムレンさんは、母親を見つけた小さな子供のように、手を大きく振りながら近づいてきた。
腕時計で時刻を確認すると、まだ約束の時間まで十分もある。
いつから待ってたんだろ?
「ノエル! 会いたかった」
「今日は……よろしくお願いします?」
この挨拶が正解なのか分からないけど、キャムレンさんは気にしてないみたい。
どこに連れてかれるのかと思えば、駅の裏にある駐車場。
手の中にある電子キーが押されると、プレスされている途中だったような車高の低い青磁色の車のドアは、何故か天に向かって開いていく。ゴキブリの羽みたいで、ちょっとヤダなあ。
面を食らっていると、助手席へエスコートされた。
「変わってる車ですね」
「デザインが良いだろ?」
男の人ってレースカーみたいな車が好きだよなあ、とぼんやり思いながら頷いておく。
「これから、どこに行くんですか?」
「秘密だ。秘密にしてた方が楽しいだろ?」
無邪気に私をからかうキャムレンさんは、詰めが甘い。私たちの間にあるカーナビの行き先は、ペルカグランドホテル。
「お腹空いてないか? 何でも良いぞ、遠慮するな」
「ケーキが食べたいです」
「オルソの言ったとおりだ。女の子はスイーツが好き」
にこりともしない私にキャムレンさんは、動き出した車内で変な質問ばかりしてきた。
犬と猫、どっちが好き? 山と海ならどっち?
「子供の時に喘息があったから、動物は少し苦手です。泳ぐのが好きだったから、海かな」
「そうか」
沈黙。え、なに? 私も質問した方が良いの?
「キャムレンさんは?」
「海も山も興味が無い。強いて言うなら、犬が好きだ」
沈黙。弾まない会話。
ホテルの立体駐車場に着いて車のエンジンを切ると、キャムレンさんは長い溜息をつきながら前のめりになってハンドルに体重をかけた。
そうして目を細めながら、頭のてっぺんからつま先まで無遠慮に私を見てくる。
「オシャレをして来てくれて、ありがとう」
「デートなんだから、オシャレしなきゃダメだよって……。サラさんがしてくれたんです」
「サラ? ああ、店長の婚約者か。警察署で会ったな」
「この服も、サラさんが貸してくれたんです。私はこんなに可愛い服、持ってないから」
サラさんから借りたタータンチェックのワンピースを握りつぶすと、キャムレンさんの大きな手が覆い被さった。
自分でも驚くくらい身体が跳ねて、キャムレンさんは細い眉を下げて困ったように笑う。
「取って食べないよ。今日のノエルは、良い匂いがするけどな」
「……香水も貸してくれたんです」
「サラさんは凄いな、完璧なコーディネートだ。女性の服に関心を持ったことがないから、なんと褒めれば分からないが、良いと思うぞ。いつものジーンズも、バーテンダーの制服姿もスタイリッシュでかっこいいが、今日のノエルは、凄く女の子で……。ああ、ダメだな。上手く言えない。兎に角、似合ってるって言いたいんだ、俺は」
「女の子らしい? 私が?」
「オシャレしてるノエルは、凄く可愛い。そう、これが言いたかったんだ、俺は」
可愛い? 私が?
お母さんの金切り声が聞こえた気がした。
「ノエル? どうした?」
助手席で石のように固まってシートベルトも外さないまま、しくしく泣き始めた私に驚きつつも、不可解そうに覗いてくる。
頭を抱えて泣いても、記憶という化物は私を襲い続けた。
お父さんが死んでアノ人が家に来てから、カラフルなペン、キャラクターが描かれたメモ帳、スカートも、フリルの付いた靴下さえも、全部捨てられた。
こんなのお前には似合わない。恥ずかしい。色気づきやがって。
アノ人が私の部屋から可愛いものを庭に投げ捨てていくのを、お母さんは止めてくれなかった。嫌悪と敵対に満ちた瞳で睨み付けられて、「あんたが悪い」って。
嫌だ。もう思い出したくない。いやだ。
キャムレンさんは突然泣き出した私に戸惑いながらも、私の頭を撫でてくる。骨張ってるけど暖かくて、大きい。
お父さんの手みたいだ。この感覚。懐かしい。
サラさんが丁寧にメイクしてくれたのに、涙でグシャグシャになってしまった顔を上げて、キャムレンさんをまっすぐ見つめた。
私が泣き出しても、アノ人みたいに髪を掴んで引き摺ったり、お腹を蹴ったりしない。ぎこちなく髪を撫でてくれるキャムレンさんを拒絶したら、アノ人が私にしたように、もっと苦しくて辛いことが先に待っているようには思えなかった。
「ノエル、ゆっくりで良いから泣いてる理由を教えて欲しい」
「昔のことを思い出して、悲しくなっただけです」
「本当に? 泣くほど、俺とのデートが嫌か? もしそうなら、ちゃんと言って欲しい」
「キャムレンさんとデートするのは嫌ですけど、泣いちゃう程じゃありません」
苦笑いを浮かべるキャムレンさんが、目尻貯まった涙の粒を指の腹で払ってくれる。
「どうしてそんなに、俺は嫌われてるんだ?」
「運命の人だとか、前世の恋人とか……。意味分かんないこと言うからですよ」
納得したような、していないような表情のまま、薄暗い車内でキャムレンさんは、しゃくりが収まるまで私の頭を撫でてくれた。
「ケーキが食べたいんだろ? 食べたら元気になれるぞ」
「子供みたいに言わないでくださいよ。私、もうすぐ十九歳なんですから」
助手席のドアを開けると、キャムレンさんは手を差し伸べた。車高が低い車は初めてだったから、立ち上がる為だけに手を借りたのに、キャムレンさんは私の手を離してくれなかった。
いつまで握ってるんですか? と、いつものように軽口を叩きたくなったけれど、キャムレンさんの緊張が、僅かな震えと手汗で伝わってきて、何も言えなくなってしまう。