前世と殺人④
「血の匂い? それは狼男じゃなくて、吸血鬼じゃないですか?」
無反応。
固まって動かないので、機嫌を伺うように背の高いキャムレンさんの顔を見上げ、ギョッとした。
キャムレンさんの青緑色の瞳は、琥珀色に変わっていた。
キャムレンさんは、さっきと同じように目の前に広がるペルカ伯爵領地だった山々を見渡し、最後に私を捉えた。
琥珀色の目を見開き、動揺していた。
初めて私と会ったときのように、唖然としながら。
「キャムレンさん、瞳の色が……きゃあ!」
言い終わる前に抱きしめられる。ビックリしたけど、嫌悪感が湧かなかった事に驚いた。
「キャムレンさん?」
返事は、なかった。
えーっと。どうしたらいいんだろう。
突き飛ばすのが正解かも知れないけど、階段の途中でそんなことをしたら危ないし。
キャムレンさんの匂いが、戸惑うばかりの私の鼻をくすぐる。香水はつけていないけど、人工的なサボンの香りがする。柔軟剤かな? 清潔感があって良い香り。
思わず固い胸に鼻をくっつけてクンクンと犬のように嗅ぐと、男らしい胸板の奥から、トットットッ、と随分早い心臓の音が聞こえる。不覚にも、頬が熱くなっていく。
キャムレンさんの心臓の音と、私の心臓のリズムが重なってしまった。
「あ、あの。そろそろ離してください」
腕の中で抗議すると、唇を噛まれる。
それが世間一般的に言うキスだと理解するのに、数秒かかってしまった。
やだ! 止めてよ!
のし掛かってきた肩を押し返しても、がたいの良い大人の男の身体はびくともしない。
思わず閉じてしまった瞳を恐る恐る開くと、琥珀色の瞳がすぐ傍にある。
嘘つき! 送り狼はしないって、さっき言ったばかりなのに!
臑を容赦なく蹴り続けたら、漸く私の身体を解放してくれた。
「や、止めてください! 何するんですか!」
思い入った感情を眉に集め、琥珀色の瞳を歪ませたキャムレンさんが、また私の顔を覗き込んできた。
もう一回キス出来ると思ってるの? ひっぱたいてやる!
右手を振りかざすと、彼は階段下を指差した。
「あれは、余がやったのか?」
指差された先を警戒しながら見ても、視覚情報が処理できない。
長い階段の先。踊り場に人が倒れている。
ピクリともせず、雨が上がった夜空に、ぽっかりと空いた穴のような月を見上げていた。
アスファルトに投げ出された白くて長い足。転がったハイヒール。
赤い服を着た女の人……さっきまでバーにいた大学生の女の子だ。
アレは、なんだろう?
チカチカと点滅する街灯が邪魔で、目を細めてみる。
遊び終わった後の操り人形のように曲がった首に、何重にも巻かれた細い紐。
アスファルトに溶けていくように染み出る赤い水。
胸の中心に、人工的な突起物。
それがナイフの持ち手だと気が付くと、さっきまでキスで塞がれていた唇から漸く甲高い悲鳴が飛び出てきた。
腰を抜かしてその場に座り込んだ私とは真逆に、キャムレンさんは走り出す。
横たわって動かない彼女の身体をあちこち触ると、「もうダメだな」と早々に蘇生を諦めて、マウンテンパーカーのポケットからスマホを取り出した。
見たくないと拒絶する意志とは関係なく、身体も目も動かせない。
明らかに、事故ではないと悟り、殺人、絞殺、刺殺。物騒な単語が頭を駆け巡る。
口紅が塗られた口をぱっくり開けて、月をも吸い込んでしまいそうな口の中にある空洞が怖くて、私はもう一度悲鳴を上げた。
赤い服だと思ったのは、ぬるりとした血で服が汚れていたからだと気が付き、彼女が何色の服を着ていたのか思い出そうとした。
だけど思い出せない。分からない。全然、分かんない。
喉の奥の悲鳴がこんがらがって嗚咽が漏れて、生暖かい涙が夜風で冷えた頬に流れていく。
何故、私は泣いているの?
お父さんのお葬式で涙が出なくて、薄情だとお母さんに叩かれた私が。
薄情な私が、泣いても良いの?
こんな時でさえも、お父さんを思い出してしまう私が。
彼女とは、店員と客という淡泊な関わりしかなかったのに、迸る感情が絡まり涙になって、流星群のようにまっすぐ落ちていく。
ブライアンに会うために足繁く店に通っていた、彼女の名前も思い出せないのに。
……ブライアン。ブライアンは、どこ?
なんで彼女と一緒じゃないの? 一緒に店を出たのに!
もしブライアンも殺されてしまっていたら、私は……!
震える手は悴み、顔をぐちゃぐちゃにしながら泣いていると、キャムレンさんが駆け寄って、また私を抱きしめた。
「大丈夫か? ノエルは、もう見ない方が良い」
キャムレンさんは、余が殺したのか、って聞いてなかったっけ?
余って、私っていう意味だよね? 俺が殺したのか? って、言ってたんだよね?
「キャムレンさんが……殺したの?」
「まさか! ずっと一緒にいただろ?」
「そ、そうですよね。ごめんなさい」
視界がキャムレンさんのブルーのシャツだけになっていて、もっと安心が欲しくてしがみついた私の背中を、キャムレンさんは戸惑いながら撫でてくれた。
「気にするな。この状況を見たら、誰だって動揺する。救急と警察には連絡したし、まだ犯人が近くにいるかも知れないから、大通りまで戻ろう。ノエル、歩けるか?」
「ダメ、ダメです。ブライアンを探さないと!」
「俺達が現場を荒らして探すより、警察に探して貰った方が賢明だと思うぞ」
産まれた直後の子鹿のように脚が震えている私を支えながら、キャムレンさんは今降りてきた階段を上っていく。
どうしてキャムレンさんは、そんなに冷静でいられるんだろう。
私に分かるのは、彼女が殺されていることと、キャムレンさんの瞳が、いつもの青緑色に戻っていることだけ。
警察署の居心地の悪い椅子に座るのは、二回目だ。
去年、この椅子に座った時は、ブライアンと弁護士さんが付き添ってくれた。これで漸く、毒親と縁が切れるのかと思うと、不思議な事に寂しささえも感じていたのに。
今は、啜り泣く私に厳しい目を向ける刑事達に何度も同じ事を聞かれ、何一つ悪い事はしていないのに、後ろめたくなってくる。目撃したことだけならまだしも、家族構成や趣味まで聞かれて、最後は口内に綿棒を突っ込まれてDNAも、指紋も採取された。
やっと解放されると思ったら、定年間際の白髪交じりの刑事さんに捨て台詞を吐かれた。
「コレに懲りて、夜遅くに出歩くのは止めなさい。あんな時間に繁華街をふらふらしてるなんて、亡くなったお父さんが天国で心配してるぞ」
どうしてそこで、お父さんの話題を出すわけ? 関係ないじゃん! 夜遊びしてたわけじゃないのに! アルバイトの帰りだって、何度も話したのに聞いてなかったの?!
流石にイラッとして反抗的な態度で廊下に出ると、キャムレンさんはフィンドレー小学校の子供たちが描いた交通安全ポスターを眺めていた。
「随分遅かったな」
キャムレンさんは飲みかけの缶コーヒーをプラスチックの椅子に置くと、自販機に小銭を入れる。そして、「何が良いんだ?」と尋ねられた。
「ミルクティーがいいです。暖かくて、甘いの」
なんか流れで奢って貰っちゃった。バックからお財布を取り出す気力もなく、私は缶コーヒーの置かれた椅子の隣に座る。
「同じ事を、何回も何回も聞かれて……。疲れちゃいました」
「まあ、仕方がないな。店長が犯人なら、従業員も何かしら疑われるだろう」
「え……?」
ブライアンが、犯人?
予想もしてなかった言葉に、ビリッと身体が弾ける。キャムレンさんを見上げると、目を見開いて驚愕している私に少し驚いていた。
「なんで? なんで、そうなるんですか? おかしいでしょ!」
「ノエルは、店長が犯人だと思わないのか?」
「酷い! ブライアンは、人を殺したりしません!」
「どうしてそこまで店長を庇うんだ? 普通に考えたら、一番怪しいのは店長だぞ。殺害動機は……あるのかないのか微妙だが」
喉の奥がグッと詰まり、一度止まっていたはずの涙が溢れてくる。
キャムレンさんの言いたいことは分かる。けど、少なからず交流のあったキャムレンさんがブライアンを疑うなんて。
「確かに見た目はチャラいけど……。ああ見えても情に厚い人なんです。一緒に住んでたことのある私が言うから、間違いないです。だってブライアンがいなきゃ、私は……!」
「一緒に住んでた? 店長とノエルが?」
「三ヶ月だけだけど……。一緒に住んでたからこそ、分かるんです。ブライアンは、私に料理の仕方を色々と教えてくれたんです。今でも……」
口を開けば開くほどに、うんざりした顔で座っているキャムレンさんに腹が立ってくる。吐きそうなほど泣いている私の顔を覗き込んできた。
「……好きなのか?」
「そうだよ、大好き! 愛してるもん!!」
大声を上げた私に一瞬怯んだキャムレンさんは、号泣する私をじっとりと見てくる。
「前から疑問だったんだ。何故、店長を名前で呼ぶんだ?」
「それは」
口を開いた私の背中に、誰かが抱きついてきた。
ジャスミンの香りがするロングヘアーが、粉雪のようにサラリと頬に当たる。
「サラさんっ!」
「ノエルちゃん!」
乙女チックなパジャマに不釣り合いな男物の突っ掛けサンダルを履いたサラさんが、私と同じように止めどない涙を流していた。