エピローグ ノエル・ミラーは強くなった
引っ越しのトラックを見送り、パチンと照明のスイッチを切ると部屋は薄暗くなった。荷物は一つもない。
一緒に映画を見たテレビとソファー。煮込みハンバーグを焼いた鋳物の調理器具。私の為に弾いてくれたピアノ。割れたガラスの花瓶や、床を汚した流血の跡も。
静寂を取り戻した部屋には夕日が差し込み、宙を舞う埃がキラキラと輝いていた。
医学生時代から過ごしていた部屋を去るのが感慨深いのか、いつもより言葉に力がないキャムレンさんの顔を見上げた。
「私、やっぱり不安です。キャムレンさんのお母さんは、話を聞く限り厳しそうですし」
「俺だって未だに怖い。でも、まあ気にするな。女同士の方が、話が弾むかも知れないしな。それに、行き遅れた息子の門出を盛大に祝ってたぞ」
「門出? 随分と楽天的な言い方ですね。強制連行でしょ?」
唇をとがらすと、素早くキスされた。
隙を見せればキスしてくるから、嬉しいけど困っちゃう。
「跡取りがやっと田舎に帰ってくるんだ。母さんも肩の荷が下りるだろ。問題は数年後だ。言い辛いが、早く孫の顔が見たいとか、跡継ぎを産めだの口喧しく言われるに決まってる」
「ひえー。プレッシャーだなあ。キャムレンさんの家は、総合病院なんでしょ? 精神科は、あるんですか?」
「勿論。ノエル、もしかして病院経営に興味でも持ったのか?」
「持つわけないでしょ。変な冗談を言わないで下さい」
いつものウククと押し殺すような笑い声に、私はどこか安心した。
リビングの床に座って、カーテンのない窓を見上げる。迫り来る春のパワーを持った西日は、じんわり汗が浮いてくるほど暑い。キャムレンさんも、私の隣に座った。
「オルソさんを呼んだら? そしたら、ずっと一緒に働けますよ?」
「いい考えだが……アロンザと引き離すわけにはいかないだろ。それに、どんなに離れても変わらないものがある」
「え~? 不滅の友情とか、熱いこと言っちゃうんですか?」
茶化すと、キャムレンさんは寂しげに笑う。
「まあな。一度は疑った友情だと一入な。オルソを信じるな、とノエルが言ったんだぞ」
「だって……。あの時は、私が作った容疑者リストに入ってたんですもん」
「血を見たら失神するから精神科を選んだオルソが、あの身体で殺害現場から走って逃げれるわけないだろ。院内食堂までの足取りは軽やかだが……」
「実行犯じゃなくても、内通者だった可能性があったんです。でももう二人の友情に、とやかく言う気はないですよ。事件は、終焉しましたし」
引っ越す前に、あの二重顎を触ってみたいけど、流石に穏やかなオルソさんも困惑しちゃうかなあ。ぷよぷよとしてて、気持ちよさそうなのに。
キャムレンさんは私のショートヘアーを指で掻き上げると、絆創膏のような医療用テープが貼られている傷跡を優しく撫でた。
「首の傷、痛むか?」
「大丈夫です。でも、痕が残るって言われちゃいました」
「若いから、直ぐ治るだろ。傷だって、いつか薄くなる。それにしても……息をしてて偉いぞ!」
「もう殺されたくはありませんよ。平和に暮らしたいです」
キャムレンさんは首の傷に唇を重ねた。そのまま、上へ。
唇の先が触れ合うだけで、胸が締め付けられる。
「ノエル、好きだ。愛してる。ノエルが俺の全てだ」
「キャムレンさんっ。は、恥ずかしいですよ」
「そういう顔するノエルは、凄く可愛い」
「違いますよ。さっきの台詞がクサくて、聞いてて恥ずかしいんです」
支配欲を満たすようなキスが終わると、キャムレンさんの顔をうっとりと見つめる。
彼は伝説となった快楽殺人鬼、ペルカ伯爵じゃない。
他人を信用し、友情を慈しみ、論理と道徳を身につけている。殺人衝動も無ければ、サディストでもない。性格に多少の難はあるけど、真っ当な人間だ。
それが何故か、胸を刺すように寂しかった。
「私、お医者さんになれるほど頭は良くないけど、馬鹿じゃないんです」
「ん? そうだな、経営に回るのが負担なら」
「そうじゃなくて。キャムレンさんの考えてる事なんて、お見通しってことです! 変なところで素直じゃないんですよ、キャムレンさんは。死に物狂いで心理戦なんかしちゃって」
「……オルソに何か言われたか?」
「言われてませんけど、途中から分かってました。一緒に住んだら、ボロが出ますよ。キャムレンさんって、詰めが甘いんだもん。クローゼットの奥にある箱の中身、見ちゃいました。水族館のパンフレットとバー・オアシスのレシートと一緒に入ってた、精神心理学の教科書を捨てたらどうですか? あんな所に隠してるから、エッチな本かと思っちゃいました」
キャムレンさんは、言葉を発しなかった。
だけど顔だけで感情を示す。動揺していた。
「私のことをマインドコントロール出来た、と本気で思ってたんですか?」
「本気では……ない」
「そうは思えませんけど。何でそんなことをしたんですか?」
「ノエルに……。無駄に年を取った俺の事を、好きになって欲しくて」
想定内の返事だったけど、予想外。
年の差?
私のお父さんと同い年だから?
「そんなに気にしてたんですか? 意外ですね、だってキャムレンさんの口癖は、『気にするな』なのに。当然、気にしてないと思ってました。私、ファザコンだから年上の人好きですよ」
ぎこちなく笑ったキャムレンさんには、乙女のような繊細さと脆さがあって、崩れてしまいそうだった。いつも飄々としているキャムレンさんの本質に触れたような気がして、優しく包むように手を重ねる。
「キャムレンさん、不安にさせちゃってごめんなさい。もう変な心理学は止めてもいいですよ。不安な時や心配なことがある時は、もっと肩の力を抜いて、私に甘えて下さいね」
「甘える? ノエルに、俺が?」
「私が年下だからダメ? それとも、甘え方が分かんないんですか? 胸に顔を突っ込んでみます?」
半分冗談だったけど、キャムレンさんは胸の谷間に顔を埋めた。自傷的に言うと、谷間というか小さな膨らみの狭間にある胸骨に、って感じだけど。
大人としてのプライドを投げ捨てて、まだ十九歳の子供とも大人とも言いがたい私に甘えてきてくれたキャムレンさんの髪を指で梳く。
キャムレンさんが、いつも私にしてくれるように。
メンズのヘアジェルの匂いがした。本能を擽るような官能的な香り。いつもビシリと決めているオールバックが崩れないように、髪に、額に、耳朶に唇を落とす。
「好きです、キャムレンさん。だーいすき」
「…………俺もだ」
「ずっと私の傍に居て」
「ノエル、ずっと一緒にいよう。大丈夫、幸せにするから。ノエルに安心をあげるからな」
「私もあげますね。キャムレンさんに、安心を」
キャムレンさんは目頭が熱くなったのか、私の胸の膨らみで涙を拭いてきた。顔を歪ませて背骨が折れるんじゃないかと思うくらい、私を強く抱きしめる。
キャムレンさんは、冷酷非道なペルカ伯爵の血と魂を受け継いでいるから、人道から外れたマインドコントロール計画を思いついたのかな?
マリアさんが、ルーカスさんを操ってたように。
お母さんとアノ人が、暴力でねじ伏せたように。
人をコントロールしたいなんて、普通の精神状態じゃない気がするけど。
それとも、ロマンチストをこじらせちゃった?
……どっちでもいいか。
彼はハーヴィー・ペルカ伯爵じゃない。
伯爵の血と魂を受け継いだ、全くの別人。
ネガティブだった私に手を差し伸べてくれて、どんなに冷たく接しても、諦めずに追いかけてくれた。運命を信じる、ちょっと変な人。
それが、私が好きなキャムレンさん。
「キャムレンさんは、賢すぎるのがダメなんですよ。もっと感情に身を任せれば良いのに。キャムレンさんの前世の人は、感情剥き出しでしたよ? 生まれ変わって、性格が変わっちゃったから……仕方ないか。でも、私は今のキャムレンさんの方が好きだけど」
「え? なんだか会ったような口ぶりだな」
「話せば長くなるから、飛行機に乗ったら話しますね。キャムレンさんの故郷に行くの、楽しみです。お義父さんは、病院長なんですよね? そんな偉い人と、何を話せばいいんだろう。緊張しちゃうなあ。私の予想では、キャムレンさんはお父さん似な気がするんですよ。ちょっと怖そうだけど、お義母さんと仲良くなれると良いなあ。友達のような母子関係、私にはなくて……。一緒にショッピングに出かけられたら嬉しいなあ」
「さっきまで不安だ、って言ってたくせに」
「大丈夫ですよ。また不幸が襲ってきても、私は強いし、それにキャムレンさんが傍にいてくれるし。……どうして泣いてるんですか?」
「ノエルと結婚できるのが、嬉しくて」
「まだしてませんよ? それ、挙式の日に言ってくださいね」
キャムレンさんを胸に抱きしめながら、夏を終えた向日葵のように顔を伏せる私の薬指のダイヤモンドが、闇を切り裂く茜色の日差しでより一層輝く。
病室で見たナイフのように銀色に光るけれど、この輝きには幸福しかない。
逃れられない運命がナイフを突き刺してきても、私は彼を守ってあげたい。
今世は、ただひたすら幸せに暮らせるように。
これが、私の愛。
キャムレンさんだけどペルカ伯爵じゃない彼が、ノエルだけどペルカ伯爵の愛人じゃない私を抱きしめて、あの時みたいに言うの。私の気も知らないで。
「ノエルを狂おしいほど愛してる。……愛してるんだ」
終




