終焉の世界③
鎖骨を圧迫するように、胃液が込み上げてきた。
もう限界。ぐえっ、と変なゲップが出て、両手で口を押さえてキッチンのシンクまで歩く。ペルカ伯爵は、目だけで私を追う。
泣きながら、胃の中身を全て、シンクにぶちまけた。
胃酸で喉が焼けるように痛いし、口の中は酸っぱい。相変わらず頭はガンガンと痛むし、身体に力が入らない。吐き終わって、薄ら瞼を開ける。
「最後の晩餐じゃなくて、最後の朝食だな」と、シニカルな笑みを浮かべるキャムレンさんと一緒に食べた朝食が胃液に混じって、そこにあった。
声が震えてしまうけど、私は叫ぶように怒鳴る。
「私はこの生活が気に入ってたの! このマンションで、キャムレンさんと一緒に過ごす時間が、何より大事だった! だから返して! キャムレンさんを返して!」
「その生活は、この男が。つまり余が与えてやったモノだ。今世でも不幸なお前を救ってやったんだぞ。……生まれ変わっても、お前はどうしようもなく不幸だ」
「貴方に頼んでない! アノ人を殺してと、私は頼んでない!」
拳で迎撃してやりたいけど、女の私では男の力に敵わない。
ペルカ伯爵が大きく一歩歩み寄ったので、睨み付けながら二歩下がる。
強固な覚悟や強気な言葉とは裏腹に、脚が震えていた。怖くないと言えば嘘になるけれど、闘志の炎が弱くなる事はなかった。
ジリジリと詰め寄られる。後ろの冷蔵庫が私の行く手を塞ぎ、キッチンからリビングに向かう道は、薄笑いのペルカ伯爵が立っている。
逃げられない。
ペルカ伯爵に捕まってしまったら、私はもう二度とキャムレンさんに会えないかも知れない。
――そんな事、させない!
私が許さない! 覚悟は、出来てる。
置きっぱなしにしていた包丁を、咄嗟に手に取った。
「フン……。そんなモノで余を刺そうと思ってるのか?」
「まさか。こうするの」
一縷の望みをかけて自分の首に刃を立てると、初めてペルカ伯爵の顔を微かに歪ませる事が出来た。
食器と一緒に洗った後、吸水性に優れているキッチンタオルの上に置いていた包丁は、まだ乾いていなかった。水滴が首筋を垂れていく。
もしかした水じゃなくて、私の血だったかも知れない。
「死んでやるから! それ以上近寄ったら、貴方の愛人の魂ごと……死んでやるっ!」
「随分と……、頭が回るようになったんだな」
「貴方も愛人も死んでるの! 五百年前に死んだの! 捲土重来して、何になるのよ? ……難しい言葉、知ってるでしょ。私、今世では教育を受けてるの。字だって、読めるんだから」
「余が字を教えたことを、覚えてるのか?」
私は、答えなかった。
どうしてペルカ伯爵の愛人には教養がなかった事を知っているのか、自分でも分からなかったし、ペルカ伯爵の歓喜を押し殺した声を耳にした瞬間、懐かしいと感じてしまったから。
武道は完全素人の私の挑発に、ペルカ伯爵は睨み付けるだけ。
互いに譲れない人がいる。
ペルカ伯爵は愛した女を欲しているし、私はキャムレンさんの意識が戻ってきて欲しい。
利害一致しないのは、生まれ変わったせいだ。
「キャムレンさんの身体から出てけ! じゃないと……、私は本気よ!」
これは脅迫だけど、私は死んでも構わないと本気で思っている。
キャムレンさんから沢山の幸せを貰った。色々辛い事もあったけど、悪くない人生だった。愛してくれる人を愛せて、私は幸せだ。そう思って死ねる。
「余に刃向かうとは……」
「私は、貴方のノエル・ミラーじゃない! 生まれ変わったの!」
苛ついた様子で一歩踏み込まれたので、包丁を持った手に力を入れた。チクッとした小さな痛みが首筋に走る。暫く睨み合いが続く。
ふと、ペルカ伯爵は声も出さずに笑った。
「時間切れか。お前の勝ちだ。やはり、お前は強い」
玄関が騒がしい。インターホンのチャイムが何度も部屋に鳴り響く。
いつもフロントにいるコンシェルジュさんの声も聞こえるから、玄関のオートロックを解除しているんだろう。
琥珀色の瞳を持つペルカ伯爵は、優しくも鮮烈な声で私に言った。
「だから余は、お前が好きなんだ……」
ペルカ伯爵は、瞼を閉じる。
再び瞼を開けた時、青緑色の瞳に激しい動揺が走り、「バカな事はするな」と震える声で言われ、私は包丁を握る手を緩めた。
「キャムレン……さん?」
「ノエル、大丈夫だ。大丈夫だから、それを捨てなさい」
キャムレンさんの目が泳ぐ。どうやって私を落ち着かせるべきなのか迷っている。人を殺せるような人間の目つきじゃない。
あぁ、私が大好きなキャムレンさんだ。
気が緩み、遅れてやってきた死の恐怖で、脚だけじゃなく手までブルブルと震え始める。
床に落ちていった包丁を見下ろした。包丁の刃には、想像以上に鮮血が付いている。今更ながら首がチクチクと痛み、手で押さえると、予想より多い出血量にクラリと眩暈がした。
泣き喚きながらキャムレンさんに抱きつくと、到着した救急隊員と警察官がリビングとキッチンに雪崩れ込む。
救急隊員とキャムレンさんが話す横で、倒れているルーカスさんに視線を移す。
ルーカスさんも前世に関わった人なのは、ペルカ伯爵の口ぶりで分かったけど……。
ルーカスさんは、この騒ぎにもピクリともせず、床に倒れたままだった。
もしかして死んじゃった?
私のせいで、キャムレンさんに人殺しをさせちゃった? 私のせいだ!
ルーサスさんの姿を見てギャーギャー泣き喚く私を、キャムレンさんと救急隊員が押さえ込む。それでも悲鳴は止まらない。愛娘が毒殺された時のように、私は叫び続けた。
娘……? 毒殺……? 私、なにを思い出してるの?!
いやっ! 怖い、思い出したくないっ!
私は、私はノエル・ミラー! それ以外の、何者でもないっ!
「ごめんなさい、キャムレンさん! 早く電話に気が付いてたら……!」
「ノエルは悪くない! 自分を責めるな。ルーカスが……。いや、もっと早く俺が駆けつけてれば……」
ペルカ伯爵は、快楽殺人鬼。
殺した人数は、百人、千人とも言われているが、未だにハッキリした数は分かっていない。
殺人は最大の罪だ。万死に値する。
何度も生まれ変わるのは、人を殺した罪?
それとも、貴族の特権?
「もうどこにも行かないで。私を一人にしないで」
「どこにもいかないよ、ノエル。当たり前じゃないか」
うずくまりながら泣く私の手を、キャムレンさんはずっと握っていてくれたのに、警察官が私達を引き剥がした。また私の口から甲高い声が出る。
キャムレンさんが警察に捕まっちゃう! 刑務所に行っちゃうの?!
「止めて! キャムレンさんは悪くないの、連れてかないでっ!」
「ノエル、落ち着きなさい。もう大丈夫だから」
頭からの流血が止まらないキャムレンさんの血と涙が、ポタポタと顎から流れ落ちていく。
制服を着た警察官に囲まれているキャムレンさんを見て、寒くもないのにガクガク震える私に毛布を掛ける女性の救急隊員が、気の毒そうな顔を向けている。知らない人にそんな顔をさせてしまった事が惨めで、涙がボロボロと零れ落ちていく。
いつの間にかリビングの隅にいたオルソさんが、事情聴取されながら泣いているのが見えた。
止まらない叫びが、皆を泣かせてしまっている。
でも叫ばないと、死んじゃいそうだった。
キャムレンさんはエマを殺してないのに、私のせいでルーカスさんを……。
ペルカ家を守るべき立場にあるのに、私が足を引っ張ってしまった。
ペルカ伯爵が言っていた言葉が、脳内を反芻する。
『生まれ変わっても、お前はどうしようもなく不幸だ』
私は不幸だ。絶望が、すぐ傍にいる。運命の力には、逆らえない。不幸だ。
どうしてこんなに辛い目に遭わなきゃいけないの? 私は、何も悪い事はしてないのに。
「心停止から回復、現在自発呼吸。精神的に不安定ですが、バイタルは安定」
救急隊員が、どこかに連絡している。
「意識不明の、犯人と思われる男性から搬送します」




