終焉の世界②
一定のリズムで胸に痛みが走り、ウーッと呻きながら、海老のように背中を曲げる。重たい瞼を無理矢理開けると、キャムレンさんの顔が見えた。
「ノエル、ノエル! ノエル、息をするんだ、ゆっくり……そう、吸って、吐いて」
言われた通りに深呼吸をしようとすると激しくむせ、肋骨がギシギシと痛む。
呼吸を再開させた私の胸の上に置かれていた、キャムレンさんの両手が離れていく。
「自発呼吸開始、GCSは八……いや、九点」
『分かりました、引き続き意識レベルの変動を』
知らない人のくぐもった声が耳元で聞こえ、ゆっくり顔を動かすと、キャムレンさんのスマホが通話中になったまま床に置いてあった。
「ノエル、もう大丈夫だ。もうすぐ救急車が来るからな!」
心臓マッサージをして、私を生き返らせたの?
どういうわけか頭から出血しているキャムレンさんの足元には、私の首を絞めたルーカスさんが倒れていた。そのすぐ傍には、ガラス製の花瓶が粉々に割れている。
うわー、サスペンス劇場みたい。
下らないことを思いつく程度には、意識はしっかり保てている。
だけど、頭がガンガンして気持ち悪くて吐きそう。呼吸をする度に肋骨が痛い。手足は動くけど力が入らない。
「ノエル、俺が分かるか?」
「……ぎゃ、む、れん、さ……ん」
喉が潰れ、口の中がカラカラで上手く喋れなくて、私の声じゃないみたいだった。
「良かった……。間に合って良かった。ノエルが死んだら、俺はもう生きてる意味なんてない」
涙袋に付いた安堵の涙を指先で拭うと、キャムレンさんの瞳が琥珀色に染まっていく。
青緑が消え、琥珀色。
ペルカ伯爵と同じ琥珀色の瞳に変わったキャムレンさんは、床に置かれていたスマホをタップし、救急隊との通話を切った。
「手紙は?」
その声は、いつもより重みがあり、甘いけど角が立っている。
横たわったまま、エプロンのポケットに入れていた『手紙』を、彼に差し出した。
「見つけたのか。どこに隠してた?」
「げ、んかんの……、く…、靴箱に」
「そんなところに? 書斎をいくら探しても見つからないはずだな」
私の手の中にあった手紙を奪うと、書かれている文にさっと目を通した。
そして、ビリビリに破いた後、口に含んで……飲む。
え? 食べた……?
いま、『手紙』を食べた……?!
彼は手紙が入っていた名札ホルダーを持って、倒れているルーカスさんに近づく。
「なに……してるんです……か?」
さっきより喋るのがスムーズになってきた私を一瞥し、琥珀色の彼は、名札ホルダーをルーカスさんのズボンのポケットに入れた。
「手紙は、もうない。ノエル・ミラーを殺そうとしたコイツが、女の血が付いている凶器を所持している。……分かるだろ?」
ルーカスさんがエマを殺した犯人だと、警察は断定するはず。
一件落着。だけど……。
本当にルーカスさんが、エマを殺したの?
キャムレンさんを憎んでいたノイローゼ気味の人が、愛を語る?
「これでペルカ家は安泰だ」
琥珀色のキャムレンさんは、オペラを歌うかのように両手を広げ、悦に浸っている。
「貴方は、『あの』ペルカ伯爵なんですか?」
「如何にも」
何の誤魔化しもなく、彼は認めた。
あまりにもファンタジーすぎて、現実感がなかった。けれど、現に琥珀色の瞳に変わる瞬間と、今までの怪奇な言動を知っていたのでストンと胸に落ちた。
「五百年前に亡くなったペルカ伯爵の幽霊が、キャムレンさんに乗り移ってるんですか?」
「幽霊? くだらない。余は、そんな下等な者にはならない。この身体には、ペルカ家の血と魂が継続しているのだ」
「え……? 意味が分かりません」
私でも分かるように話して欲しいのに、ペルカ伯爵は、倒れて動かないルーカスさんの腹を蹴り上げた。
「ノエル・ミラー、お前ならどう殺す? 救急車到着まで、あと数分だ。厄介な警察も来る」
「はあ?」
ころす? 殺す? 殺すって、誰を?
私を? それとも首を絞めてきたルーカスさんを?
「正当防衛で殺すのが一番だ。現代の法律は複雑怪奇だからな。コイツには、積年の恨みがあるんだ。記憶が無いくせに余の腹を刺してきたり。四つ前の余は、密告されて刑務所に行ったんだぞ。あの時は酷かった」
記憶がないくせに? 四つ前の自分? 刑務所?
キャムレンさんの身体を借りているペルカ伯爵は、ルーカスさんの頭をサッカーボールのように蹴飛ばした。
もしかして、本当にルーカスさんを殺すつもりなの?!
止めて! 止めて! キャムレンさんの身体で、そんなことしちゃ駄目!!
「止めてっ!!」
私は叫んだ。叫んだ瞬間、目眩と吐き気が襲って、フローリングの床に少し吐いた。
吐き終わると、つま先に力を入れて、ゆっくり立ち上がる。
身体が痛い。どこもかしこも痛い。指先は痺れてる。抵抗した時に上着が破れたのか、ブラジャーが半分見えてしまっているし、失禁していて下着とズボンは濡れていた。
だけど、今はそんなのどうでもいい。
闘志に燃えた私は、光り輝く琥珀色の瞳を睨み付けた。
「どうして止める?」
さっきとは打って変わった敵意しかない語調に、死の恐怖を感じて震え上がった。
だけど負けられない。私が、キャムレンさんを守らなきゃいけない!
「やめて下さい。人殺しなんて、絶対にしちゃいけません!」
「ノエル・ミラー、どうしてそう思う? 本気で言ってるのか? 人を殺すのが、何故ダメだと言うんだ?」
「……え?」
「法律で決まっているから、なんてツマラナイことは言うなよ」
ペルカ伯爵は倒れているルーカスさんには、もう興味を失ったらしい。ルーカスさんを跨いで近づいてきたので、突然の質問攻めに気圧されていたが、私は逃げるように一歩下がった。
「どうした? 早く答えろ」
「悲しむ人がいるからです」
「違うぞ、ノエル・ミラー。人が人間を殺せるのは、相手を同じレベルの生き物だと思っていないからだ。お前は牛や豚が夕食に出て、嘆き悲しむか? 蟻を踏んで罪悪感に咽び泣くのか? そんな事はしないだろ。家畜や虫は、人間よりワンランク下の生き物だ。自分よりレベルの低い、愚かな生き物なら殺しても構わない」
「自分より弱いから人を殺して良いなんて、そんな理屈はオカシイです。だいたい、一体なにで決めるんですか? 頭脳ですか? 体力ですか? 人柄ですか? 人間に優越を付ける基準なんて、ないじゃないですか!」
「基準は身分だ。皇族は、神に選ばれた支配者。貴族は、皇族に選ばれた一族だ。平民共を支配しなくてはならない責任と資格が、貴族にはある。貴族の宿命だ」
「貴族だなんて関係ありません! 人殺しは、悪い事です。貴方は、自分の犯罪行為を正当化してるだけです! 他人の命を。人生を奪うなんて。なんの権利があって、そんなこと……」
頭がおかしい。クレイジーだ。異質。狂ってる。
理路整然と持論を並べるペルカ伯爵には、罪悪感なんてない。
何人殺しても、罪悪感に心が痛む事はない。
異常な思考だけど、ペルカ伯爵は本気だ。
自分が間違ってるなんて、これっぽっちも思ってない。
「貴方だって、殺人がいけないことだと本当は分かってるはずです。だって、有罪になって処刑されたじゃないですか!」
「疑わしきは罰せず。現代の言葉に置き換えれば、殺人罪は証拠不十分で不起訴。余が有罪になったのは、共犯者をかばったせいだ。だから、光の入らない地下牢に幽閉された」
閉所暗所恐怖症。キャムレンさんが、随分前に言っていた。
緊急停止したエレベーターに、閉じ込められたって……。
『非常灯の明かりだけじゃ暗くて、ここで死ぬかもしれないと思うと怖かった。その時、手を握ってくれた女の子を好きになった……気がした』
ペルカ伯爵のさっき言っていた『血と魂の継続』って、ご先祖様の記憶が僅かに残っているって事……?
「だからキャムレンさんは、暗くて狭いところが苦手なの?」
「気にするところは、そこなのか?」
苛立ちを抑えながらも恩愛が籠もった表情で、私を見つめている。
「俺の共犯者は、ノエル・ミラーだ」
驚愕に息を吸い損ねて喉から、びゅ、と潰れた音が出た。
「嘘、言わないで……。私、悪い事なんてしてません」
荒れ果てた家庭環境で養育されたら、非行に走る人が多いのは知ってる。
だけど、私はそうじゃない。
お父さんを裏切りたくない。だから、私は悪い事なんてしない。
「キャムレンさんの身体で人を殺さないで! そんな悪い事、絶対にダメ! キャムレンさんは変わり者だけど、優しいの! 殺人なんて……、そんな酷い事は出来ない人なの!」
「可笑しな事を。殺人は、本当にやってはいけない事か? 余がノエル・ミラーの継父を殺してやった時、お前は喜んでいたぞ」
「えっ?!」
ペルカ伯爵が……アノ人を?
言葉が詰まる私を見て、少し表情を緩めた。そして、倒れているルーカスさんを指差す。
「薬量をコイツの名前で弄った。だからキャムレン・オーウェン・ペルカに、俺が潜んでいる事を、コイツに気付かれてしまったが……。継父は手の施しようがなかった。逃れられない死を、少し早めただけだ。お前が気に病むことじゃない」
猫を可愛がるような声色に変わったことが恐ろしく、背中に一筋の油汗が流れていった。
コイツ呼ばわりされたルーカスさんは、気絶しているのか死んでいるのか、相変わらずピクリとも動かない。
「本当に気が付いていないのか? それとも知りながらも、真実から目をそらしているのか? 刮目しろ、ノエル・ミラー。記憶は薄れて滲みもしないが、この男は余の血と魂を受け継いでいるんだぞ?」
答えに臆する私に、ペルカ伯爵は、歌うように喋りだした。
「この男とロマンチックな恋愛をしたと思っているのか? ……あぁ、残念だ。余は悲しいぞ。この男は一目見ただけで、お前を唯一無二の存在だと直感したのに。お前は薄情な奴だな! だからこそ、お前を手に入れるために、手段は選ばなかった。金と時間をかけて気を引き、警戒心を解いた。会う度に『好き』とウソを言わせて。ノエル・ミラー、サブリミナル効果は効いたか? 俺を見ながら好きだと口にさせることで、無意識下に好意をすり込ませようとしてたのが分からなかったのか? 飼い犬の話や、口喧しい母親の話もしたな。ペルカ家を僻むガキ共の話も……。正しくアンダードック、自己開示の効果だ。お前の信頼を得たと確信したら、突然連絡を絶った。うっかりスマホを忘れていった、と本気で思ってたのか? 気を引く作戦だと、何故疑わない? 会いたくて堪らなくなっただろ? 相変わらず単純な奴め。プレゼントを贈るのは、返報性の原理だ。プレゼントを贈る男のために、何かしてあげたいと思ってくれたよな? 弱っているお前が家に転がり込んできたら、寂しさや自己否定感を埋めて、お前を褒め称え、ピグマリオン効果を活用して自身に依存するように仕向けた。今だってそうだ。フィンドレーから離れ、親戚と疎遠にさせようとしてるのが、分からないのか? どこに逃げても、無駄だ。引っ越し先まで追跡するよう、探偵に金を払ってたぞ。お前は見知らぬ土地で孤立し、縋る相手は、追いかけてきたキャムレン・オーウェン・ペルカしかいなくなる。十代の少女に熱心に言い寄るのは、成熟した大人として正しい行いだと思うか? 年の差を疑問に思う外部の人間が口出ししない為に、この男は社交的に振る舞うようになった。人は肯定的に思うだろうよ。愛する人が出来て、あの男は変わった。ノエル・ミラー、オルソと二人で話してたな? 何を言われた? 本当の事を言ってみろ。オルソは、この計画に勘づいている。余なら真っ先に殺しているが……、いずれ対処するだろう。人間が安心を求めるのは本能だ。マインドコントロールされても、悪い気はしなかっただろ? ……何故泣く? また優しく慰めて欲しいのか? 『ノエル、一緒に田舎に行こう。俺がノエルに、安心をあげるからな』ハッ、実にくだらない!」
ペルカ伯爵は私に向かって、ダンスを誘うように腕を差し伸べた。
「ノエル・ミラー、来い。お前は初めて生まれ変わったから、道理が分かってないんだ」
ウククと卑しく笑っている。優しいキャムレンさんが私をからかう時に発する、押し殺すような笑い声と同じなのに戦慄が身体を駆け巡り、本能が警告音を鳴り響かせる。
「また余と一緒に遊ぼうじゃないか」
「……遊ぶって何? 私に人殺しさせようとしてるの? 絶対に嫌!」
「お前が人を殺せるわけないだろ。人殺しだけは、どうしてもイヤだと泣いて嫌がってたじゃないか」
ペルカ伯爵は、目の前にいる私に話しかけているのに、違う誰かを諭すように言う。
キモチワルイ。
宇宙人と話しているみたいな、決定的な価値観の違いに、再び吐き気がしてくる。
「私、そんな事を貴方に言ってません」
「お前がノエル・ミラーとして生を受ける前の話だ。つまり、前世。……狂おしいほど愛してやったのに、忘れたのか?」
『前世の恋人』
『運命の人』
『前世では、ノエルと結婚は出来なかったんだろうな』
『ノエルと話してると、海馬にある古い記憶のドアが開くんだ。ドアが開く度に、俺が体験したことがない感情が蘇ってくる』
「わ、わっ、わたし……っ、私の前世は、ペルカ伯爵の愛人だった……の?」




