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アダージェットの戦慄⑦

三次救急指定病院では、化学工業の爆発や飛行機墜落の大事故が起こったりすると、休みでも呼び出されるらしい。でもそんなの滅多にない。大抵の呼び出しは、受持患者の急変。だから夜中の電話は嫌だ、そうキャムレンさんが前に言っていた。


 私はキャムレンさんみたいにお医者さんじゃないけど、滅多に鳴らないスマホが深夜零時を回っているのに鳴り響いた時、嫌な予感しかしなかった。

 キャムレンさんが傍にいてくれれば心強かったのに、今夜は当直で私は一人。


「ブライアン? どうしたの?」

「ノエル……。行くかどうかは、ノエルが決めた方が良いと思って連絡したんだ」

「行くって……どこに? 何があったの?」

「公衆電話から、かかってくるからな」


 ハッキリ言わずに切れてしまったブライアンからの電話に心がざわついて、眠気なんて、どこかに飛んでいってしまった。誰の緊急事態なのかは、察しがつく。


 諦めも入り混じってるけど覚悟を決めて公衆電話からかかってきた電話を取ると、懐かしい声が聞こえ、自分でも馬鹿みたいだと思うけど胸が詰まった。


「ノエル? ノエルなの?」

「…………お、おかぁ、……さぁんっ」


 どうして私を殴ったの? 

 アノ人に殴られてた時、助けてくれなかったくせに!

 なんで今更、連絡なんかしてくるのよ!


 だけど……。


 お父さんが死んじゃう前の優しいお母さん。あまーいスクランブルエッグを作ってくれた、お母さん。お父さんと一緒に柔らかく私の頭を撫でてくれた、お母さん。


「お、お母さん……」


 絞り出すようにもう一度言うと、息が詰まって鼻の奥がツンと痛くなる。

 心の拠り所にしていた記憶が鮮明に蘇ってきて、お菓子売り場の子供のようにみっともなく泣き喚きたいけど、私より先にお母さんが電話の向こうで空気が裂けるような泣き声を上げていた。


 もうすぐ死んじゃうのよ。死に目には会ってあげて。家族じゃない。

 今夜が峠なの。貴方の事を思って言ってあげたのに。

 なんて薄情な娘なの。ここまで手塩にかけて育ててあげたのに。


 キンキンと泣き喚くお母さんを宥めながら、病院の場所を尋ねると、逃れられない運命だと悟った。「今から行く」と伝えて、二時間後に家を出る。五分で到着すると、居場所がバレてしまうから。


 裏門の夜間出入り口。時間外面会者名簿に昔の名前を記載し、年老いた警備員に特別面会者と書かれたバッチを貰って、エレベーターで十階へ。


 夜の病院は薄暗く、遠くから電子音が聞こえ、人の存在を機械で感じる。

 幽霊が出そうだな、と思ったけど直ぐに打ち消す。


 もし本当に幽霊がいるなら、絶対にお父さんは私に会いに来てくれたはず。だけど、来てくれなかった。だから幽霊はいない、そう思う。


 今時はナースキャップを被っていないから、看護師さんなのか分からないけど、きっと看護師さんであろう中年の女性に名前を告げると、如才のない微笑みでナースステーションの隣の個室に案内される。


 スライド式のドアを開けると、げっそりと頬が痩けたアノ人はもう動く事なくベッドで仰向けになっていた。


 私が家で時間を潰している間に、心臓は止まってくれたらしい。


 よかった……。

 もう私は、骨が折れるほど殴られない。髪を乱暴に切られない。汚い言葉で罵られない。

 冬の夜に薄着のまま、ベランダで一晩過ごすこともない。


 今までされた事を思い出し、安堵が混じった歓喜の溜息を長く吐いた。

 針で刺したら破裂しそうなお腹の上に乗った、黄疸で蜜柑色に染まった手を握りしめながら、お母さんはさめざめと泣いていた。


 こんな時でも、お母さんはスナックで極めた厚化粧をしているのが不思議。分厚く塗られたマスカラはウォータープルーフなのか、洪水のような涙でも滲んでいない。


 どうしてそんなに泣くの? お母さんだって、殴られてたのに。お父さんが残してくれた保険金を使い果たし、仕事を突然辞めてきたと思ったら、お酒ばっか飲んで、酔って暴れて。


「どうして涙の一つも見せないの? あんたって、いつもそうよ!」


 お母さん、怒ってる。お父さんが死んだ時と一緒だ。突然の不幸に襲われて、どうしたら良いのか分からないまま、悲しみは激しい怒りに変わり、心を燃やし尽くす。

 私を責めることで、お母さんは心のバランスを取っているんだろうな。


 身に覚えがあった。


 キャムレンさんが故郷でお見合いをしていたと知った時、失恋にも似た痛みをどう対処して良いのか分からず衝動的な感情に翻弄されて、私は激怒した。怒りのエネルギーで、自分を奮い立たせようとしていたんだ。


 オルソさんが私に心理学を教えてくれなかったら、いま冷静にお母さんを見ることが出来なかっただろうな。


 お母さんは涙で汚れた顔を向けると、キャムレンさんにプレゼントされたカシュクールブラウスにプリーツパンツを着ている私をジロジロ見る。そして、小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。


「随分良い物を身につけてるじゃない。まぁ、頭の悪いあんたができる仕事なんて、たかが知れてるけどさ。いいね、楽しそうで。私は毎日弱っていくこの人を看て、辛い思いをしていたのに。私を置いて、遊び歩いて楽しんでたんでしょ? 本当に親不孝者ね」


「おかぁ……さん」

「あんたの瞳の色、あいつにソックリよ。その目で見ないでくれる? 目障りだから!」

「……お父さんのことを、『あいつ』だなんて言わないでよ」


「五月蠅い! あんた、親に刃向かう気なの?! 許さないわよ! 皆で私を一人にして! 私のこと、ずっと馬鹿にしてたんでしょ? 自分だけ幸せになろうと思わないで! 私と同じくらい……いいえ、それ以上に不幸にならなきゃ、許さないから!」


 この歳になって漸く分かったけど、お母さんはとても弱い人だ。人間味がある、と言っても良いのかも知れない。児童相談所やドメスティックバイオレンスを専門に扱う女性警察官の人が来ても、お母さんは差し出された手を払いのけていた。アノ人に殴られて入院した時でさえ、階段から落ちた、とバレバレの嘘をついてたし。


 きっとお母さんは、こう思っていたはず。

 私より不幸な人が世の中にはいるんだから、甘えたらいけない。

 きっと、そう。そう信じて瞼を閉じて何も見なければ、楽になれるから。保身のために辛いことから目を背けて、幸せになる努力もせず、ただ現状に流されている。


 とても私に似ていた。


 過去と向き合うのが嫌で、忙しいと最もらしい理由を付けてカウンセラーに行くのを止め、将来のことを深く考えずブライアンに甘え、キャムレンさんから好意を寄せられたら、幸せになれるチャンスがあったのに自ら拒否しようとした。


 私たちは、なんて似てるんだろう。


 昔の親友にでも会ったかのような懐かしさと忘れかけていた愛おしさを感じ、私はお母さんの背中を黙って眺める。そこに、昔の私が見えた気がした。


 アノ人に殴られて泣き崩れるお母さんの背中を撫でて慰めていたけれど、お母さんは一度だって、私を慰めてくれなかった。

 もう私は、あの背中をさすって、お母さんを慰めたいと思えない。

 自業自得だと罵る憎しみではなく、お母さんが選んだ人生を冷めた目で見つめ続けた。


 私は、お母さんに愛されなかった。 

 私は、お母さんみたいに生きたくない。


 だから、枷を外した。諦めたの。お母さんと和解する事を。


 そんな夢みたいな事に縋って、一人で傷ついて馬鹿みたい。


 お父さんが生きてた時の優しいお母さんとの思い出は、心の地底湖に投げ捨てた。もう決して、浮かび上がっては来ない。目頭に迫る思いは、もう湧き上がってこなかった。


 幸せになっちゃいけない? 

 嫌だ! 私は絶対に幸せになる! 

 お母さんの呪いの言葉になんて、耳を貸さない!


 死体に縋って、支離滅裂な恨み言を吐き捨てるお母さんの後ろ姿を黙って眺めていたら、背後にあるスライドドアがギギッと鳴ったので振り返ると、キャムレンさんが立っていた。


 生気を宿していない冷酷な瞳で部屋を一望し、最後に私を捉える。


 落雷のような衝撃で、魂が引き裂かれるかと思った。


 このキャムレンさんは、いつものキャムレンさんじゃない。


 だけど、会った事がある。


「キャムレン……さん?」

「手紙を探せ」


 私の掠れた声に応えるように、琥珀色の瞳を歪ませた彼は、意味ありげな笑みを口元に浮かべ、ドアを閉めた。


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