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アダージェットの戦慄⑥

 たった一時間の外出だったけど、一週間ぶりに外の空気を吸って、いい気分転換になった。


 ショックで泣いてしまった顔をキャムレンさんに見られたくなかったし、マリアさんにも気を遣われたくなかった。それに、オルソさんと一緒に二人の元に戻っても、もう楽しめなさそうだったし。 勝手に一人で帰ったから、キャムレンさんは怒ってるかも知れない。


 キャムレンさんから何通もメールが来ていたけど読む気になれず、ソファーに寝転がり、スマホでネットニュースを順に読んでいたら玄関が開く音がした。


 私はキャムレンさんに笑いかける。正確に言うと、吹き出した。だって、キャムレンさんったら、薔薇の花束を持ってるんだもん。それ、どこで買ったの? マンションの隣にあるスーパーの中の花屋さん? そんな薔薇の花束抱えて、恥ずかしくないの?


 あの後、オルソさんがキャムレンさんに何か言ったんだろうな、と容易に想像できた。

 お腹の底から込み上げてくる笑いを堪えながら身体を起こすと、キャムレンさんは片膝を床に付け、花束を差し出した。


「ノエル、結婚しよう」

「付き合ってません」


「結婚を前提に付き合おう」

「結婚なんて……。今は、そこまで先の未来を考えられません」


「……分かった。でも、付き合おう!」

「ダメです。まだ言われてないことがありますから」


 キャムレンさんは手に顎を乗せ、本気で悩んでいる。

 一分ほど悩んだ後、「ヒントは?」と聞いてきた。

 えーっ?! 本当に分かんないの?!


「キャムレンさんは、嘘を付かなくて良いんですか?」


 ああっ、と望外の声を出すと、キャムレンさんは私の両手を握りしめた。


「ノエル、君が好きだ。嘘じゃない」

「私もキャムレンさんのこと、好きです。嘘じゃないですよ」


「言ってなかったか? とっくに伝えたと思ってた」

「初めて聞きましたよ。でも、ダダ漏れでしたけど」


 キャムレンさんは私を抱きしめて、分厚い唇を押し当ててきた。啄むように唇で吸い、濡れた舌でなぞり、そして歯並びの良い白い歯で下唇を軽く噛む。


 甘い痺れを持つ幸福が、さざ波のように打ち付ける。

 糊が利いてピンとお行儀の良いシャツじゃ競り上がってくる感情を握り潰せなくて、私の指がピアニストのようにシャツの上で微かな伴奏を弾く。それに合わせるように鼻を抜ける声が重なって、不協和音なミュージックを奏でる。


 涙が頬を伝うと、キャムレンさんがギョッとして、ロマンチックな雰囲気を壊した。


「そ、その涙の意味はなんだ? キスしたら女の子が泣くなんて、オルソから聞いてないぞ!」

「あはは! やだあ、笑わせないで下さいよ! そういう変なところも、好きですけど」


 私、自分で思ってた以上に、キャムレンさんの事が好きだったんだな。

 納得とも落胆ともつかない心は、縋り付くようにキャムレンさんを求めてしまう。


「なんか、すっごく安心しちゃって。涙の意味は、感動……かな」

「成る程な。それなら俺もだ」


 薔薇の花束に顔を埋める。香水のような強い匂いはなかったけど、胸の奥からじんわりと温かい幸福感が湧き出て自然と微笑むと、キャムレンさんは私より幸せそうに笑っていた。


「最高だ」「綺麗」「可愛い」「素敵だ」「美しい」


 キャムレンさんが持ってる讃美の言葉の全て聞きながら、もう一度キスした。


「キャムレンさん、ピアノ弾かないの?」


 リビングには、アップライトピアノがある。マリアさんが言ってたとおり、趣味なのかと思ったけど、ピアノは話題に上がったことがなかったから、不思議に思って尋ねてみた。


「何か弾こうか?」

「うーん。私、クラシック音楽なんて分かんないです。有名な曲なら分かるかも。あ、ほら! テレビでよく流れてる、あれ。たららららん、たららららん、たららら、ららん」


「……待て、ノエル。今のはなんだ? 歌か?」

「そうですけど?」

「音痴なのも可愛いな!」


 酷い! いつもなら、ノエルの声は可憐だ、と褒めてくれるのに。

 ピアノの上には、楽譜と埃が薄ら積もっている。キャムレンさんは数ある楽譜の中から、リストのラ・カンパネルラを選び、鍵盤を軽く叩いた。


 ラ・ラ・ラ。


「調律は数年してないけど、意外と音が狂わないもんだな」


 そうなの? 大雑把なキャムレンさんが分かってないだけじゃない? 私も分からないけど。意地の悪い事を言おうとして口を開けたら、そのままポカンと開けっぱなしになった。

 キャムレンさんの長い指がカタカタと鍵盤を弾いて、マシーン並みの素早さ!


 だけど、暫くすると指が止まった。


「あぁ! ダメだな、指が動かない」

「そうですか? 凄かったけど」

「イイ所を見せようとして、選曲を失敗した。昔は弾けたのに」

「ピアノ、好きじゃないんですか?」


 素朴な疑問に、キャムレンさんは子供のような、くすぐったい笑顔を向けた。


「好きでも嫌いでもない。ピアノの練習をしてる間は、勉強しろって母さんに言われないからな。きっと今でも母さんは、息子はピアノが大好きだと思ってるぞ。一人暮らしを機に、やっとピアノから解放されたと思ったら、母さんがこれを買って来てさ。まいったよ」


 キャムレンさんも、そんな風に思う事があるんだなあ。不思議な感じ。ピアノの前に座るキャムレンさんが、子供時代なんて想像できないほど、大人ってだけじゃない気がする。


「マーラーのアダージェット。ぴったりだ」


 楽譜を新たに選んだキャムレンさんの指の腹は柔らかく鍵盤に触れ、ドの音を出す。

 淡く、寂しくて、綺麗だけど異質。たおやかに動く長細い指で、白と黒の鍵盤をソフトに押しているだけなのに、ピアノは生き物に化す。

 繊細な旋律が波のように押し寄せてきて、私は溺れそうだった。キャムレンさんの長い指が鍵盤を弾く度に、音が矢のように降り注いで胸に刺さっていく。


 涙が出そうになった。


 音楽にそんな力がある事を初めて知った。キャムレンさんが、私に教えてくれたんだ。

 キャムレンさんは私に綺麗なモノを見せ、与えてくれる。


 デートで見た夜景。沢山のプレゼント。薔薇の花束。ピアノの旋律。


 ここは、あの家と違って暴力と混乱はないし、防犯に気を遣っていた古いアパートみたいに、神経を尖らせることもない。淋しさに押しつぶされて泣いてしまう夜は、もうない。


 平和で安心できる居場所を、キャムレンさんは、私にプレゼントしてくれた。


 心が満たされ、ピアノの音に身を委ねるように瞼を閉じる。


 弾き終わり、はにかむキャムレンさんに、どうやって気持ちを伝えれば良いのか分からない。


 綺麗だった。上手だった。素晴らしかった。


 どれも陳腐な気がする。


 言葉以上の全て含めて、キャムレンさんの頬を両手でそっと包み、私からキスをした。


「好きです、キャムレンさん。世界で一番好き」


 私は愛されない。愛される価値のない人間だと、ずっと言われ続けてきた。

 思い込みのヴェールを、キャムレンさんは一枚ずつ取り除いてくれる。


 言葉だったり、今みたいなキスで。


 幸せって、これなんだ。


 あったかい気持ちが溢れて、涙が出ちゃうもんなんだね。


 もし私が重い病気を患ってしまっても、キャムレンさんが疲れたら、あの長い階段を背負ってあげたい。お父さんが、私にしてくれように。


 これって、愛だよね。やっと私にも分かったよ、お父さん。


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