お呼ばれ2
俺が寝るはずの布団で未だに寝続ける逸香を香織が揺すり始めて五分程が経つと、逸香はくぐもった声を放ちながら上半身を起こした。
まどろんだ逸香の目が、少し怒ってる様子の香織に向けられる。
「…………今何時ね?」
寝起きで機嫌の悪そうな声が逸香の口から放たれる。だが、香織にそれを気にした様子は見られない。
「まだ夜の七時半だよ?」
「……なんね、まだ朝じゃなかとね。明日は朝早くから屋台用の肉ば狩ってこなんけん寝させてよ……」
ん? 今なんかおかしくなかったか? 買って来るんだよな?
まさか屋台で野うさぎや野鳥を出すつもりじゃないよな?
「だぁめ。いっちゃんも女の子なんだからちゃんとお風呂入ってきて。お酒臭いよ?」
別にそこまで酒臭いとは思わないんだが、それを言うと香織に睨まれそうな予感がしたため、敢えて口には出さなかった。
すると、逸香のまどろんだ目がこちらに向けられる。
「……梓もあたしが臭いっちゃ思う?」
その質問を何故俺に振るんだと心から思う。
多分俺が臭くないと答えれば逸香は再び眠り、香織に怒られるだろう。
だが、臭いと答えれば逸香による鉄拳制裁が飛んでくるかもしれない。どっちに転んだって最悪じゃないか。
どう答えたってこっちが怒られそうな質問にどう答えればいいか悩んでいると、香織がこちらに向かってなにかを訴えかけるような目を向けてきた。
その目を向けられれば、俺に抵抗など出来なかった。
「……言われてみれば……確かに少し臭うかも……」
逸香から目を逸らし、俺は明後日の方向を見ながらそう答えた。
我ながら仮にも女子を相手に何言ってるんだと心から思う。
だが、あんな目を香織から向けられれば、応えぬ訳にはいかない。
鉄拳制裁だろうが、ビンタだろうが、ここは甘んじて受け入れよう。
そう思っていると、逸香が急に立ち上がった。
殴られるのを覚悟で俺は強く目を瞑った。しかし、覚悟していた拳は来なかった。引き戸が閉まる音で目を開くと、逸香は既にそこにはいなかった。
「お風呂入ってくるってさ」
香織の方を見ると、彼女はこちらに微笑みながらそう言ってきた。
逸香が立ち去った後、香織は部屋の隅に置いてあった座布団を手にとり、何も言わずに俺の隣に正座した。
彼女は俺が傍に置いておいたビールを一本取ると、カシュッという音を立てて開け、そのまま喉に流し込んだ。美味しそうに飲む彼女の姿を見て、俺もビールを開けて喉に流し込む。やっぱり俺は日本酒よりビールとかの方があってるな。
「梓君とこうやってお酒飲むのって初かな?」
「そうだな。お互い進んでお酒を飲もうって性格でもなかったし、そういう関係でも無かったからな」
思えばどこかに遊びに行ったという経験はあまり無い。何度か映画や遊園地とかに行った記憶はあるが、香織は絶対に家以外では飲もうとしなかった。
カラオケとか合婚といった遊びの付き合いも悪く、彼女が勉学とバイト以外で何かに励んでいるところは見たことがない。
「……なんで飲みに誘っても断られるんだろうなぁってずっと思ってたけど、明日の舞の為か……」
夕飯が出来るまでの間に香織の親父さんが言ってきた。
明日の祭で舞う巫女は村一番の美女であり、尚且つ清き身体の持ち主でなくてはいけないから、絶対に香織を襲うな、と。
それは香織のこの一年を不意にする行為だと言い含められ、俺はそれに迷いなく頷いた。
「あはは……本当は私も梓君とこうやってお酒を飲んだりしたかったんだけどね。……でも、この巫女って仕事は、私の小さい頃からの憧れだったから……だから、万が一にも間違いを起こしたくなかったんだよ」
「正直、初めて勇気だしてお酒を飲みに行こうって誘った時は心が折れそうになったよ。なんか嫌われることでもしちゃったんじゃないかってさ」
「あはは、本当にごめんね。本当はすごく行きたかったけど、梓君に迫られちゃったら、私……抵抗とかできそうに無いし……」
「まぁ、酒に呑まれて香織を押し倒したりでもしたら大変だもんな。香織じゃ俺を力で押し退けるとか無理だろうし……」
「……そういう意味じゃないとに……」
横目で彼女を見ると、顔を真っ赤にした香織がぼそりと呟いたのが見えた。なんて呟いたのか聞こうとしたが、彼女は持っていた缶ビールを一気に飲み干した。
「そういえば梓君がこの一年間どんなことをしてたのか教えてほしいな」
艶やかな笑みをこちらに向けた彼女が話を変えた為、俺は結局、彼女が呟いた言葉を聞くことはできなかった。
酒は進み、気付けば六缶あったビールも、残りは互いに持つ缶だけになってしまった。
「やっぱり田舎って不便なの?」
小さく笑っていた香織に、俺は思わずそう聞いてしまった。言い終えてから、少しデリカシーに欠けた質問だったのではないかと反省するが、彼女は特に気分を害した様子もなく、普通に答えてくれた。
「そりゃ東京にいた頃に比べたらね。電波もほとんど通じないから携帯買い換えなくちゃいけなかったし、服屋さんとか車で数十分走らんとつかんし……」
「だったら東京に戻ってくればいいのに」
そうしたら、俺は香織といつでも会えるのに。
その言葉を告げることは出来ず、俺は口をつぐむ。
わかっている。これは俺の我が儘で、彼女には彼女の生活がある。
無理だとわかっているのに、俺はその質問をしてしまっていた。
「……それは無理だよ」
彼女の答えは案の定であったはずなのに、俺は胸が締め付けられるような気持ちになった。
「だって私、この村が好きだもん。外を歩けば挨拶されて、皆が笑顔を向けてくれるこの村が好き……だから、私は戻れない」
彼女の一言一言が、俺の中にあった一握りの勇気を少しずつ奪っていくような感覚だった。
「ねぇ梓君……田舎に住んでみるつもりはない?」
「………………えっ?」
絶望にうちひしがれていた俺にかけられたその言葉が、俺の顔を上げさせる。香織は、はにかんだ様子でこちらを見続けていた。
「それってどういう……」
彼女の真意を聞こうとした時だった。
いきなり部屋の引き戸が開け放たれた。
俺と香織の視線は反射的にそちらへと向けられ、そのあまりにも予想の斜め上すぎる光景に絶句してしまう。
そこに立っていたのは逸香だった。
「……着替え忘れた」
その言葉が示すとおり、彼女は産まれた時のような一糸纏わぬ状態で部屋の中に入ってきたのだ。
「何やってんのいっちゃん!!」
勢いよく立ち上がった香織による怒声が放たれる。だが、逸香はこちらに向かって首をかしげてきた。
「何って……着替え持ってきとらんかったけん取りにきただけっちゃけど?」
「だからって裸で来ちゃ駄目でしょ!! 梓君もちょっとあっち向いてて!!!」
香織の怒りがこちらにも向けられ、俺は目が離せなかった逸香の裸体から急いで目を逸らす。もうなんというか……何度見てもでかかったです。
「別に見とってもよかとよ? 裸見られても減るもんじゃなかし……」
「なんでそんな狂暴な胸ばしとっとにそげなこと言えっと!!? てか梓君ばそれ以上たぶらかさんで!! ほらはよ服着んね!!」
さっきまでの良い雰囲気は何処へやら。恋愛の神様はどうやら俺のことが嫌いなようで。
結局、香織は逸香と彼女のリュックを持って自分の部屋に戻ってしまい、この部屋に戻ってくることはなく、俺は逸香のせいで悶々とした夜を過ごすのであった。
※ ※ ※
「……て……起きて……」
耳元で誰かの声が聞こえてきたが、俺は重いまぶたを上げる気にはなれなかった。
せっかく有給使って三日も休みをもらったんだ。日々の心労を癒す為にもあと少し寝ていたい。
「さっさと起きんね!!!」
その怒声と共に振り下ろされた手刀は俺の鳩尾を的確に捉え、俺を強制的に覚醒させた。
「……ぁあ、ぁ……なに……しやがる……」
痛みで悶絶しながら、俺に手刀を放った女を見上げる。そこにはノースリーブの服とジーパンを着こなした逸香が俺を見下ろしていた。
「もう朝の六時とよ!! ぬしゃ、だらだら寝とらんでかせせんか!!」
「…………なんて?」
「かせせんかて言っとろうが!!」
訳のわからない方言で怒られ、俺はいやいやながらも外出用の私服に着替えて部屋を出た。
階段を下りた先にある和室を歩き、開いていた引き戸から顔を覗かせる。既に全員集合状態だった。
「あらぁ、おはよう。随分と早かとねぇ。ご飯はもうできとうよ」
香織の母親に挨拶され、俺はおはようございますと返す。まだ朝の六時なのに全員が朝食を取っている風景に驚きながらも、席に座って食事をとる。
「昨日はちゃんと眠れた? 一応掃除しとったばってん、埃とか立っとらんかった?」
「あ、大丈夫です。疲労とかも溜まってたんですがお陰様でゆっくり休めました」
「そうね、それはよかったばい。それで梓くん、私らは祭ん屋台ば手伝わんといけんけん外に出とくけど、梓くんはどうすっと?」
「えっ……あ、えっと……」
香織の母親による質問ラッシュで全然箸が進まないが、そんな俺に香織が助け船を出してくれた。
「今日は本番やけん練習もなかし、本番までは私が梓君といるよ。どっか行きたいとことかあったら遠慮なく言ってね。って言っても、見て回れるほど立派なもんなんてこの村にはないけど」
「……ありがとう……」
昨日の晩の話が気になって、俺は香織とうまく目が合わせられなかった。しかし、彼女の表情に気にした様子は見られない。
「よかと? 梓は人ん胸ばジロジロ見てくる変態ばい?」
逸香の口から放たれた辛辣な言葉に思わず咳き込んでしまう。ああくそ、香織の両親がこちらに向ける視線が痛い。
「梓君はそんな人じゃなかよ。いっちゃんだって本当はわかってるんでしょ?」
しかし、香織がそう言ったことで場の空気は一瞬で変わった。
「お酒を飲んでいても全然理性は失わないし、いつも私や他の人に対して紳士的に接してくれるとよ? 最後のあれは例外として、梓君は節操なしじゃなかよ?」
香織から冷静に嗜められ、逸香はそのまま押し黙ってしまった。
というか、最後のあれってなんだよ。まさか昨晩の逸香の裸体をガン見していた件か?
確かに好きな子の前で別の女の裸をガン見するなんて酷いことだと思うが、あんなの男なら自然と目が行くに決まってんだろ!!
そんなこんなで食事が終わり、逸香は近くの山に動物を狩りに、香織の両親は屋台の準備をしにいった頃、俺は一人で暇していた。
ゲームも無く、電子書籍の本も全て読み終え、香織はやることがあると言って、家の何処かで作業中。
内心、かなり参っていた。
ここまでやること無いと本当に辛いな。てか、俺はなんで熊本に来てまでぐうたらしてるんだ?
熊本に来たなら、色々と観光地もあるはずだ。
かの有名な加藤清正が建てた三大名城の一つである熊本城や阿蘇のカルデラといったものがあるんだ。
せっかく車で来たんだし、祭の時間まで観光するのはありなんじゃなかろうか?
それに話したいことだってまだまだある。このチャンスを逃す手はない。
俺は頭の中に思い描いたデートプランを実行するべく、布団から起き上がり、下の階へと向かった。
「あれ? どっか出掛けるの?」
幸いなことに、香織は外に出た途端、すぐに見つかった。
彼女の格好は明らかに掃除を意図している者の格好で、可愛いという感想よりも母性を感じさせた。
だからこそ、デートしようという考えは引っ込んでしまった。
「なんか手伝うこととかある?」
「本当に!? 超助かる!!」
彼女の表情に笑みが浮かんだのを見て、手伝いを申し込んでよかったなと心から思った。俺はあくまでさりげなく彼女が手に持っていた掃除用具を代わりに持ち、彼女と共に目的地へと向かった。
目的地は家を出て少ししたところにあった。
少し広い庭を持つ家で、緩やかな坂を上っただけなため、ほんの一分もかかってないんじゃないかと思う。
明らかに人が住んでいた形跡が窺える家。だが、そこから人の気配はしなかった。
「ここね、数年前に死んだ私の父方のおばあちゃんの家なんだよ。おじいちゃんも私が小さい頃に亡くなったから今は誰も住んでないんだ」
そう言うと、彼女は家の扉の近くにあるタンスの引き出しから鍵を取り出し、家の鍵を開けた。
鍵の隠し場所を俺が知ってもいいのかと一瞬思うも、俺がここに来る機会なんてそう無いなと思い、特に口にする気も起きなかった。
『ねぇ梓君……田舎に住んでみるつもりはない?』
急に昨日の彼女の言葉がフラッシュバックし、俺の頬が熱を帯びる。俺はそのよこしまな考えを追い出すように首を横に振った。
「何してるの? 入ってきていいよ?」
香織に促され、俺は自分の頬がいつも通りになっていることを願いながら、中に入った。
「お邪魔します」
「なんも無いところだけどね」
外の陽光が室内を明るく照らし、電気をつけていなくても何処に何があるか一目瞭然だった。
そして、中の光景に思わず感嘆の声が漏れてしまった。
そこは、まだ完璧とは言えないながらも、診療所の雰囲気を思わせる内装になっていた。
「村にいる雷蔵さんっていう元大工の人をお父さんから紹介してもらって頑張って作ってみたんだけど……どうかな?」
香織はもじもじしながら聞いてきた。
内装の家具はほとんどなく、床にはゴミ一つ落ちていない。
床板はシミ一つなく、おそらくここ数ヶ月で換えたものなのだろうということがわかる程、綺麗だった。
ベッドは木製で年季が入っており、おそらく中古。椅子もキャスター付きでこちらはおそらく買い換えたのだろう。
居間だったであろう部屋は、ほぼ完璧と言っていいほど片付けされており、香織が後ろからここを待合室にするつもりなんだと教えてくれた。
「二階はどうなってんの?」
「元々あった家具とかを置いて住居スペースにする感じ。さすがにご飯は下で作らないとだけどね」
別に彼女が好きだからという評価ではないが、俺は素直にすごいと思った。彼女の一つ一つの仕事ぶりにじゃない。どんな場所にいても、自分の得た知識を活用しようともがいているその姿勢を素直に称賛したいと思った。
「大変だったんじゃないの?」
「だね。診療所開設する為にも色々と手続きがいるっぽくてさ、私一人の力じゃ全然進まなかったの。でも、いっちゃんやお父さん、お母さんや村の人達が協力してくれてさ……ようやくあと少しってとこまで来た感じ」
彼女は笑っているが、並大抵の努力で出来たことでは無いはずだ。
一から診療所を建てる。それが簡単なことであるはずがない。きっと俺なんかには想像も出来ないような苦しみを乗り越えてきたんだろう。
「すごいよ。……本当にすごいと思うよ、香織は」
俺なんかとは違う。お父さんの真似事でなんとなく警察官になった俺なんかとは違う。夢を叶える為に逆境を乗り越える強さが彼女にはある。
「梓君のお陰だよ」
こちらに笑顔を向けてきた彼女の言葉に俺は目を見開く。
「あの時、梓君が私を助けてくれたから、私はここまで頑張れたんだよ。だから、梓君のお陰」
彼女の言葉が何を言っているのか理解できなかったが、彼女が慰めで嘘をついているんじゃないってことは長年の付き合いでわかる。
でも、俺が何から彼女を助けたのかに関しては、まったく見当がつかなかった。
何の話?
そう聞こうとした瞬間、彼女はいきなり「あっ!」と大声を出してきた。
「もう十時じゃん! 急がないと夕方になっちゃうよ! ほら、梓君も! 今日は祭なんだから早く終わらせちゃお!」
その言葉を告げると、彼女は俺に掃除の指示を出してきた。
特に、彼女の口から出た祭という単語が、俺のやる気に火をつけた。
鉄火市の今日の熊本弁講座〜!!
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
このコーナーは、鉄火市があとがきになに書くかな〜って迷った結果、本作の舞台となっている熊本の方言を簡単に解説していこうと思い設けられた誰得コーナーである。
第4回の方言は「とっとっと」について。
取るという意味で使われる方言で、なんば撮っとっと?とか、これ取っとってくれんね?という風に使われます。
因みに、これを使った早口言葉がありまして、県外にいた頃、自分が同郷だと知った先輩が、この早口言葉を教えてくれました。
皆様も是非挑戦してみてください。
『おっとっと取っとってって言っとったとになんで取っとってくれんかったとって言っとっと』
ちなみに私は県民ですが、2回目で噛みました(笑)
それではまた次回!! お会いしましょう!!