遠山梓の覚悟
これまで俺は、居合で対人の練習をしたことはない。
もちろん、目の前に相手がいると想定し、技術を磨いてはいるが、目の前に本当の人間が立ったことはない。
例え刀を持とうが、人を殺すつもりで振るったことはない。
剣道だってそうだ。
どれだけ竹刀で斬りあおうと、それで人が死ぬのは稀だ。
だから、知らなかった。
人を斬るという行為が、ここまで疲れることだとは。
刀の刃を裏返し、峰打ちで迫りくる靄人間達を薙ぎ倒す。
剣道や居合で流れの一環として繰り返してきた動きは、未だにある迷いに引っ張られ、まるで水の中で刀を振るうかのように重い。
意識の違い、人を斬る覚悟、それらが俺に重圧としてのしかかり、自分の納得した動きがまったくと言っていいほど出来ない。
もう何十人斬ったかわからないが、少なくともまだまだ二十人近くはいるように見えた。
その中には、当然上へと向かう者もいて、俺は常に警戒を強いられた。
勝手に身体を動かさせる彼らには正々堂々なんてものは存在せず、一人を相手にしていたとしても横から邪魔をし、時には這いつくばって足首を掴んでくる靄人間もいた。
一旦落ち着こうと体勢を立て直すべく下がろうとするが、すぐに距離を詰められ、連戦を強いられる。
もちろん苛つくこともあった。
中々終わらないこの戦いでいつまで人を斬らなければいけないのかと運命を呪った。
でも、苛ついたまま人を斬ろうとは思わなかった。
相手は普通の民間人で、不運に呪われ、このような状態になっている。
彼らに怒りをぶつけるのは筋違いであり、彼らに苛つくのは不誠実だ。
俺は彼女達を守ると決めた。
だが、それは人を殺していい理由にはなり得ない。
靄人間となった村人達を冒涜していい理由にはなり得ない。
だから、俺は介錯という理由をこじつけて、彼らと向き合うことに決めた。
また一人、目の前で靄人間が霧散していった。
その光景は他の靄人間達と差異はなく、俺はすぐさま次に移ろうとした。
そこで初めて気付いた。
靄人間達が一斉に動きを止めていたのだ。
その光景は俺に違和感を覚えさせ、動きを止めさせた。
さっきまでとは明らかに異なる雰囲気に、俺は緩みそうになった警戒を強める。
あの代行者が来たのかもしれないと俺は刀を鞘に収めていつでも引き抜ける体勢に入る。
俺の剣が通用するかはわからないが、それでも後ろに通す訳にはいかない。
だが、その警戒は全て杞憂に終わった。
何故なら突如として止まっていた全ての靄人間達が霧散したのだ。
「………………は……?」
突然のことに、俺の思考は少しの間、何が起こったのか理解に至らなかった。
自分以外に攻撃が放たれたのかとも考えたが、それなら俺が察知出来ないのはおかしい。
そして、これまでの靄人間達は、攻撃を受けた場合、その方向に飛び散るように霧散していた。そこに例外はなく、今回のようにゆっくりと揺らめくように霧散したケースは初めてだ。
「……もしかして!!」
ふと一つの考えが浮かび、自分の右腕にはめられた腕時計を確認した。
案の定、時計は深夜の零時を回っていた。
それは、俺を確信へと導いた。
全てが終わったんだと理解すると、突然足に力が入らなくなって、砂利の上に尻をついてしまった。
正直、砂利が尖ってて痛かったが、それよりも胸の傷の方がものすごく痛かった。
でも、俺の口から漏れたのは痛みによる悲痛の声などではなく、安堵に染まった笑い声だった。
「……はは……終わったんだな……」
口から笑みが溢れたのは何秒程だっただろうか?
静かになった空間の中に小さく木霊する乾いたような笑い声。
地獄から解放された気分だった。
真っ暗闇な空間に光が瞬いたような気分だった。
今まで黙っていた蝉達が空虚な空に向かって合唱を奏でるのを聞いて、俺は足に力を込める。
早く二人とこの喜びを分かち合いたかった。
階段を上るスピードは遅く、まっすぐ進むことすら難しかった。
はやる気持ちを抑えることが出来ず、転んでしまうという体たらく。
しかし、そんなことがどうでもよくなってくるくらい、俺の目には前しか見えていなかった。
「やったな、二人……とも?」
ふらふらになりながらも階段を駆け上がり、俺は舞台の方に声をかけた。
しかし、そこに居たのは嗚咽を漏らす香織だけ。
その光景は、自分の中に最悪な考えを齎し、俺をその場から動けなくしてしまう。
声に気付いたのか、香織が涙でぐしゃぐしゃになった顔をこちらに向けた。
そして、彼女は震える声で、俺に向かって言葉をかける。
「ごめんなさい」
その言葉が、俺の膝を石畳につけさせた。
※ ※ ※
「なんで……こうなっちゃったんだろうね……」
本殿の裏手にあった大きな岩の前で石畳に正座している香織がそう呟いたのを、俺の耳は聞き逃さなかった。
大きな岩には歴代の巫女の名前が刻まれており、五十二代目の巫女の名前には『如月逸香』の名前が刻まれている。
それは、他ならぬ香織が何時間もかけて刻んだ文字で、そこに『金山香織』の名前は刻まれていなかった。
「私はただ……梓君に私の舞を見てもらおうと思っていただけだったのに……この村の良さを知ってもらおうと思ってただけだったのに……どうしてこうなっちゃったの……」
香織の声は震え、傍らに立つ俺の方からでは彼女の目は見えなかったが、滴り落ちた雫の跡ははっきりと見えた。
多くの人が一晩の内に死んだ。
中には立って歩くことすらままならない老人や、あどけない笑顔で笑う子どもたちもいた。
守ると約束し、共に困難へと立ち向かった二人の仲間も失った。
……何が守るだ。なにが刀さえあればなんとかなるだ!!
結局誰も守れていないじゃないか!!!
香織だって逸香がいなければ守れてなかった。
逸香は俺の存在を憎んでいた。それなのに……俺すらも守り抜いてみせた。
彼女は命を賭して、俺達を守ってくれた。
それに比べて俺はどうだ!!!
…………無様だな……それ以外になんて形容すればいい……。
「私ね、いっちゃんとは、中学卒業するまでずっと一緒に居たんだ。……だから、いっちゃんがどれくらい巫女をしたかったのか……私、知ってるんだ……」
突然呟くように語りかけてきた香織の意図はわからなかった。でも、不思議と彼女の言葉を遮ろうとは思わなかった。
「いっちゃん可愛かったでしょ? 私と違って素であれなんだよ? だから私も村の皆も、いっちゃんが次代の巫女になるんだろうなって心の底では思ってた……でも、何故か私なんかが選ばれた……」
そう言うと、彼女はその場から立ち上がり、俺の方に詰め寄ってきた。
「なんで私なの!! いっちゃんの方が私なんかよりもずっと可愛かったし、村に尽くしてた! 横で舞ってみてわかったよ!! 私なんかよりいっちゃんの方がずっとずっと巫女に相応しかった……なのになんで神様ってやつは私を選んだのよ!!」
俺の胸を弱い力で何度も叩く香織の姿は痛ましく、とても胸の痛みを訴える気にはなれなかった。
「……ねぇ、梓君……」
香織の気落ちした声が俺を呼ぶが、俺に彼女の言葉に答える元気は無かった。
「……私のせい……なのかな?」
「はぁ!?」
香織の方を向けば、彼女は涙でぐしゃぐしゃになった顔をこちらに向けていた。
「……私が……私がもっと早くいっちゃんと向き合って話していれば、こんなことにはならなかったんでしょ? だったら私のせいーー」
「そんな訳ないだろ!!!」
「……だって!!」
「香織は悪くない!! もちろん逸香もだ!! お前がそう思わないでどうするんだ!! 確かに逸香の取った行動がきっかけだったかもしれない。でも、その原因の発端はこの村に昔から伝わる習わしだ!! お前も俺達も全員その習わしに振り回されたんだ!! それなのに……お前が自分のせいだなんて言ったら、逸香まで悪いってことになるんだぞ!! ……俺は、自分の命を賭してまで俺達を救ってくれた逸香を、被疑者のまま死なせたくない……」
正直、俺は逸香とは二日程度の付き合いで、逸香がどのくらい巫女になりたかったかなんてわからない。
だが、逸香がどれくらい香織を大切にしていたかはわかる。
彼女は最後の最後まで一度たりとも香織を見捨てようとせず、最後の最後まで守りきってみせた。
確かに一時の感情で香織に怪我をさせようとしていたのは事実だ。だが、彼女が香織を守りきったのもまた事実。
俺は、そんな彼女の行動を尊重したい。
「お前が自分のせいだと自分を卑下しても誰も喜ばない。そんなことしても時間の無駄だ!! 残された俺達に出来る償いの方法はたった一つ、亡くなった人達の分も精一杯前を向いて生きることだ!! だから香織も……自分を責めないで前を向いて生きろ!!」
「で……でも私、自分の居場所が無くなっちゃったんだよ? それなのにどうやって生きていけば……」
「だったら俺と一緒に来い! 東京でお前が目指していた医者になれ!! そんで、お前の手が届く範囲でいいから一人でも多くの人を救え!! ……例え俺達がここで悔やんだって今日死んだ人が生き返る訳じゃない。だから生きて、俺達に出来る精一杯の償いをしよう! 俺がお前をちゃんと支えるから!!」
俺は最後の最後で逸香を守れなかった。
矢車さんと約束し、今回の事件で俺を何度も助けてくれた彼女を、俺は一度も守ることが出来なかった。
……それで終わっていいはずがない。
彼女が最後まで守りたかった存在、金山香織がここにいる。
親友を失い、家族を失い、村の仲間を失った俺の大切な人が目の前で嘆いている。
自分を追い込み、目を離した瞬間、自死をしかねないほど弱った彼女がだ。
俺に出来ることはもう無くて、ここから先は彼女個人の問題なのかもしれない。
だったら俺は、彼女の傍で、彼女を支えたいと思う。
贖罪だとか使命感とかが零とは言わない。
でも、一番の理由は、彼女のこんな泣き顔を、俺は見たくない。
俺は目の前にいる彼女を強く抱きしめた。
香織は少し驚いた様子ではあったが、すぐに俺の背中を掴み、強く抱きしめてきた。
「ありがとう……ありがとう、梓君……本当にありがとう……でもごめんなさい。もう少しだけ、このままじっとしてて……」
そう言うと、彼女は子どものように涙を流し続けた。
次回で最終回となります。
鉄火市の今日の熊本弁講座〜!!
このコーナーは、鉄火市があとがきになに書くかな〜って迷った結果、本作の舞台となっている熊本の方言を簡単に解説していこうと思い設けられた誰得コーナーである。
第29回の方言は「どしこ」について。
この方言はどれくらい、いくつとかの意味で使われている方言です。
他にも、どしこ必要と? という風に、いくらという意味でも用いられる方言で、熊本育ちなら誰でも知ってると言ってもいいくらいメジャーな方言です。
それではまた次回!! お会いしましょう!!