深山村の伝説3
逸香の家に戻り、彼女が着替えるのを待ってから出掛けると、時刻はちょうど十七時になっていた。
それもこれも、逸香がいきなりちょっとシャワー浴びてくるとか言ってきたせいだ。いや、別に急いでいる訳でもないし、彼女も一応年頃の女性としての自覚が多少あるのだろうと思い、普通に受け入れたが、問題はそこからだ。
先程同様、居間とおぼしき場所でテレビを見ていると、いきなりタオルを首にかけた一糸纏わぬ状態の逸香が居間に入ってきたのだ。
流石の俺も彼女の奇行に頭が真っ白になるものの、いきなり「あ、いたんやったね。……ま、いっか」とか言い始めて床に落ちていた下着を回収してそのまま着替え始めた辺りで自分の煩悩が爆発しそうになった。だが、自分は警察官だ。未婚の若い女性を襲ってはいけないと何度も何度も自分に言い聞かせながら必死に欲望を抑え続けた結果、なんとか事なきを得た。……流石に数分間は立てなくなったがな。
そんなこんなで言い知れぬ疲労感に苛まれながらも、どうにか村の中央にある少し大きめな神社に、俺と逸香の二人は到着した。
上を向けばすっかりと空は茜色に染まっていた。腕時計を確認すれば、十七時を五分程過ぎており、あまり離れては無いんだなと彼女がゆっくりしていた理由にも納得した。
神社の周りは鬱蒼と生い茂る木々で囲まれており、神社の敷地内に入るには正面にある石製の階段を上るしかないようだ。
俺と逸香の二人は赤い鳥居の下を潜り、年季の入った石階段を上っていく。
中腹辺りに着けば、見た目四十から五十代くらいの人達が何人かおり、屋台の準備をしていた。
「おっ、逸香ちゃんじゃなかか! 今日はデートかい?」
頭に白いハチマキを巻いた男性がこちらに気付き、声をかけてくる。その声は大きく、周りにいた人達がこちらに反応してしまう程のものだった。
「へぇ、遂に逸香ちゃんにも恋人が出来たんか!!」
「あんた! 逸香ちゃんば大事にせんとあかんよ!」
ぞろぞろと集まってくる村の人達に思わず苦笑いをしてしまう。中には俺の背中を容赦なく叩いてくる世話焼きっぽい感じのおばさんとかもいて、逸香が村の人から相当慕われていることだけはわかった。
「いや、別に俺は逸香の恋人って訳じゃ……」
「へぇ、もう下の名前を呼び捨てで呼ぶ程の仲になったんだ」
いきなり背後から掛けられた聞き覚えのある声に、思わずびくついてしまう。恐る恐る振り返って見れば、そこには眼を半分だけ開いた状態でこちらをじっと見ている顔馴染みの姿があった。
「か……香織?」
そこに立っていたのは、俺をこの村に呼び出した張本人、金山香織だった。
香織は俺に向かって笑顔を向けると、ゆっくり近付いてきて、俺の肩に手を置いた。
「私のことを下の名前で呼んでくれるまでは二年もかけてた癖に、随分と仲良くなったんだねー」
なんだろう……物凄く怒っておいでだ。
笑顔を浮かべているはずなのに、これ程までに恐怖を感じる笑顔を俺は他に知らない。
「ねぇ、梓君。私に何か言うことがあるんじゃないかな?」
「ひ……久しぶり? 髪伸びた?」
ひきつった笑みでそう答えると、肩に置かれていた手に力がイダイダイダイダイダイダイ!!
「……普通さ、来たら真っ先に来たって言いにくるべきなんじゃないの? こっちがどんだけ心配したと思ってんの? お陰で集中出来てないって先生に怒られたんですけど?」
「ごめん! いや、ほんっとにごめん!! なんか大事な舞いの練習中だって言うから邪魔しちゃいけないもんかと!」
「へぇ……言い訳するんだ?」
……ヤバい。これ本気怒りだ。
「いえ、滅相もございません。報告を怠ったわたくしめのミスです。以後無きよう気を付けますのでどうか怒りをお収めください」
俺が姿勢を正して全身全霊で謝ると、彼女は息をつき、俺の肩から手を離してくれた。香織の表情が徐々に穏和ないつもどおりの表情になっていく。
香織は怒るとえもいわれぬ恐怖を感じる程怖いが、基本的に何もしなければ、笑顔の美しい女性だ。
自分よりも他人を優先し、困ったことがあれば力を貸してくれる性格で、その性格を悪用されないように警戒するのが大学時代の俺の役目だった。大学時代よりも髪は伸び、その黒く艶やかな髪が腰の辺りまで伸びている。切れ長でありながら少し丸みを帯びたその目に見つめられれば、心臓の鼓動が早鐘を打つ。
一年くらいしか間が開いていないというのに、彼女はより一層の色香を放つようになっていた。
「まぁ、どうせ梓君のことだから迷ったとかだろうし、せっかく遠いところからわざわざ来てくれたんだもんね、邪険にしちゃダメだよね。ありがとね、いっちゃん。梓君を案内してくれたんでしょ?」
「別に暇だったけん問題なかよ? てか、喋り方どしたと? なんかおかしかよ?」
逸香が首を傾げながらそう言ったが、俺には香織の言葉に違和感は覚えなかった。だが、香織の方は思い当たることがあったようで、頬を少し赤らめていた。
「だって梓君の前で方言とか……恥ずかしいし……」
少しくぐもった声でそう言ったのを聞いて、俺は自分の顔が熱を帯びているのを自覚出来た。照れ顔とか東京にいた頃でも全然見れなかったから結構新鮮だった。
すると、逸香が露骨に溜め息を吐いた。
「あたしの裸でようやく赤面しよった癖に香織の照れ顔でイチコロとか……女として自信なくなったい」
逸香が肩で落ち込むような仕草をしながら告げた言葉に、村の人達が反応して慰め始めた。正直、逸香も客観的に見れば充分に魅力的な女性だと思う。それに、香織には無いあの圧倒的な戦闘力は、男の目を惹きつけてしまうだろう。
あどけなさの残る童顔にあの明るい性格を複写したかのように明るい茶髪。無防備すぎて心配にはなるが、彼女も香織に引けを取らない美人に分類される女性だと言えるだろう。だが、それを素直に認めるのはなんか癪だ。
「自信て、まずお前は自分の行動を自覚して見直……せ……」
先程までと同じように俺は言葉を紡ごうとした。だが、途中で言葉が詰まって何も言えなくなってしまった。理由は明らかだ。俺はゆっくりと逸香に向けていた視線を香織に戻す。
「……いっちゃんの裸ば見たと?」
せっかく収まった怒りのオーラが先程よりも色濃く放たれ、俺は額に汗が浮かぶような感覚に陥った。おそらく、これは夏の気温のせいではないのだろう。
「別に覗いたとかそんなんじゃないぞ?」
「……じっくり見たと?」
「そうだけどそうじゃなくて!! ってなに言ってんだ俺!!」
更に香織の怒りが強くなったのが雰囲気でなんとなくわかった。こうなったら事の元凶に弁解してもらうしかねぇ、そう思い、俺は逸香の方を見た。すると彼女は信じられないことに、こちらを見てニヤニヤと笑みを浮かべていた。
あの女!! 絶対わざと香織を怒らせたな!!
そして、直後に甲高い音が辺りに響いた。
※ ※ ※
あの後、結局俺の左頬には真っ赤な紅葉の痕が浮かぶこととなって、ようやく弁解することが出来た。逸香が俺を見て大爆笑したからなのか、香織は思いの外あっさりと俺の言い訳を信じてくれた。
逸香の話だと、なんでも風呂の一件以外は逸香の仕込みだったらしく、香織に変な虫が付かないようにと俺を試していたらしい。とはいえ、俺を男として見ていないのは本当らしく、裸を見られても恥ずかしいという感情は一切沸かなかったという話を帰りの道中で明かされた。正直、香織に頬を叩かれたことよりもそっちの方がダメージが大きかった。
「そんで梓はどうすっと?」
「……どうするって何が?」
俺が少しぶっきらぼうに答えると、逸香は呆れたように俺を見た。
「まだ怒っとっとね? ごめんて言うたとやけん許してよ」
「…………女性不信になりそう……」
こちらがどれだけ頑張って耐えてきたのかを知ってか知らずか彼女の反応は軽い。せっかく一年ぶりの再会なのに、危うく香織に接近禁止命令を出されそうになったんだぞ!!
おまけに純情を弄ばされたんだ。男として怒らない訳が無い。
「まぁまぁ、いっちゃんは梓君の人と柄を私の口伝てでしか知らなかった訳だし許してあげて。いっちゃんは私を守るために自分の身を犠牲にしてまであんなことをしてくれたんだよ? ねっ、お願い。私の顔に免じていっちゃんを許してあげて」
香織にそう言われると弱い。正直、逸香が自分の非を認め、香織が今回の件を気にしていないと言っている以上、許さない理由が無い。何故なら俺にデメリットが無いからだ。だから、逸香を許せないでいるのは俺の意地以外の何ものでもない。
だが、今ここで許さなかった場合、その限りではなくなってしまうのだろう。香織には心の狭い男だと思われ、好感度は徐々に下がっていき、最終的には着絶をされてしまう可能性だっておおいにありえる。
俺的にはそっちの方が断然辛い。何より、逸香の香織を守りたいって気持ちには共感できる。
「俺は香織に近付けていい人種だって証明出来たと思っていいの?」
「最終試験にあたしが寝ぼけて梓の布団に潜りこんで抱きつくってのもあったとやけど……どうせならやっとく?」
「いっちゃん!!」
香織に怒鳴られ、逸香は笑みを浮かべて「冗談たい、冗談」と言ってきた。そして彼女は改めてこちらに手を差し出してきた。
「改めて自己紹介。あたしは如月逸香、かおちゃんの唯一無二の大親友たいね。香織ば泣かせたら容赦しないけんね、梓」
最後の一文に込められた殺意が凄まじくて一瞬怯みそうになったが、俺は息を整えて彼女の手を強く握り返し、よろしくと握手を交わした。
幸先は悪かったが、結果的には悪くないスタートかもな。
香織の誤解も解け、逸香からの試練もクリアし、仲良く三人で談笑していると、逸香が突然、ハッとした様子で話を切ってきた。
「そんで結局、梓はどこん泊まっとね?」
先程遊んでいた川の横にある土手を歩いていると、逸香がそんな質問をしてきた。その質問は俺の顔を青ざめさせるのには充分な威力を持っていた。
思えばここに来るまでの道のりを探すのに必死で泊まる場所を決め忘れていたからだ。
「この村って旅館とかあるの?」
俺はこちらを伺うように見る香織にそう聞くが、彼女は小さく首を横に振った。
「残念だけどないね。一応公民館はあるけど、おじちゃん達が夜通し宴会してるだろうから無理そうだね。山を降りて近くの町まで行けばあるかもしれないけど……」
まぁ、そりゃそうだろうな。コンビニすらないこの村に旅館があると考える方がおかしいのかもしれない。
「……ここはおとなしく車内にでも泊まるか……」
「そらばってん辛かとやないの?」
「……なんて?」
「辛くないのかだって」
方言と訛りのせいで聞き取りにくかったが、香織がさりげなく翻訳してくれた。いくら住む場所が違うとは言え、同じ日本語を扱う人間同士、大抵のニュアンスならなんとなくわかると思うが、ここまで訛っていると辛い。香織の存在がすごくありがたい。
「な……なるほど? でもそんなこと言ったって今から山降りるのも辛いしなぁ……」
「なら、うちん泊まんね? 元々あたししか住んどらんし、部屋なら余りまくっとうし」
その思いがけない提案に俺は目を丸くして彼女を見た。その表情からは親切心だけが窺え、何か策謀している様子は見受けられなかった。
「……いいの? 二十五歳の成人男性が泊まるんだよ?」
自分で言ってて駄目な気もするが、俺だって硝煙と血の香る車内で寝るなんてごめんだ。出来るならお願いしたい。
「よかよか。そん代わり、かおちゃんが東京んおった頃の話ば聞かせてくれんどか?」
「それくらいならお安いご用だ」
そうと決まればいざ出発。そう思い、止めていた足を再び動かそうとした時だった。
「待って!!」
いきなり背後から服を掴まれ、俺は足を止めて振り返った。するとそこには、指同士をくっつけながらもじもじしている香織がしどろもどろとしていた。
「えっと、その……言うか言うまいか迷ってたんだけどね……でも、えっと……」
彼女の顔が何故か徐々に紅潮していく。これはあれか? 自分のうちに来ないかというフラグなんじゃないだろうか? なぁんてある訳ないか。
「うち……来る?」
香織はあり得ない妄想に胸を膨らませていた俺に対し、上目遣いでそう聞いてきた。
鉄火市の今日の熊本弁講座〜!!
ここまで読んでいただきありがとうございます。
このコーナーは、鉄火市があとがきになに書くかな〜って迷った結果、本作の舞台となっている熊本の方言を簡単に解説していこうと思い設けられた誰得コーナーである。
第2回の方言は「がまだす」について。
がまだすの意味は、精を出す・頑張るという意味ですが、実際に使っている人はあまり見ません。
私も知識としては知っていますが、実際に使ったことは無いです。
ただ、建物の名前として使われるケースが多く、熊本県民も聞いたことはあるって人の方が多いかもしれません。
それではまた次回!! お会いしましょう!!