謎の靄
それはまるでゾンビの感染を彷彿とさせた。
靄に襲われた人間は普通の人間を襲い、その人もまた、靄を身体に纏い、他の人を襲い始める。
その現象があまりにも現実離れしていて、俺はその場で釘付けになってしまっていた。
目の前で起きた出来事に頭が追いつかないでいると、不意に俺の危険信号が反応した。
急いで振り返ると、そこには白衣に緋袴の靄に覆われた人間が立っていた。
一瞬息を飲むも、瞬時に状況を理解した。香織以外にその服を着ていた人は一人しか覚えが無い。
「美香さん!!」
香織が涙を流しながら叫ぶのを横目で見て、その靄に覆われた人物が佐川美香さんという香織の先代巫女であることを確信した。おそらく通報に行っている最中に先程の靄に襲われたのだろう。
佐川さんは香織の声に反応したのか、こちらに赤い双眸を向ける。
そして、ゆっくりとこちらに身体を向けた彼女は、腰が抜けたのか動けないでいる香織に向かって襲いかかってきた。
その一部始終を見ていた俺は二つの選択肢を迫まれた。
このまま香織が襲われるのを黙って見て見ぬ振りをするか否かだ。
身体は靄に覆われた人物に関わってはいけないと強く訴えかけてくるが、俺はその忠告に逆らい、一切躊躇うことなく香織の腕を引いて彼女を抱きしめ、靄に覆われた人物に背中を向けた。
元来、剣士にとって背中を見せるのは恥と言われる。
だが、そんなことがどうでも良くなるくらい、俺は香織という存在を守りたかった。
しかし、すぐに来ると思われていた苦しみは一向に訪れなかった。
俺は閉じていた目を開き、恐る恐るそちらへ顔を向けた。
そこに見えたのは逞しい男性の背中だった。
「なんばしとっとね美香!! そんなようわからんもんに負けるんじゃなか!!」
「神門さん!?」
その声は確かに佐川美香さんの夫、佐川神門さんだった。
彼は左手で太一君を抱きながら、佐川美香さんを身体で受け止めていた。
「大丈夫ね、二人共? ここはおいに任せちからどっか行きなっせ!!」
神門さんが背中越しにそう言った直後、靄に覆われた人物が着ていた白衣と緋袴が舞台の床にふぁさりと落ちた。
その光景が視界に映った瞬間、俺は思わず息を飲んでしまった。だが、俺よりも衝撃が大きかったのは彼の方だろう。
「………………どぎゃん、こつね? 美香? う……うわぁああああああああ!!!」
靄に覆われてしまった佐川美香さんの姿はそこには無く、彼女の着ていた衣類のみが床に落ちている。
はっきりと見えたのは、彼の腕が佐川美香さんを強く抱きしめたと同時に、彼女の体から靄が霧散する光景のみ。
神門さんの表情を見ることは出来ないが、彼の震える声が俺の耳に届く。
靄に覆われた人物となった者の末路に、俺は言いしれぬ恐怖を感じた。
「……神門さん?」
震える背中。
先程まであんなにも頼もしかった背中が今は見る影もない。
彼は泣き叫ぶ。
愛する者をいきなり失い、彼は誰に遠慮するでもなく、ただただ泣き叫び続ける。
そんな彼の身体から靄が上がるのを見て、伸ばそうとしていた手が止まる。
靄は彼の太い腕を包みこみ、腕に抱かれた太一君を床に落とした。先んじて靄に覆われた人物となっていた太一君の身体は床への衝撃に耐えられなかったのか霧散し、着ていた服だけがそこに残る。
しかし、神門さんは涙を流さなかった。
声を発することすら無かった。
彼がこちらに振り向く。
佐川神門さんの肉体は、彼の奥さんである佐川美香さん同様、靄に覆われた状態になっていた。
神門さんは俺達に向かって襲いかかってくるが、先程神門さんが間に入ってくれたお陰で体勢に余裕が出来た為、俺は気絶していた香織を抱きしめたまま、それをなんなく避ける。
状況に頭がついていけていないが、靄に覆われた人物に触れられたら同じような状態になってしまう以上、避けるしかなかった。
「頭ば下げれ!!」
神門さんの攻撃を避けていると、急に後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。よくわからなかったが、とりあえず俺はその指示に従い、香織を抱きしめたまま、勢いよくしゃがんだ。
直後に俺達の頭上を女性の足が通過する。
しなやかに放たれた回し蹴りは神門さんの胴体を的確に捉え、彼の身体を一瞬で霧散させてしまった。
目の前で起きた出来事に色々と言いたいことはあったが、先にこれだけはどうしても言いたくなった。
「危ねぇだろうが!! 一歩間違えてたら俺達が蹴られてんじゃねぇか!!」
俺は背後にいた逸香に顔を向けて怒鳴るが、彼女は呆れた様子の目でこちらを見て対抗してきた。
「別に助かったとやけんよかたい」
ぐったりしているあらた君を左腕だけで抱きかかえる逸香は、この状況においても平常運転で頼もしいことこの上ない。だが、それを素直に認めるのは癪だった。
そして、ハッとなって気付く。
「てか、靄に襲われた人を蹴ったけど身体は大丈夫なのか!?」
「大丈夫って何がね?」
俺は彼女の身を案じて聞いたのだが、彼女はキョトンとした様子で首を傾げ始めた。
だが、確かに彼女の身体から靄が発生している様子は窺えない。
もしかして靄に直接触れなければ大丈夫なのか?
「そんなことよか早くかおちゃんば連れてこっから逃げんね!!」
「んなことお前に言われなくてもやろうとしてんだよ!! でも、唯一の出入り口である階段への道のりに靄に覆われた人達がいるんだから行ける訳ないだろ!!」
正直なところ、今すぐにでも頭を整理させてもらいたい。だが、そんな俺の我儘が許されないことくらい俺にもわかっている。わかっているはずなのに、この訳がわからない状況で急かされ、つい強い口調で返してしまう。
だが、逼迫したこの状況で口論なんてしている場合じゃないとすぐに思い留まり、俺は自分の雑念を振り払うように目を閉じ、大きく深呼吸をした。
事態の鎮静は一時的に諦めるとして、まずはこの場からの離脱を優先しよう。
日本刀さえあれば、例え香織を担いでいたとしてもこの場を突破することは容易だ。確かに触れれば脅威だが、触れなければ足が遅くて単調な動きしか出来ない脆い人間でしかない。
だが、生憎と俺の日本刀は東京にある。そもそもが必要になるなんて考えていなかったからな。とはいえ、棍棒のようなものがあれば突破するだけなら容易だろう。
問題はその後。いくら靄に覆われた人物の足が遅いと言ってもそれは俺が万全であればの話だ。香織を背負ったままだとどうしてもスピードが落ちてしまううえ、この場に武器となるものは無い。追いつかれるのも時間の問題だろう。
それだけでは無い。
ここを降りる為には一本道の階段を使うしか無いのだ。気を失った人間を担いで傾斜のある坂道など論外。靄に覆われた人物が階段をわざわざ一段ずつ降りてくれるなら何の問題も無いが、靄に覆われた人物が上から降ってきたら、回避するのは容易じゃない。
逃げ切るのを視野に入れるのなら、誰かが殿を務める必要がある。
「まったく、とーきょーもんは世話がやけっね。あたしが先陣ば切り開くけん、遅れるんじゃなかよ」
逸香はそう言うと、腕にかかえていたあらた君を俺に預けて、階段の方に視線を向けた。俺は香織を背負い、そのままあらた君を片腕で抱き上げる。こんな状態になる以上、彼女も俺を戦力としては期待していないのだろう。まぁ、日本刀が無い以上、俺も文句を言う気はない。
「……念の為に言っておくが、素手で奴らを殴ったりしない方が良さそうだ」
「ようわからんばってん、要するに蹴ればよかとね」
「奴ら、いや……仮にあの状態の村人を靄人間と呼称するが、靄人間になる条件がわからない以上、必要最低限にはすべきだと思う」
「おーけー。そんじゃ行くばい!!」
逸香は足首まで隠れたジーパンと運動靴を履いている。その装備ならまず間違いなく靴下は履いているだろう。未だに靄人間になってしまう条件は不明瞭だが、素手で殴るよりかはよっぽど安全と言えるだろう。
逸香の言葉を合図に俺達は鳥居に向かって駆けた。
気を失った香織を背負い、同じく気を失っているあらた君を抱きかかえた状態の俺は彼女においていかれないように、必死に足を動かした。
靄人間と化した村人が、目の前で逸香の強烈な蹴りによって灰塵となり、空中に消える。それが三度四度と繰り返されても逸香に異常が見られない以上、ほぼ確定と言っていいだろう。
靄人間に直接触れると靄人間になる。とはいえ、布越しであれば靄人間になる確率は低いということだろう。
確証が無い以上楽観視は出来ないが、それならやりようはいくらでもある。
そう思ったタイミングで、俺達は階段の前についた。逸香がいなければこんなにもスムーズにはいかなかったことだろう。
「うちの鍵は玄関の下にある植木鉢ん下にあっけん、梓は二人ば連れてうちに隠れときなっせ」
階段を降りる直前に止まった逸香は俺の耳に届く微かな声で、何故かそんなことを告げてきた。
彼女の表情を見れば、儚げな顔をこちらに向けてくる。
それが不思議と嫌な予感を膨らませていく。
「……冗談だろ?」
「誰がこんな状況で冗談ば言うね? 梓もわかっとるとやろ? ここで誰かが残らんと皆生き残れん」
「だったら俺が!!」
彼女は首を横に振る。
「あたしが残らんといかんとたい。あたしが撒いた種やけん、あたしがやらんと」
彼女の表情には確固たる決意が窺えた。
俺は歯を噛みしめ、説得の言葉を必死に考える。だが、彼女がそんな俺を待ってくれるはずもなく、彼女は俺達に背中を向けた。
「はよ行かんね!! 余所者は黙って布団にくるまっとけばよかったい!」
そう言った逸香に、靄人間と化した村人達が複数人で迫る。
「あたしがおる限り、かおちゃんには指一本触れさせんばい!!」
武道の構えを見せる逸香が攻撃しようとしたその時だった。
「良い覚悟だ。成長したな、逸香」
その声は突如、靄人間達の中から放たれた。
その声に気を取られた刹那の一瞬、目の前にいた靄人間の一人から人間のものと思しき腕が突き出され、靄人間の身体は霧散し、着ていた衣類だけが石畳に落ちた。
そして、その背後に立つは、腕を靄人間に突き刺した張本人。
市松模様が描かれた藍色の法被を身に纏った壮年の男性、矢車敦と名乗った逸香の師匠が立っていた。
「師匠!?」
「矢車さん!?」
彼の登場には驚くが、それよりも気になるところがあった。
「靄人間に直接触れたら!」
彼の腕からは、案の定、靄が上っている。彼が靄人間になるのも時間の問題に思えた。しかし、彼は何故かこちらに向かって微笑んできた。
「見苦しかとこば見せたね。こいつは始めん方に出たあいつらに触れた時につけられたったい。どうやら俺も村ん連中みたいになるみたいやな」
「そんな! 師匠までなんて……」
逸香の目から涙が溢れ、彼女は膝から崩れ落ちてしまう。
「こんな……こんなつもりじゃ……」
涙で石畳を濡らす逸香。だが、俺は彼女になんと声を掛ければいいのかわからず、悔しさで歯を軋ませることしか出来なかった。
目の前に立つ矢車さんが相当な実力者であることは見た時から知っていた。初めて見た時のやり取りで、逸香がどれほど彼のことを慕っているのかも。そんな相手が近い将来に死ぬとわかったうえで、どうすることも出来ない悔しさを彼女は感じている。
そんな彼女に俺はなんて声を掛ければいい。
「立て、逸香」
非情にも、その言葉は俺達に背中を向けた矢車さんの口から放たれた。
彼は着ていた法被を上に向かって放り投げる。
そして、落ちてきたそれは、伸ばした逸香の腕に収まった。
「逸香、お前は俺がいなくても問題なか。お前は俺の自慢の親友の子で、俺の全てば捧げた自慢の子たい。絶対に死ぬんじゃなかよ」
その言葉を背中越しで告げられた逸香は、ぎゅっと強く法被を抱きしめ、その場から立ち上がると、何も言うことなく階段の方に駆け出し、そのまま降りていった。
俺も黙って逸香の後に続こうとした時だった。
「遠山梓……やったね? 逸香んことば頼むね」
その言葉を背中越しに告げられ、俺は振り返る。
横顔だけをこちらに向けていた矢車さんは寂しそうな笑みを浮かべていて、俺は目から溢れるものを拭い、彼に力強く「はい」とだけ告げ、そのまま階段に向かって駆けた。
鉄火市の今日の熊本弁講座〜!!
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
このコーナーは、鉄火市があとがきになに書くかな〜って迷った結果、本作の舞台となっている熊本の方言を簡単に解説していこうと思い設けられた誰得コーナーである。
この謎コーナーも今回で記念すべき10回目!!
第10回の方言は「だんだん」について。
この方言は、ありがとうの意味で使われます。
毎度毎度こんなようわからんコーナーに付き合ってもらってだんだんなぁ。って感じで使われます。
それではまた次回!! お会いしましょう!!