深山村の伝説1
夏の終わりを彩る蝉の鳴き声に耳を傾けながら二時間、俺は熊本県の山々を縫うようにして深山村へと辿り着いた。不整地を進む足取りは念入りに選ばなければならず、既に約束の時間を一時間も過ぎてしまった。
「香織のやつ、流石にもう待ってないよな……」
地面に刺されている木の看板には深山村の文字。俺はそこで車を止めて腕時計で時間を確認した。
「確か十四時に村の入り口で待ってるって話だったけど……やっぱり待ってないか……ん?」
助手席の窓をノックする音に気づき、見ると灰色の小さな獣が視界に飛び込んできた。
「……うさぎ?」
何故かガラスにうさぎがはりついており、はりついたまま離れようとはしない。だが、よくよく観察してみれば、うさぎの耳をまとめて片手で掴んでいるのが見えた。
それに注目していると、うさぎの姿が視界から消え、代わりにニコニコした若い女性の顔が現れた。
だが、その女性は香織ではなかった。
見た目二十代前半の明るい茶髪の女性で、革手袋などの狩人がしていそうな装備をつけている。
「君がかおちゃんの言っとった梓君で間違いなかと?」
「そうですが、あなたは?」
少し訛った感じの発音ではあったが、ゆっくりと丁寧に聞いてくれたお陰で聞き取りやすかった。かおちゃんというのはおそらく金山香織のことで間違いないだろう。
「あたしは逸香。如月逸香言うばい。よろしくな、梓」
初対面でありながらいきなり下の名前を呼び捨てで呼んでくることに少し驚きつつも、馴れ馴れしい感じは田舎ってイメージにぴったりだと思ったので、その呼び方に対して特段なにかを言うことはなかった。
正直なところ、梓って名前が嫌で、今まで会った多くの人には、名字である遠山で呼ぶように言い聞かせてきたが、ここまですんなり受け入れられたのは、おそらく初めてだろう。
「なぁなぁ梓、あたしン家に車ば置けるスペースがあっけん、そこ使うね?」
「いいんですか?」
「よかよか。ただ、こっからやと結構歩くけん乗せてってくれんどか?」
そう言いながらも、こちらの答えを聞かずに彼女は扉を開け、躊躇うことなく助手席に座ってきた。その瞬間、俺は心の底から悲鳴を上げたくなった。
「……せめて……せめてシートにタオルを敷かせてくれ……」
せっかく長期ローンを組んで毎日大切に乗っていた車だというのに、彼女は山の中を駆け回ったであろう格好で椅子に堂々と悪びれることなく座ってきた。彼女の服や革靴から土くれが落ちるのを見て、頭が痛くなってくる。おまけに彼女は片手に持っていたうさぎと背中に背負っていたライフルを後部座席に置いてきた。微かに匂う硝煙の香りと血の匂いに苦笑いが止まらない。
「なんね? 梓は男ん癖にこがんことにいちいち文句ば言いよっとね? こんぐらいここでは普通たい」
彼女の言葉にいらっとしそうになるが、俺は自分に冷静になれと言い聞かせる。彼女はこう見えても香織とは仲の良い友人なのだろう。彼女がもし、俺がきれやすいとかねちっこいなんて言葉を香織に告げた場合、香織からの評価はだだ下がりになってしまう。それだけはどうしても避けたい。
「……それで……家はドコデスカ?」
必死に怒りを抑え、ぎこちないと自分でわかっていながらも、俺は彼女に尋ねる。彼女は俺に笑顔を向けると、自分の家を口頭で案内してくれた。
如月逸香の家はそこまで遠くなく、車でわずか数分のところに位置していた。彼女に導かれて車を停め、俺は後部座席を確認した。うさぎとライフルは既に如月逸香が持ち去ったが、微かに香る硝煙の匂いと赤く染まった座席を見て、涙が溢れそうになった。
(東京に戻ったらシートカバーを変えよう。というかいっそシートごと換えたい気分なんだけど……)
そう思っていると、家の中に入っていった如月逸香がここまで聞こえる大声で俺を呼んだ。
「なんばしとっと? お茶ば入れたけん中に入らんね!」
なんとなくだが聞き取れる方言で呼ばれたため、俺は取り敢えず財布と携帯の入ったバッグだけを持ち、彼女の家の中に入ろうとして足を止めた。彼女の家は、小学生の頃、田舎に民泊した際に泊まった家によく似ている住居だった。敷地面積は俺の実家を入れても余裕がありそうな程広く、切り干し大根とおぼしきものが、女性物の下着と共に干してあり、田舎特有の無警戒さが窺えた。
(いや、あれは田舎とか関係ない気がしてきた。てか、でかいな、あのブラジャー。着痩せするタイプか?)
「なんね? さっきから人ん下着ばじろじろ見て、そんなに欲しかとなら一つやろか?」
「……お前さ、仮にも年頃の女が男にそんなこと言うなよ。ていうか、あんなところに干してたら盗られるぞ」
「別にあたしんブラジャーなんか誰も欲しがらんよ? たまに干しとったらどっか行くことはあっけど」
「それ普通に盗られてんだよ。悪いこと言わないから家の外にはもう干さん方がいいぞ?」
「せっかく天気のいい日やのに、しょうがなかね……」
そう言いながらサンダルを履いて外に出た如月逸香は、渋々といった様子で下着を取り込み始めた。
「まぁ、今日は村ん外から人が来とっし、盗られてしまうかもしれんしね?」
「こう見えても警察官なんだから盗る訳ねぇだろ」
ニヤニヤとした表情を浮かべながら苛つくことを言ってくる如月逸香に笑顔を浮かべながら答えるが、内心は殴りたい気持ちでいっぱいだった。
彼女に案内され中に入ると、来客用のスリッパなんてものはなかった。彼女もスリッパを履かずに裸足でペタペタと歩いていく。
「お邪魔します」
「なんもなかとこばってん、適当にくつろいどってよかよ」
先程まで着ていた上着をそこら辺に放りながらそう言われ、俺は呆れてものが言えなくなってしまった。
他人の家に上がる以上、そこが個人の空間であることは理解している。理解しているが、畳の上に脱ぎ捨てられた靴下があるのは如何なものかと俺は思う。
(こんな散らかして家族に何も言われんのかね……)
そんなことを思っていると、彼女は引き戸の扉で隔てられた部屋へと入っていった。
どうしようかと迷った挙げ句、俺は取り敢えず、居間と思しき場所へと向かった。
玄関から大きな部屋を抜けて開け放たれた障子から見える居間へと俺は足を踏み入れる。
その部屋も畳張りの床で、中央には大きな炬燵があり、なんとなく食事を取る部屋だということはわかった。
ただ、一言つけ足すのであれば、炬燵の上にはものが散乱しており、畳には下着や靴下といった衣服とかみかん等が落ちていて、足の踏み場がないほど汚かった。
客観的に見れば美人と言える女性の下着が目の前に落ちているのに何故か溜め息しか出ない。
「ねぇ……ここって他に誰か住んでんの?」
俺は彼女がいるとおぼしき部屋の方に声をかける。すると、その部屋から、彼女はタンクトップと短パンというラフな格好で出てきた。
「ん? 別にあたし以外は住んどらんよ? 父ちゃんと母ちゃんはずっと前に事故で死んじゃったから今はあたし一人だし」
その答えを聞いた瞬間、けろっとした様子の彼女とは対照的に、俺は心の底から申し訳ない気持ちになって、頭を下げた。
「ごめん。差し出がましいことを聞いた」
謝罪の言葉を告げると、彼女は笑顔で手を横に振った。
「別に気にせんでよかとよ? 葬儀とかも皆がやってくれてあたしとか何もすること無かったし、ほとんど毎日近所のおばちゃん達がやって来て野菜とか分けてくれるけん、全然寂しくなかとよ」
まさか両親と死別しているとは思わなかったが、彼女の表情からは本当に気にしていないというのが伝わってきた為、心の底から安堵した。
「……ところで香織は? 如月さんをこちらに送ったってことは呆れて帰ったって訳じゃないんだろ?」
「如月さんって他人行儀な言い方はあんま好きじゃなかとよ。気軽に逸香でもよかよ?」
「流石に会ったばかりの女性に対して呼び捨てはちょっと……」
「なら逸香様か逸香お姉さまのどっちが良かね?」
「……逸香って呼ぶわ」
「素直にそう呼べばよかとに」
勝ち誇ったように言われて無性に腹が立つ。初対面で言うのもあれだが、こんな奴をお姉さま付けで呼ぶとか死んでも嫌だ。
「……それで? 香織は何処にいるんだ?」
「かおちゃんなら今は神社の境内におるよ?」
「神社ってここに来るまでの間にあったあれ?」
逸香の案内でここに来る道中、神社と思しき場所を見た。神社なんてあって当たり前だと思って深くは聞かなかったが、あの場所に香織が居たのなら、話は別だ。
「言ってくれたらあそこで降りたのに」
「いやいや、かおちゃんの邪魔しちゃいけんし。その為にあたしが梓の面倒ば見るよう頼まれとったし」
「邪魔? いったいなんの?」
俺が口に出したその言葉に、逸香はお茶を飲む手を止め、こちらに唖然としたような顔を向けてきた。
「まさか何も聞いとらんと?」
その言葉に、俺は更なる疑問が募り、香織からの手紙の内容を精一杯思いだし、そして、一つの解答を導きだした。
「巫女がやる舞ってやつか」
その言葉に、逸香は頷いた。
ここまで読んでいただき、誠にありがとうございます。
明記しておきますが、今作はフィクションで構成されており、現実では起こり得ないであろう事件が起こりえます。
そういったものが苦手という方は、ブラウザバックを推奨いたします。
それでも構わないって方は、ゆっくりされていってくださいませ。




