今日あの子は第三車両に乗っている
僕はいつも通り学校に指定された無個性で固められた制服を身にまとい、今日も学校へ向かう。
毎日同じ通学路、同じ光景、唯一毎日違うのは天気だけ。毎日毎日ロボットのように反復作業を繰り返している感覚だが、それが普通であり、ある意味社会的生物である人間のサガなのだろうと思う。
社会のルールに従って、社会が敷いたレールを歩くという極めて機械的な行動をいかにそつなくこなせるかというのが人間的な生き方で、一種の矛盾ではないかと疑ってしまうが、この矛盾を疑わない人ほど『世渡り上手』と呼ばれるのだろう。今日も僕は同じアスファルトを踏み、同じ改札を通り、『痴漢ダメ、絶対!』と書かれたポスターが壁に張られた階段を駆け上がる。
どうせそんな勧告ポスター張っても意味なんてない。悪いことをやっている人なんて、自分が悪いことをやっていると認識していないか、ましてやよかれと思ってやっているだけなのだ。
――と、これもポスターを見るたびに考えてしまう。自分の思考ですら反復行動という牢獄に囚われてしまったようで、中々いい具合に日本社会に染まってきたとつくづく己惚れてしまう。
しかし、そんなコピーアンドペーストしたような日常の中でも楽しみはあるもので、僕は通学の電車が嫌いではなかった。
電車が二つ隣の駅に到着すると、電車右側のドアが開く。
スーツという名の大人の制服を身にまとったサラリーマンという軍隊とともに、一人の女子高生が乗車した。
その長い黒髪のモデル顔負けのスタイルと、涼しげで透明感のある表情をぶら下げた女性を僕は知っている。
最近僕の高校に転校してきた転校生である神崎渚だ。神崎は乗車するとドア付近でスマホをいじり、なるべく人と目線を合わせないような姿勢を取る。それは電車に乗った大多数が取る行動であり、多数決が民主主義の根幹なのだとすれば、民主主義的に正しい行動を神崎渚はとったのだ。
制服という名の公開アイデンティティを身にまとっている以上、彼女は僕の存在にも気づいているだろうし、クラス内で自己紹介をしたのだから、同じクラスメイトであると彼女は認知しているだろう。
僕たちは決して会話をすることがない。
ろくに話したこともないのだから別に仲が悪いわけでもないのだが、ろくに話したことがないからゆえの気まずさが、僕と彼女の間の透明な壁を作り出している。
だが、別にいい。
彼女ほどの美女を毎朝拝みながら通学することが出来るだけで眼福だ。成績も、スポーツも、顔面偏差値も突出したものがない僕に手が届く相手でもないし、このように眺めているだけで主に土下座して感謝しなければならないだろう。
あと三駅だが、神崎とは話さない。彼女も僕に話しかけようとはしない。
僕がつぶやくのはSNSでのみで、神崎に何かをつぶやきかけることはない。
僕はその他大勢がそうしているように、スマホに視線を配る。
普段そうしているように僕はスマホでSNSを確認し、写真を眺める。
果たしてスマホがなかった時代に人々はどの世に電車の中で時間を潰していたのだろうかと不思議と思考してしまうが、グーグルで検索をすると、どうやら紙媒体の新聞や本を読んでいたらしい。こんなくだらない疑問ですら、ほとんどがグーグルで検索をすれば答えが出てくる世の中だが、僕には一つ答えのない不思議があった。
指に刺さったささくれほどうっとおしいものはなく、平凡な日常に漂う些細な謎ほど脳内を埋め尽くすものはない。
それは目の前にいる神崎渚という女性が作り出したものであり、それが『恋』と呼べるほど単純であればよかったのだが、『恋』という単語で括れるほどはっきりしたものではなく、とりあえず僕の日常にいる神崎渚が謎そのものだったというだけの話だ。
どうしようもなく、そしてくだらない。
それよりも『なんで駅にあるゴミ箱は結局同じ袋に入るのにペットボトルと空き缶で口が分かれているのか』を考えたほうが有益なのではないかとすら思えるのだが、別のささくれを指に刺したところで、もう片方のささくれの煩わしさが消え失せるわけでもない。
ただただ、僕はよどんだ思考の中で神崎渚の行動の意図を悶々と考えるほかなかった。
神崎渚は毎日のように電車に乗って通学する日常は決して金太郎飴を切ったかのように瓜二つではなく。
――神崎渚は毎日違う車両に乗っているのだった。
*****
「なあ、サル。最近ちょっと気になってることがあるんだけどさ」
「ん……? あん、どうした、杉内?」
学校での唯一の自由時間ともいえる昼休みに、僕は前の席に座っているクラスメイトに声をかける。
中々スパルタな運動系の部活に入っているそのクラスメイトは、俺が電車に乗っている時間には朝練という苦行の名のもとに既に校庭を走り回っていたらしく、昼休みは机に突っ伏していた。
彼のことをサルと呼んではいるが、高校に通えるほどの知性を持ったオランウータンはまだこの世には存在しておらず、坊主頭で背が小さく、フットワークが軽くてちょこまかと動き回っていることから、周囲からそう呼ばれている。
中学生からの付き合いであり、中学から僕がサルのことをサルと呼んでいたら周囲にそれが広まったというのが正確で、僕はいわゆるサルの名付け親ということになる。
僕が呼びかけると眠気の影響で重力が数十倍になっていたであろう上半身を持ち上げ、僕の方を向く。
「お前って電車乗るとき、乗る車両を変えたりするか?」
「突然声かけられたと思ったら、そんなことかよ」
僕はここ最近疑問に思っていたことを彼にヒアリングしてみることにした。
サルは夢の世界から現実に引っ張られた理由がちっぽけなことを知り、落胆した顔を隠せていない。
彼が朝練で疲労困憊なのは知っているが、午前の授業から睡魔と格闘しているのを後ろから眺めるのは毎日のことだし、なんだかんだ話に付き合ってくれるので、僕はこれっぽっちも申し訳ない気持ちを抱いていない。
「俺は変えないな。いつも降りる駅の出口階段に一番近い車両に乗る。そっちのほうが下りる時スムーズだしな。階段でおっさんともみくちゃになるのは気持ち悪いし。真っ先に出口に出るようにしてるぜ」
「まあ、そうだよな……」
普通に考えたら車両を変える必要もないし、毎日同じ車両に乗っていたほうが楽に違いないのだ。人間は一日当たり六万回選択をしていると言われており、物事を選択する回数が多ければ多いほど疲れてしまうという。いわゆる選択疲れというものなのだが、それを回避するためにも、同じ時刻に、同じ車両に乗車したほうが良いに決まっている。
「っていうかさ、なんでそんなこと聞くんだ?」
「ああ、実はさ……」
僕は朝の出来事をサルに話した。転校生である神崎渚と同じ電車に乗っていること、毎朝鉢合わせに電車の中で鉢合わせになること、そして彼女が毎日異なる車両に乗っていて、僕がそれを不自然に感じていること。
サルは決して頭の良いタイプの人間ではないが、長い付き合いということもありよく僕の相談相手になってくれる。何より悩み事を相談しているときに、茶化さないという安心感だ。平たく言ってしまえば聞き上手なのだろう。
「確かに不自然だとは思うが……あれだろ? 神崎ってここ最近転校してきたばっかなんだろ?」
「多分転校して一か月ぐらい経つ頃だと思う」
一か月という期間が長いか短いかは人それぞれの基準によって判断が分かれると思うが、学校生活の波に乗るには十分すぎる長さであり、神崎渚はいわゆるスクールカーストの上位グループに属していた。メイクが濃く、濃香水の匂いよりも男の匂いのほうが強い色欲にまみれたグループではなく、その透き通った見た目の通り、生徒会役員や風紀員などを任される優等生が集まったグループで学校生活を満喫しているようだった。
「じゃあ、まだ定位置を見つけられてないんじゃないか? 彼女も県外から引っ越してきたって言ってたし、一番出口に近い車両を見つけられてないとか」
「そうかなあ? それなら順番に乗る車両をずらしていくもんじゃないか。彼女の乗る車両って規則性がないんだよ。今日は第三車両に乗ったかと思えば、次の日は第五車両、その次は先頭車両みたいな。大体引っ越して一か月も経つのに定位置を見つけられないって、可笑しくないか?」
「人間の記憶ってあいまいなもんだぜ? 一番出口に近い車両を探しているうちに『昨日ってどの車両に乗ったっけ?』なんて度忘れしちゃうことだってあるだろうよ。別に変じゃないと思うけどよ」
一か月経ち、神崎渚は僕が見る限り、既に校内の全ての施設を覚えているようだし、方向音痴であるようには見えなかった。
サルであれば一日ごとに記憶がリセットされるのかもしれないが、神崎渚に関してはそうではないように思えた。
「気になるなら、直接聞いてみればいいんじゃね? この話をきっかけにお近づきになれるかもしれねえじゃん。お前が好きかどうかはさておき、神崎のことが気になるのには違いないんだろ? 実際神崎はこのクラスで一番美人だとは思うしよ。こんなところでウジウジ考えてるより、当事者に答えを聞いたほうが早いって」
「う、うん……でもなあ……」
サルは突拍子もないことを提案する。
いや、理屈としては正しいのだろうが、僕のようなスクールカーストのピラミッドの中に属しているのかすら危うい幽霊のような人間が神崎渚のようなミカエルに話しかけても良いのか悩ましい。同じ空気を吸ってはいるものの、生きている次元がまるで異なり、物理的な距離がたかだか数メートルであったとしても、そこには神の見えざる手が僕の彼女への接触を拒んでいるかのように思えた。
「じゃあ、俺が聞いてやるよ」
「本当か?」
「ああ。だって聞くだけだろ? そんなん誰にでも出来るって。あとで時間あるときに聞いといてやるよ」
サルは表情一つ変えずに流すように言った。
恐らくサルも神崎渚と話したことはなく、神崎渚と接触をするハードルは僕と同じぐらいの高さに違いないのだが、サルの機敏さと厚顔無恥さの前にはハードルもへったくれもないようだった。
「流石サルだな。助かる」
「おうよ」
圧倒的なインドア派であると僕とは真逆といっていいほど、対照的なアウトドア派のサルは水と油のように相いれない部分はあるとしても、お互いがお互いに出来ないことが出来るという信頼関係だけはある。彼の動き方や大胆さには僕の理解が及ばないこともあるし、正直内心嫌いだと思うこともあるが、それでもサルがいてくれて助けられた恩のほうが大きい。
聞くことも聞いたことだし、昼ごはんも軽く食べてしまった僕は残りの時間何もすることがなくなってしまった。
僕はスマホを取り出し、簡単にSNSのチェックをする。今どきの高校生だと思われるかもしれないが、暇があればSNSをチェックしているし、リアルタイムで流れてくる情報を眺めているのはなんだかんだ言って好きだ。
「でも、お前本当にスマホばっかいじってるよな。授業中もいじってるし。いつか没収されるぞ? 授業中はスマホ禁止だし、チクられたら終わるぜ?」
「授業がつまんなすぎるんだよ」
「あれか? 写真部だからスマホで写真を加工とかしてんのか?」
「もう部活には入ってないよ」
部活のこともこいつには相談したことがあると思うのだが、やはり毎晩脳みそを宇宙人にでもすり替えられているらしく、もう忘れてしまっているようだ。もはや病気なのではないかと思うが、このバカさもある意味個性なのだろう。
「人間関係が僕には合わなかったし、自分で自由に写真を撮るのが一番だ」
「ふーん、そうか」
校内にチャイムが鳴り、自由時間の終了と刑務作業の開始を告げる。
日本史の先生であり、僕たちのクラス担任でもある眼鏡をかけた中年男性が教室に入ると、ざわざわしていた生徒たちが突然大人しくなり、自分の席に座るとカバンから日本史の教科書と筆記用具を取り出していた。
「よーし、席につけー」
日本史なんて、いや日本史に関わらずだが、先生は結局本に書いてあることをなぞっているに過ぎない。別に僕は天才ではないが、日本語は理解できるし、教科書を自分で読み込んで頭の中に入れることぐらい出来るに決まっている。
神崎渚に会える通勤電車は、カラフルな日常に分類されるのだろうが、このようなつまらない授業を淡々と聞かされるのはモノトーンな日常だ。誰が悲しくて数十分も半分ハゲた中年男性のお経なんて聞かなければならないのだろうか。
僕はいつも通りポケットにしまってあるスマホを取り出す。
教科書の活字を眺めているよりも、圧倒的に有意義だ。
「おい、杉内」
突然自分の名前が呼ばれ、体がビクッと反応する。
黒板にミミズのような授業メモを書いているかと思いきや、僕のほうを一直線に睨みつけていた。
「……この授業が終わったら職員室に来い。今握ってるお前のスマホについて話がある」
「……はい」
どうやら僕も年貢の納め時のようだ。社会のルールに、ほんのささやかな反抗を試みたが、僕は若くして敗れ去ってしまったのだ。十数年と教師をやってきたモンスターを相手に、たかだか十年ほど生徒をやってきた小僧が敵うわけもなく、バレないと思っていた行為も、彼らの監視の目からは逃れることが出来なかった。
「……ざまあねえぜ」
サルはニヤニヤしながら、僕のほうを振り返る。『してやったり』といった顔だ。
ムカつくが、数十分前の彼の未来余地が的中してしまったのだから、そういう表情にもなるだろう。僕の半身であるスマホをこれから没収されるかもしれないという悲壮感を彼を共有することは、恐らくできないだろうと確信した。
「……うっせえ、サル」
*****
「ただいまー」
僕が扉を開けると、みそ汁の匂いを含んだ空気が僕の鼻を伝る。
学校で嫌なことがあればあるほど、やはり自分の家に帰ると、その反動からかより一層天国であるように感じる。
「おかえり。最近帰り遅くない?」
「高校生なんだから、色々あるんだって。中学生基準で僕の行動を図られても困るから。母さんや父さんほどじゃないだろ」
エプロンを来た姉が、僕に話しかける。
僕はスマホ分軽くなったバッグを自分の部屋に置き、適当な普段着に着替えるとリビングに戻る。そろそろ夕飯だろうし、宿題などの他の作業を始めてもどうせ中断してしまうのだったら、潔くここは姉が夕飯の支度を済ますのを待つことにしよう。
「学校復帰したばっかりなんだから、そんな無理しないでね。姉ちゃんこれでも心配なんだから」
「だからさ、もう子ども扱いすんのやめてくれって。しっかり自分のことぐらい自分で管理できるからさ」
父は単身赴任中だし、母も割と激務な職業であるとため、ろくに顔を合わせることがないのだが、姉がほぼ保護者の代わりだ。大学生、しかも就活も決まり、単位も取り切った姉はずっと家にいて主婦をしている。親よりも保護者らしく、前回の保護者面談時は親の代わりに姉が出席したぐらいだ。
料理は母よりも美味しいし、年齢も僕と近い分色々話易いので、僕としては別に何の不自由もない。
「あのさ、姉ちゃん。古いスマホって持ってない?」
保護者が親か、姉かというよりも、スマホがないほうが現代社会を生きる上では不自由である。
職員室に呼ばれた僕はスマホを没収され、授業中で何を見ていたのかを確認され、こっぴどく叱られた。
帰路が苦痛で仕方なかったのは言うまでもないだろう。スマホがなくて何をしようとしても、何が出来るわけでもなく、SNSを確認することもできなければ、ふとした瞬間にカメラを構えることもできない。ないないだらけの帰路で僕が唯一出来たことといえば、周囲の光景を楽しむことだけだった。
「ん? ああ、機種変したときの古い奴ならあるけど、どうかした?」
「スマホ没収されちゃって……」
「何やってんのよ、あんた……」
姉は呆れた様子で肩を落とす。
これに関しては間違いなく僕が悪かったので、何も言い返せない。
「まあ、いいわ。夕飯の後にその古いスマホ取ってきてあげるから。明日には私の方から学校に電話してお詫びしとく。全く、子ども扱いしてほしくないなら、もっと大人らしく、大人しくしてよね」
「ありがとう、姉ちゃん……面目ない」
僕はリビングの椅子に腰かけながら、姉の料理が出てくるのを待つ。ほぼほぼ出来上がっているようで、あとは温めなおすだけのようだ。姉はみそ汁の鍋をかき回しながら、僕と雑談をすることにしたらしい。
「んで、最近の学校はどうなの?」
「どうって言われても……まあ、ぼちぼちかな。楽しくやってるよ、サルもいるし」
「そっか、まあサルくんいるし、それもそうか」
中学時代から付き合いのあったサルは、昔からよく家に遊びに来ていたし、家族全員がその存在を知っていた。だから僕がサルと友人であると言っても、僕が突然動物園の飼育員になったわけではなく、あくまでも野球部に所属している人間のサルであると正確に伝わっているのだ。
「写真部は抜けたの?」
「……うん。自然消滅っていうのかな? 知らない間に部員から外されてたよ」
「まあ、それでいいんじゃない? あんな連中と付き合うほうが時間の無駄だったしさ。自分を大切にしてくれない人たちを大切にする義理なんてないって」
「まあ、そうだね……今ではそう思ってる」
合意もなく部員を外す連中だ、こちらから願い下げである。写真部は今の僕からすれば歴史でしかないが、決して輝かしい歴史ではなく、醜く辛い歴史として後世に語り継がれるだろう。
写真部の部員たちがどのように感じていたのかは定かではないが、僕からしてみたら方向性の違いでしかなかったのだ。僕が取った写真は写真部の部長を筆頭に受け入れられず、上下関係を弁えずに僕が反抗した結果、僕の写真部での居場所がなくなってしまった。写真なんて芸術の一部なのだから、個々人の自由で良いではないかと思ってしまうが、それでも僕の写真は赤点らしい。
別にどちらが悪いわけでもなく、僕が写真部のルールに乗ることが出来なかっただけだ。
靴に画びょうを入れられるとか、バケツ一杯の水を頭から掛けられるといったような悪質なイジめはなかったにせよ、あからさまに僕を写真部というグループから排除しようという空気が作られてしまい、学校という狭い集団の中で生活している幼気な高校生である僕にとっては、それが耐えきれないほどの苦痛であった。
一時期学校に行けなくなったが、時間が経つとともに自らを奮い立たせ、何とか僕の歴史として処理することで再度通学路を辿る日常に戻ることが出来たのである。
「部活に行かなきゃ、あいつらにも合わないし。基本的にずっとクラスとトイレの往復だから、姉ちゃんが心配することもないって」
「そうだね、安心した。ただ、無理だけはしないでね」
「……わかったよ」
子供扱いするな、と言いたいところだが、姉には明日僕のスマホを返してもらうために学校に電話してもらうというミッションがあるので、ここは素直に姉の言葉を飲み込むとする。そうこうしているうちに夕飯が出来上がったようで、テーブルの上にみそ汁や豚の生姜焼きなどが並んだ。今日失った体力を補充するには十分すぎるほどの献立で、母には悪いが主婦力は姉のほうが格段に上だ。
「さて、食べようか。いただきます!」
「いただきます」
そういうと、僕は自分専用の黒い箸を手に取り、食事を堪能することにした。
*****
雲一つない晴天は別に嫌いではないが、淀みのない空というものは退屈極まりなく、見上げたときに視界一面が青く染まるというのはいささか僕を不安な気分にしてしまう。色彩の芸術というのは、色と色の差から生まれる絶妙なバランスとアンバランスさを楽しむものであり、全く同じ色が頭上に広がっていることは、僕にとっては少し怖くもあった。
「おう、杉内!」
そんな晴天の中でも、今日も相変わらず神崎渚が別の車両に乗車していたなと、ふと考えながら校門をくぐると、突然強烈な勢いで肩を叩かれた。この痛みを伴う声のかけ方が出来るのは、人間と動物の中間にいる存在しかできず、つまりサルに違いなかった。
「ああ、サルか。どうした突然」
今日は珍しく朝練がなかったようで、僕と同時刻の登校だ。
朝練がなくてたっぷり睡眠をとることが出来たのか、心なしか目元が少しすっきりしたようにも思える。
「昨日神崎さんに聞いてみたぜ、例の件」
「おお、流石だな。なんだって?」
ろくに会話もしたことがない女性によく話しかけられるものだと感心しながらも、果ての見えない彼の行動力に尊敬すらしてしまうが、それよりもこれで僕の一か月間に渡って頭の中を埋め尽くした謎が解き明かされるのかもしれないと、期待に胸を躍らせる。彼女の行動を知ったからといって僕の人生が大きく変わることはないだろうが、それでも胸のつっかえが解けるのは間違いないだろう。
「えーっと、単なる気分だってさ。日によって見たい景色があって、その気分に応じて車両を選んでるんだってよ」
「景色?」
僕が深堀するように聞き返すと、サルは少し考えるようなしぐさを見せる。少ない記憶力を頼りに昨日神崎渚と会話した会話を思い返しているのだろう、まさかここで忘れたなんて言わないでほしい。
「そ、そう。景色だよ! 先頭車両と後方車両だと見えるものが違うだろ? その日その日の気分によって場所を変えてるんだって」
「そう、なのか……」
多少ではあるが前方車両と後方車両だと見えるものが違うのは確かだ。実際に僕も最前方の車両に行き、車掌室から移り行く景色を眺めるのは嫌いじゃない。
何より神崎渚自身がそのように言ったのであれば、そうなのだろう。常に涼しげな表情をしているから、風景や芸術には興味がない人間なのではないかと思っていたが、実は見た目以上に感性豊かなのかもしれない。
「あと……友人としての忠告だが、神崎さんを狙うのはやめたほうがいい」
「どうしたんだ、いきなり?」
人の悪口はあまり言わないサルが、珍しく神崎渚を下げるような発言を呟く。
「あの女、相当性格が悪いぞ。少ししか話してないんだが、結構ヤバい。悪いことは言わないから、距離を置いたほうがいいぜ」
「……そうなのか? そういう風に見えなかったけどな。どういう風にヤバいんだ?」
僕が見ている神崎渚とは逆説的な評価に僕は不思議でならなかったが、実際に神崎渚と会話をしたサル以上に僕が彼女を理解しているとは言い切れない。僕は彼女と直接接触したわけではなく、彼女の外側から見て、『何となくこういう人だな』と把握しているにしか過ぎないのだから。
それでも、僕はサルが接触した神崎渚がどのような人物なのか興味を持った。
外見と内面の二面性がどういったものなのか、知りたかった。
「どういう風にって言われてもなあ……とにかくヤバいんだ!」
「おいおい、風評被害甚だしいな……」
残念ながら、語彙力に欠けたサルに説明を求めても自分がみじめになるだけだと痛感させられた。彼が神崎渚をどのように見ていようが自由だが、人並み外れた彼の行動力で変な噂を流布することだけはしないでほしいと願うばかりだ。
「親友としての助言だ! 彼女に近づくと痛い目見るぜ! あいつは悪女だ、悪女!」
「わかった、わかった。だから、校内で叫ぶな」
謎が一つ解けても、新たな謎が生まれるだけで、それはマトリョーシカのようにいつ終わりが見えるのかは分からない。
神崎渚が僕の思考から消えることは、ひとまずはなさそうである。
*****
夕飯時になり、家へ帰宅する。今日中にはスマホが返ってくるかと思ったが、学校でスマホを返却してもらうイベントは発生せず、僕は姉の古いスマホを握りしめながら帰路に立つ。
自分のスマホではないという気持ち悪さはありつつも、古いスマホでも日常で使うには不自由ない。あくまでも一時的に使用する目的だし、無線ネットワークが繋がっていなければ使い物にならないため、必要最低限のアプリだけを入れている。
「ただいまー」
「お、お帰り……」
昨日残ったみそ汁の匂いが家の中に漂うが、姉が様子が明らかにおかしかった。
いつも充電満タンなぐらい元気なのに、今日は少し落ち込んでいるように見えた。
「姉ちゃん、どうかした?」
僕は自分の部屋に行く前にリビングに赴き、姉の様子を心配するように声をかける。親がほぼ家にいない現在、なんだかんだ一番僕が孝行しないといけないのは姉であり、自然と心配になってしまう。
「そ、それがね……さっき夕方スマホの件で学校にしたんだけど……」
姉は言いづらそうにしていたが、深呼吸をして何とか気持ちを落ち着かせているようだ。
「一旦、部屋に荷物置いてきなよ、その後に話しようか」
「あ、うん。わかった」
誰が見ても作りものであることは明らかな人形のような笑顔を浮かべ、姉は時間稼ぎをするかのように僕を自室へ行くように促した。僕の心がそれに対して何も感じなかったかといえばウソになるが、特に反抗する理由もない僕は一旦部屋に戻り、バッグを置き、いつもの普段着に着替える。
……ピンポーン
あたかも僕がリビングにいないところを狙い撃ちしてきたかのように、ドアベルの音が鳴る。もちろん考えすぎなのだろうが、姉が挙動不審さだったり、サルに憧れの神崎のネガティブキャンペーンを受けたり、今日一日がいつもの日常の中でツキがない部類であることには違いなかったので、このドアベルもどこか無礼な悪魔がいたずらで鳴らしているのではないかと錯覚してしまう。
一日を終える制服である部屋着に着替えた僕は、自室を出て、リビングに向かおうとする。
だが、よれよれのスーツを着た男性二人が玄関で姉と話していることに気づき、ふとそちらに向かう。
「あなたが杉内竜馬くんですか?」
「はい、そうですが……」
見知らぬ二人の男性中でひときわ大柄な男性が僕の名を呼ぶ。もちろん十数年生きた中で彼に名乗ったことはなく、有名人でもない僕は他人の名前を一方通行で覚えることがあっても、決して覚えられる側ではないのだが、彼の身なりからなぜ彼が僕の名前を知っているのかは察しがついていた。
「私、署のものですが、少し中でお話をさせてもらってもよいですか? 保護者の方もいらっしゃるようですし、丁度いい」
「はい、どうぞ……」
彼はドラマでしか見たことがなかった黒革の警察手帳を僕たちの目の前で開き、彼が正真正銘の警察であることを僕たちに証明して見せた。姉は弱弱しいトーンで警察をリビングに通す。警察とはいえ、見知らぬ誰かを家の中に入れるというのは緊張するものだが、国家権力は初見の人の家に入り込むことになれているようで、堂々と家の中を歩いていく。
みそ汁の匂いが漂うリビングのテーブルに警察の二人を座らせると、僕たちも向かい側に座った。
「単刀直入に言いましょう……神崎渚さんはあなたのストーカー行為を受けていると相談を受けました。本日は最初の警告に来たのです」
雷に打たれたかのような衝撃が僕の全身を駆け巡る。
この警察は何を言っているのだろうか。
「僕が、ストーカー? そんな、何かの間違いでしょう。そんなこと、僕はしていません!」
神崎渚とは一度も話したことがないし、接点があるわけでもない。
大体、彼女はこの学校に引っ越してきて、まだ一か月ほどしか経っていないし、神崎渚が仮にストーカー被害を受けていると感じているのであれば、引っ越す前に関係があった人物から洗うべきだ。何かの間違いに違いない。
「一応証拠もそろっています」
そういうと、小柄な警察はバッグから見覚えのある携帯を大柄な警察に手渡す。
体格の大きさが、そのままどうやら上下関係と比例しているようだが、そんなことはどうでもよい。
なんで。
なんでそれがこんなところにあるのだ。
「それは、僕のスマホ……ですか!?」
「ええ、そうです。担任の先生と校長先生から既に許可はもらっています」
「そ、そんなの権利乱用だ! プライバシーの侵害じゃないか! 姉ちゃんもなんか言ってやってくれよ!」
僕に落ち度があったので担任にスマホを没収されることには納得もできるが、警察に横流ししても良いという許可を僕が出した覚えはない。それとも何なのか、国家権力であれば一般市民の持ち物を強奪しても良いとでもいうのだろうか。傲慢極まりない、酷いルールだ。
「一応あなたのお姉さまにも許可はもらっています」
「……ごめんね……竜馬……」
「ねえ……ちゃん?」
それは警察が僕のスマホを持っていたという事実よりも暴力的で、僕は後頭部を思い切りバットで殴られたかのような感覚だった。姉は常に自分の味方でいると思っていたし、常に僕を守るように動いてくれるのだと、ずっと思い込んでいた。残念ながら、それらは全て僕の思い込みであり、僕が見ている世界の中で動く妄想に過ぎなかった。
警察は恐らく担任に聞いたであろう、僕のスマホのパスワードを打ち込んで、ロックを解除する。
そして軽快に画面をタッチしていくと、僕のデータフォルダを開く。
「こちらの中には神崎さんの写真が多く入っていました。ほとんどが盗撮したようにピントがぼけていますが、いくつかは鮮明に撮られています。こちらを神崎さんにもこの写真に関しては撮られた覚えがないと。これは竜馬くん、君が撮ったもので間違いないかな?」
「はい。そうですが」
「うっ……!」
姉は、僕のスマホの中に保存されている数百数千とある神崎渚の写真を見つめながら、口を塞いで涙ぐむ。
一体僕のやったことの何が悪いというのだろうか。姉が悲しんでいる理由がこれっぽっちも理解できなかった。
「でも、何が悪いんでしょうか? きれいな風景があったら写真に収めたいと思うし、美しい花が道端に咲いていたらデータに収めたいと思うじゃないですか。僕は何も悪いことはしていません」
「いや、これはれっきとしたストーカー行為だよ。人の写真を無断で撮る、しかも付きまとうように一人の写真を撮り続けるのはストーカーがやることだ」
なんなんだ、こいつらは。写真部の連中といい、なんで僕の考え方が分からないんだ。
僕は単に美しいものをずっと残しておきたいだけなのに、なぜそれを咎められなければならないのか。
僕は間違っていない。僕が正しい。
この美しさを理解できない社会が悪いのだ。
それもこれも全部はあの教師のせいだ。
あいつが僕のスマホを没収なんてしなければ、変なストーカーなんて疑惑かけられなかったのに。僕がスマホをずっといじっていたのが気に食わなかったから、僕を学校に行きにくくしているのだ。全部あいつのせいだ、あいつのせいだ。
「神崎渚さんはあなたを避けるために毎日通学路を変えていたようだ。とはいっても電車の車両と時刻をずらすということしかできなかったようですが、あなたはいつも毎朝彼女が乗っている車両を探しては近くで立っていたとか。背景を見るといくつかの写真は電車内だね」
登校したばかりの神崎渚はまだ眠気も漂わせ、それはかすかに儚さを感じさせていた。
何よりもサラリーマンという量産型の人間の中にひときわ輝く光であり、彼女の何気ない一つのシーンが美しかった。
「授業中や下校している姿も映っている写真もあった。これら全部を見て、警察は動いたんだ」
「竜馬……あんた、最近帰りが遅いと思ったら……」
授業中に見える彼女の端正な横顔も、下校時の夕暮れ時に映る彼女のシルエットも。
それだけで完結した存在だった。芸術だった。
「僕はストーカーじゃない、ストーカーじゃない! 僕はただ、ただ、神崎さんを見ていたかっただけだ! 神崎さんを呼んでくれ、説明すればきっと分かってくれる!」
芸術を、美しいものを愛でることに、なぜこれほどまでの批判を受けなければならないのだ。
姉も僕を守ってくれなかったし、警察も僕を犯人扱いしてやまない。サルも僕を神崎渚から遠ざけようとしたし、もうこの社会全体に僕を理解してくれる人がいないように感じた。
せめて。
せめて神崎渚にこの誤解を解いてもらえれば、自分はまだ社会に認められる余地があると救いを求めていた。
「杉内くん、神崎さんは君に会いたくないと言っている。彼女はクラス替えをしたし、極力君との接触は避ける形で対応する予定だ。君もまだ若いし、君の悪評を立てる気も一切ない。彼女との接触は避けるんだ。次に彼女に変な真似をしたら警告だけではすまなくなってしまうからね」
神崎渚すら、僕を見捨てた。
もう同じ空間で、美しいものを眺めることすらできない。ちっぽけな社会分子の一員でしかない僕は、警察の脅しに頷くしかなかった。逆上したくても、もう意味がない。僕は決して間違ったことをしていないが、僕の言葉に耳を傾けない人は、一生傾けることはない。
「……お姉さん。少し調べ刺させてもらいましたが、彼はまだ療養中でしょう。まだ情緒が安定しないときは通学を控えさせてください。一番かわいそうなのは被害者ですから」
警察はぼそりと姉にそう呟く。
教師から聞いたのだろうか、どうやら僕の素性もいくらか調査されているらしい。
「……はい……大変ご迷惑をおかけしました……」
姉はテーブルに額がくっつくのではないかと思うほど深々と頭を下げる。
僕もそれに習って浅く頭を下げる。
仕事を終わらせた警察の二人は何事もなかったかのような顔で帰っていった。
今日は酷く、醜い非日常だった。
*****
警察が来た日から何が変わったかといえば、普段飲んでいる薬の量と通学の方法、そして神崎渚が別のクラスに移動になったぐらいだ。僕は普通に学校に行っているし、サルは僕が話しかければ話に乗ってくれる。
僕が写真部で軽いいじめにあっていた時には、学校は誰一人僕のために動いてくれなかったというのに、こんな時だけ対応が早い。彼女が僕よりも圧倒的に魅力的なのは人外生物が見ても明らかなのは認めるが、これほどまでに大切にされていないと思うと空しい。
姉が運転する車の後部座席に乗り、僕は窓から外を眺める。
電車で汗臭い中年男性たちと、おしくらまんじゅうをするよりも快適だし、何より座りながらスマホをいじれるのが素晴らしい。現在位置が分かるような子供向けのスマホに機種変させられてしまったが、特段不自由はしていない。ただ、人前に出すのが恥ずかしいので、携帯を持っていないと公言している。
駅前の交差点に差し掛かると、運悪く赤信号に引っかかる。
リクルートスーツを身にまとった、一人の女性が駆け足で駅から出ていくのが見えた。
少し急いでいる様子だったが、すれ違ったら誰もが振り返るほどの美貌の持ち主だった。
ああ、あの人は美しい。
神崎渚がかすれてしまうほどに、きれいだ。
あの人を眼中に収めたい。
永遠に僕の手元に置いておきたい。
これぐらいの時刻の電車に乗れば、あの人の近くに行けるだろうか。
あの人の色を、形を、データとして残せるだろうか。
欲求を抑えきれない自分に、自分自身ですら驚いている。
心臓の鼓動が益々激しくなっていく。
あの人は。
――明日どの車両に乗っているのだろうか。