35.花の香りとマグアルフの味
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音にも衝撃にも、なんとか怯まず佇んでいられた。ただ、堪えきれなかった驚愕の顔は、外套に隠れて周囲には見えないので許してほしい。
「虹色の、波紋」
私の周囲を半球状に、虹色の波紋が覆っていた。火球は眼前で阻まれ、やがて勢いをなくして消えてなくなる。
静まりかえった食堂で、誰かが席を立つ音がした。
白の外套を翻して、学生たちの間を歩き、こちらへと向かってくる。
「セファ」
私は思わず囁いて、奥からやってくるセファを見ていた。使い方もよくわかっていない護符から展開された結界を、どうすれば解除できるのかもわからない。このままセファと結界越しに会話するだなんてちょっと間抜け過ぎるのではないかしらと途方に暮れていた。そんな私の内心など知りもせず、ゆったりとした動作でセファがやってくる。
近くまで来て、あっ、と思う。私がろくに護符の使い方もわかっていないのを、知っている顔をしている。セファが意地悪気に笑っていて、私は思わず顔を顰めた。印象がコロコロと変わるけれど、やはり、セファの素の性格はちょっと意地悪である気がする。
じっと見つめていると、少し違和感があった。いつもなら、すぐに意地悪な顔を解いてくつくつと笑うセファだけれど、今日はその冷たい表情のままだ。まだ怒っているのかしらと思ったけれど、すぐに思い直す。これが、魔術学院で講師を務める魔術師セファの顔なのだろう。
手が差し伸べられたのをみて、反射的に手を伸ばした。虹色の結界に内側から触れた途端、パリン、と薄硝子が割れるような音が響く。セファの大きな手に手を握り込まれ、反対の手が肩に添えられた。
薄茶色の瞳が、じっと見下ろしてくる。
「怪我は」
「ないわ」
「だろうね」
冷笑だった。怒っているのかしら。でもそれはきっと、私ではなく遊び半分の襲撃者へだ。あの火球は、この程度、セファの弟子なら防げて当然という洗礼なのだった。
「食事にするかい?」
なんてことない風な提案に、襲撃者への制裁は行わないのだとわかる。ちらりとどこかを見遣っていたから、きっとセファはどこの誰の仕業かわかっているのだろう。宮廷魔術師であり、学院側が望んで招いた特別講師のその視線がどれ程恐ろしいものか察した私は、ただ頷くのみにとどめた。
「えぇ、フェルバートのところではお茶しか口にしていないの。話し合いどころではなくて」
訝しむ気配に、後で話すわ、と言い添える。ともかく今は、どよめきともざわめきとも取れる人々の衆目から逃れて、はやく馴染みの人たちのそばで腰を落ち着けたかった。
セファがきた道順を、今度は二人で歩く。ジャンジャックは気付けばさっさとミシェルの隣に座っていた。心配そうなリリカやリコリスの視線に応えて真っ直ぐ向かっていると、方々から囁き声がきこえてくる。
「見た? 虹の波紋よ」
「今の最上の護符結界だろ」
「最高値の魔力特性には色があるってきいたことない?」
「黒の魔法使いは薄闇色だって。人によって千差万別だけど」
「なんて綺麗な」
「その最上の護符結界をもたせてる弟子ってつまり」
「つまり……。ええと」
「愛弟子ってこと?」
「過保護じゃない? 研究生って俺らより年上でしょ?」
あちらこちらで聞こえる声に、セファへの賞賛が漏れ聞こえてどきどきする。やっぱり、セファはすごいのね、と何故だか私が嬉しかった。
隣を歩くセファを見上げると、なんだかしかめ面をしている。気に食わない、と顔に書いてあった。
「どうかしたの? ……セファ先生」
弟子が師を呼び捨てるのは変かと思って呼びかけに付け足すと、握られたままだった手に力が入った。瞬いてその手に視線を向けていると、ゆっくりと弛緩していく。あぁもうまったく君は、となにやら愚痴めいた小声が聞こえたけれど、見上げた時にはすまし顔だったので気のせいかもしれなかった。
「それじゃ、この場の皆に挨拶でもしてみるかい」
こちらを見ないまま、セファが意地悪げな笑みでつぶやいた。あっさりと繋いでいた手を解かれて、数歩前に出るように背中を押される。セファの声は大きくはなかったけれど、近くに座っていた人から人へ、弟子が何かするらしい、と細波のように食堂全体へと伝わっていってしまった。
挨拶って、一体何を。
強張って固まった私は、必死に考えを巡らした。私にできること。セファの弟子であるロゼとしてすべきこと、できること、私に。
空回転して空中分解しそうな思考を必死でつなぎとめながら、両手をぎゅっと組んで目を瞑った。目も手もパッと開くと同時に、祈る。こうなりますように、と。強固な心象とともに、今の私ならできるはずだと信じて。
……魔力、不十分。術式、未成立。魔力特性、特級。心象、強固。
術式具現、成立。
白い光が明滅する、優しい風がふわりと渦巻いて、食堂にいる全ての人間の頭上に、大輪の花を咲かせ、降らした。
今度は歓声とも、どよめきとも取れる声が湧く。
その様子を見回して、そっと後ろを振り返って見上げた。
「不出来な一つ覚えだと、笑う?」
「いや。上出来すぎるくらいだよ。……ロゼ」
褒められた、と思った途端、続いた愛称の呼び捨てに、何故だか全ての音が背後へと遠のいた。心臓が爆発的に鼓動を強める、気がつけば顔が熱い。呼ばれただけよ、と心に繰り返すのに、一向におさまる気配がなかった。
ちょっと眼鏡をずらして私を見下ろしたセファは、何やら満足そうに笑ってさらに私の背中を押して促していく。
成り行きを見守っていた友人たちがおいでおいでと手招きしていた。
メアリに手を掴まれてそのまま隣に座ると、すぐ隣に当たり前のようにセファが来る。あぁもうこの人ったら私の気も知らないで! と真っ赤になった顔を見られずに済んで良かったと慰めていると、メアリが何故だか楽しそうに笑った。
「ロゼ、とってもきらきら。眩しいー」
またそれなの? と苦笑する私の隣で、セファが小さく咳払いをする。私越しにメアリがセファを見上げて、一層楽しそうに忍び笑った。
「先生も同じものが見えてるのに、見えてないふり、してるわよ。ずるい。ね、ロゼ」
「……セファ?」
「ずるいってなんだい。メアリ。誤解を招く言い方はやめてくれるか」
「え、なあに。きらきら眩しいって、なにか見えたらまずい物でも見えるの」
不安になって思わずセファへと身を乗り出す。落ち着いて、とセファが私を嗜めるけれど、私はじっ、とセファを見ていた。
やがてその視線に根負けしたように、セファが顔を逸らす。
「あー。その、ロゼが、顔を隠してても嬉しそうに見えるって、それだけ」
「……それだけ?」
「それだけだよ」
セファのなんだか言い訳じみた雰囲気に、メアリが笑っている。本当にそれだけだろうか。むー、とセファを見つめていると、本当に本当、と念を押された。仕方がないわね、と姿勢を戻して、既に用意されていた食事を開始する。
「それなら、問題ないわ。私、今とても幸せだから、本当のことだもの」
セファが小さく咳き込むのを、不思議に思う。ゆっくりと向かい側の席に座るリリカやミシェル、ジャンジャック、隣のメアリと、その隣のリコリスを見て、笑みが込み上げた。
「変よね。私じゃない私になって、それで、嬉しい気持ちになるなんて」
一時的なこととはいえ、柵から全部解放されて、なんだか心が軽かった。長年課せられてきた役割が、負担だったのだろうか。そんなはずはないと思うのに、今、ただのローズとしてここに座っていることがこんなにも嬉しい。
メアリの手が伸びてきて、両の頬に直接手が当てられる。向かい合ってこつん、とおでこが合わさった。視界の端で、ミシェルが殊更焦った顔をするのが見える。
ミシェルに静止されそうな様子にかまわず、そのままでメアリが笑って言った。
「眩しいってことは、気持ちに素直な在り方で、とっても幸せってことよ、ロゼ」
とてもとても、良いことなのよ。
信じて欲しい、祈りのようだった。ありがとう、と笑って受け入れる。ちょっと顔が近くて恥ずかしいわ、と笑えば、ほんとにね、とミシェルが焦った顔を安堵の表情に変えていた。
「びっくりした、口付けするかと思った。ちかい、近いよメアリ。村の子ども相手にするんじゃないんだよ」
くちづけ。
瞬いて、首を傾げながら、ミシェルの言葉を考える。
「…………くちづけ、って、伴侶でも家族でもないのに。友だちの女の子とするわけないでしょう?」
「あぁあー……深窓のご令嬢然とした模範解答……」
「やだ、ロゼったら箱入り? そんな気はしてましたけど」
「リコも人のこと言えないんじゃないの。お嬢様でしょ」
「あぁいや、リリカ様、リコ様もたいがい規格外のお育ちで……いや、自由なのはフォルア伯爵夫人ですけど方針が変っていうか」
「ジャンジャック? 何が言いたいんですの?」
下級貴族のジャンジャックだけが、フォルア伯爵家の特異性を知っているようだった。それはそうと、とミシェルが複雑そうな顔で私を見てくる。
「さっきの言い方だと、家族だったら平気って言っているみたいですよ、ロゼ様」
「……あぁ! 義理の兄弟に抱きつかれても口づけされても家族の挨拶だとか言われて誤魔化されちゃうやつ……! よくある……!」
「よくあるか?!」
「鉄板だよ!」
力いっぱい声を張るジャンジャックに、リコリスの呆れた視線は冷たい。
「多分、また何かあっちの世界の創作物の話をしていますわ。ジャンジャック、突っ込んだら負けですわよ」
賑やかな様子を黙って見ていたけれど、全員の視線が集まった気がして、頬に手を添えて首を傾けた。
「……義理でも、そのうち家族になる相手なら抱きつかれるくらいは別に良いのではないの? もちろん、くちづけはさすがにしないけど」
「うわぁ」
「だめだよロゼ! 男は狼! 狼なの!!」
「あっ、まって思い当たる相手がいるんだ。うわ、まじその男……」
「相手が! どこのだれかわからないのに滅多なこと言わない方がっ!」
ローズのことを他の誰よりも知っているジャンジャックが、誰だかわかった顔で青ざめている。賑やかなみんなの様子に混ざれないのが寂しいけれど、セファを振り返るとうなだれる銀髪に瞬いた。額を抑えて今にも机に突っ伏しそうなセファに、どうかしたのと袖を掴む。
「……きみは、ほんっ、、、とうに」
声までぐったりしていた。ええと、と何か言わなくてはと考える。話の流れから、適当な言葉は何があるだろうか。
「セファが……セファ先生が、よく無いことだというのなら、今後改めるわ。ええと、いつもいきなりやってくる方だから、咄嗟に逃げられるか……いえ、逃げたら不敬に当たるのかしら。あの、ちょっと難しくて」
「……その、セファ先生って呼び方」
もごもごと、なんだか言い訳じみているわねこれと話していると、セファが遮るようにして全く別の話をし始めた。
「君も呼びかけが不慣れだし、呼びにくいなら、今まで通りでもいいよ」
「……今まで通り」
「君のことはロゼと呼ぶけれど、僕の呼び名はどう呼ぼうとなんの問題もないから」
ローズ様、と今まで呼んでいたけれど、そういうわけにもいかなくなったので仕方がない。セファはそう言っているのだった。セファ先生、と呼ぶのは確かに慣れなくて、つい気恥ずかしくてまごついてしまうけれど、素直にありがとう、そうするわ、と言えないということは。
『呼びにくいなら、今まで通りでもいいよ』
セファはそう言った。選んでいいということだ。私が、のぞむままを。
「私、学院にいる間はセファのこと、セファ先生、って呼んでいたいわ」
正直な気持ちを口にすれば、セファの目が優しくこちらを見ていた。わかったよ、と肩をすくめて離れた位置に手を伸ばして、マグアルフの籠を取ってくれる。
ご褒美のようだわ。もう、セファは怒ってないのかしら。
こういうところだ。
好物のマグアルフを摘んで口に運びながら、思う。そっと咀嚼して、甘酸っぱい果実を味わった。
こういう、小さな、些細なことがどんどん降り積もっていく。
なんだか胸がいっぱいで、メアリの方を向いて小さくため息を付いた。メアリとリコリス二人ともが、こっちを見て笑っていた。そんなに大きな声でのやりとりではなかったけれど、何せ隣り合って、身を寄せ合って座っているのだ。全て筒抜けなのだろう。うう、となんだか気恥ずかしくなる。
「み、みんなと同じように呼びたいのよ。いけない!?」
何故だか喧嘩腰になってしまった。いけなくないですわー、と間違いなく面白がっているリコリスが小声で返してくる。もう! 楽しそうな妹が可愛いわよ!