9.そんな風に怒る顔を知った
結局、一通り荷物を確認すると私の着替え一式が入っていた。食事のことしか考えていなかったセファは、よくあれだけの短時間で揃えたな、と感心している。
ん。と渡され、へ? と受け取る。着替え一式を抱えて、示された指の先をつられて見た。森の、木々が茂ってる方向だ。何がいるのか、と首を傾げて見ていると、セファが呆れたため息をついた。
「食事が終わったなら、着替えて出発しよう。悪いが、衣裳の補正に使うようなかさばるものは捨てていくよ。仕込んである骨もできる限り取り除くから、衣裳を脱いだらこっちに投げて。旅装は簡単な構造だから、一人で着れるでしょ?」
「む、無理よ……」
「日が暮れる前に森を抜けたい。この森の抜けた先にすぐ小さな町があるはずだから、今夜はそこで一休みしよう。時間次第ではお湯の用意も頼めるかもしれないから、頑張って……」
今なんて、と視線が向けられる。
「私を、なんだと思っているの……」
途方に暮れて、思わず詰ってしまった。もともと、辛抱の足りない、そもそもできない性格だ。積もり積もった感情はすぐに爆発する。精神的な疲れも合わさって、正常な判断力は皆無に等しかった。
「朝起きてから夜寝るまでの生活ほぼ全てを、人の手を借りて生活しているのよ」
口にして見て、なんだか胸を張っていうことではないなと思った。
「お茶会のため、ご令嬢方の嘲笑の的にならぬよう、かといって一度は追放された身で目立ちすぎぬよう、異界渡の巫女とトトリが事前に厳選し尽くしたこの衣裳が、そんな風に簡単に脱ぎ着できるものだと思って!?」
荒地で風に煽られた髪は、本来なら結い上げられていた元の位置にはなく、ぐちゃぐちゃになって肩に垂れている。その髪をどけて、セファへと背中を晒した。
「このずらりと並んだ釦が見えている? これが、上の衣裳と下の衣裳、他にも下着の編み上げに至るまで、私の理解の外ですべてされるの。簡単に言わないで」
服など、そこに立って時々その場で足踏みすれば着せられるものだ。伯爵家の長女で王太子の婚約者だった私が、どうして簡単にできると思うのか。
いや、だから、こんな風にできないことを胸を張っていうことではない。状況が状況だった。こんな、セファとたった二人しかいない森の中で、駄々をこねている場合ではないことくらいわかるのに。
背中を晒して肩越しに振り返ったまま、ぽかんと見返してくるセファの視線に、徐々に耐えきれなくなる。ではどうするのか、次に考えるべきはそこだったけれど、浮かんだすべての手段を貴族令嬢としての私がなかったこととして却下していく。
「……僕が脱がせばいいってこと?」
セファは、私が心の中で却下していった方法を恥ずかしげもなく口にした。かっとなって何か投げつけそうになったけれど、あいにく手元に何もない。日傘はセファが荷物と共にまとめているし、流石に懐中時計はためらわれた。なくなると困るし。私が目を向いて逆上しているのが見てすぐわかったのか、セファは気まずげにそっぽを向いた。えぇ……いや……。でも……。と目を閉じてうーと唸っている。
「その格好で、森を抜けるのは多分無理だ」
私もそう思う。いっときの恥を忍んでセファの手を借りるのか。どこまで。私は私がどこまで脱げば自分一人で着替えが可能なのかさえ知らないというのに。
これでも貴族の娘だ。先ほどは緊急時であったため仕方がなかったけれど婚約者がいる身で今朝知り合ったばかりの男性とあんな風に密着をするだなんてその上必要とはいえ着替えるために背中を晒して衣裳のボタンを外してもらいあまつさえ下着の編み上げを緩めてもらうということまで確実に必要だとわかることを頼むなど将来的にどこの貴婦人も紳士もそれなりに愛の火遊びを嗜むとはいえ私自身はまだ未婚の娘でなんであれ将来の相手に対するこの上ない裏切りに匹敵する行いであるからしてーーー!!!!
「ーー。わかったわ」
沸騰していた頭が、スーッと冷えていった。だから、私はバカなのだ。誰からも何度言われても一向に理解することのないそれを、私は改めて自分自身に言いつける。
婚約者? 将来の相手?
今更、そんな貞淑さを差し出すに値する人間が現れると思っているのが、呆れるほど無様だった。
愛に恋に、何か、光を見出そうとしている私。きっとこれから、異界渡の巫女がしでかした功績を元に政略結婚を言いつけられるに決まっている。勘当されたという実家からそんな要求はないだろうけれど、貴族ですもの。国王陛下を通されご下命を賜れれば逃げ場はない。
社交界を追放されたわけではないのだ。むしろ、返り咲いてしまった。魔力だって微弱ながら持っている。この血はこの国を統べるために、余すことなく使われるのだろう。
「……手伝いなさい」
不遜に言い放つ。だって、貴族の令嬢だもの。王太子の婚約者だったのですもの。得体の知れない辺境出身の宮廷魔術師ごときに肌を晒すというのだから、取り繕うものが必要だった。心の盾が。
本来宮廷魔術師といえば、国王陛下直属の研究機関。その身分は、下手な貴族よりも丁重に扱われる。宮廷魔術師の後ろ盾は誰もが喉から手が出るほど欲していて、一部の貴族の間では、宮廷魔術師の誰がどういった事に興味を持つのか、水面下で情報の共有と足の引っ張り合いの結果共倒れなんて話も珍しくないほどだ。だけれども。
背後からため息が聞こえて、近づく足音に体を縮こまらせる。怖くない。怖くないわ。年下の男の子だもの。心底欲しているのは異界渡の巫女で、失ったばかりの人を想って、虚勢を張ってくだらない嘘で私を脅すような、気の毒な男の子。
その彼の手が、背中に優しく触れた。
「わかった、誓うよ。くだらないことはしない。お互い少しの間耐えて、これ以降この話はしない。誰にも言わない。こんな一幕はなかった事にして、記憶からも消しお互いに事実そのものを葬り去る。いい?」
頷いたけれど、随分な言い草だった。人の気も知らないで、自分も不本意なのだと躊躇なく言ってくるこの人は、なんて無神経なのだろう。
「どうぞ」
ため息とともに、肩の力を抜いた。ひどく惨めな気分で、どうしてこんなことに、と訴えるあてもなくうなだれる。着替えが終わった時、もう一度立って歩く気力が残っているのかしら、と一番上の釦が外される音を聞きながら、想った。
「いたいたいいたいいたい! だからどうしてそこを引っ張るの、これ以上なくらいしまってるのにそこからさらにそんな風に閉められたら息が止まってしまうわよ!」
「僕にだってこんな構造、見ただけでわかるわけないだろう! お嬢様たちは一体何を考えてるんだ道理で体調崩して倒れる娘が毎年毎年いるって伝え聞くわけだよ。なんなんだみんな被虐趣味でもあるのか!」
「殿方が細い女性が愛らしいだなどと吹聴するから、こんな事になっているのではないの! 特に下位貴族の娘たちは良縁を求めて何にでも縋って磨いて整えて必死なのよ馬鹿馬鹿しい!」
「僕がいつそんな事を言った、そもそも上位貴族がそういう馬鹿を諌めないでどうするそれでも王太子の婚約者だったのかそれともあの馬鹿王子もそういう趣味だったのか!」
「あなたこそ馬鹿言わないで、殿下はそんな低俗な事私に告げたこともなければ他所で吹聴したこともないわ。理想を体現するために日々努力の人だったのだから。あぁ、もうだから痛いって言ってるでしょう!?」
……結果を言うと、最悪だった。
地面に座りこんで、倒木に突っ伏して、ぜえはあと肩で息をする。なんでこんな目に、と数分前にも思ったことを繰り返した。
背中ではセファが、いや背中ではなく、私の腰のあたりでちまちまと手を動かしている。言い合っているうちに、よりにもよって紐が絡まってしまったのだ。未だ上下どちらの衣裳も脱げていない状況に、あぁ本当に日が暮れそうね、と遠い目になる。幸いにも現実にはまだ日没は遠いし、そもそも今は夏だ。日は長い。
背中の釦を外すと、現れたらしい編み上げは緩められ、スカートをくくりつけている紐はよりもよって上の衣装の紐と絡まってしまってどうにもならない。
もう諦めればいいのに。諦めて……
「刃物か何かで切ってしまえばいいではないの」
ふと思いつきを口走ると、セファの手が止まった。「なんで……」地を這うような声が背後から聞こえてギクリとする。なんでもっと早く言わない、と言うようなことを言いたげね、と思ってそっと肩越しに振り返ると、目があった。なぜだかセファの方が怯んで、そのまま口をつぐんでしまう。無言で荷物から小さな刃物を取り出して、どうにもならない箇所とこれからどうにかしなければいけない箇所を切り離していった。
前に向き直り大人しくしていると、すぐに身にまとう締め付けが軽くなり、ほっと息をする。これをどうにかこうにか脱ぐのはもう容易かったけれど、脱ぐとどうなってしまうか流石に察せられて固まった。それこそ、寝所で伴侶にしか晒さない姿になってしまう。いや今でも十分ぎりぎりだけれど。せめてここから先はセファにあちらを向いてもらって……。
「わぷ」
頭から、薄汚れた外套を被せられた。
「手伝いが必要なら声をかけて。とりあえずその衣裳を早く脱いで、最低限身に着けてくれる」
あちらを向いてる。と付け足されて、気配が離れていく。疑ったわけではないけれど、振り返ると外套を脱いだ宮廷魔術師の制服を着たセファの後ろ姿があった。やはり、ちょっとひねくれているけれど素直で優しい少年なのだ。そういえば異界渡の巫女からの手紙にも書いてあった。優しいいい子です。と。手を動かしながら思い出して、ふふふ、と笑ってしまう。あんなに恋い焦がれている相手から、子供扱いのような言われようが少し気の毒だった。
城下の娘が着るような旅装は、見ただけで着やすくて軽くて動きやすかった。一人でも着れたわ! とセファの背中に声をかければ、セファは数秒私の上から下まで眺めて、ため息をついた。
「文句言わないでね」
「ちょっと」
言うなり、向かい合って、はみ出た余分な布を押し込まれ、緩んだビスチェの紐が絞られた。あとは、とそのまま耳元に手が触れる。
「髪も、できることならどうにかしたいんだけど」
「……髪くらいなんでもいいわ。たしかにちょっと今のままじゃあんまりだし」
ぐしゃぐしゃになった髪を、セファの手が探っていく。手櫛ですくように、地肌を探るように触れていた。さっきはあんなにあんまりな手際だったのに、髪に触れるその手は優しくて、痛くない。
「……」
正面よりも少し高い位置にあるセファを、こっそりと見上げる。無表情が、すこし険しくなった。何かしら、と思っていると、セファの手がそっと引き抜かれる。
私の髪から出てきたものに、あぁ、と頷いた。
「留め具が出てきたんだけど」
「そうね、たくさんついているでしょうね」
それはもう、ちょっとでも型崩れしようものなら嘲笑の的だ。特に私の髪は波打っていて癖があるし、細い上に、整髪料は肌荒れするので最低限肌に触れない毛先部分にしか使用できない。髪の毛一筋でも落ちないように、複数の留め具が絡まっていることだろう。
頭上でセファの、ため息が聞こえた。
「日が暮れそうだな」
実際は暮れないから安心するといい。黙ってじっとしていると、黙々と作業を開始したので少し気の毒になってしまった。
「この際、切ってしまえばいいのではない?」
「馬鹿を言わないでくれる」
紐の時と同じように気軽に提案したのに、すげなく却下されてしまった。気分転換にもなるし、生まれ変わった気持ちになれて名案ではと思ったのに。残念だった。
ご令嬢って大変だなって書いてて思いました。