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【五章開始】あの人がいなくなった世界で  作者: 真城 朱音
三章.天機に触れた、宮廷魔術師
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幕間:とある教師の悲嘆



「婚約を破棄しよう。異界の娘リリカへの度重なる言いがかり、立場上、看過できぬ。そなたは、私の妃に相応しくはない」



 曲の切れ目、大広間の隅々まで響いた王太子の声に、とうとう、と手にした扇を握りしめる。


 相対する少女は、わたくしの教え子だった。

 物覚えがよく、努力家で、直向きで、言われたことに素直に応じ、疑問を投げかけ、その、才能を目の当たりにするたびに将来を期待した。いつもいつも、期待した直後にそんなものありはしないのだと苦笑する。


 王太子の目の前にたたずむ彼女は、ただ、「そうですか」と答えた。笑って、貴族令嬢の完璧な礼をして、ーーー?


「はじまりましたな」


 初老男性の声に、はたと振り返る。歴史に詳しい彼も彼女の教師の一人だ。

 えぇ、と頷いて、少女に視線を戻す。美しい礼のあとで、彼女は身を翻し退室して行った。深窓の王太子妃候補、青薔薇の姫君、数々の二つ名に相応しい引き際だった。


「何か気になることでも?」

「いえ、先ほどのあの子の礼が」


 衣裳の裾を軽く持ち上げ、膝を曲げて深々と頭を下げる、貴族令嬢としての振る舞い。わたくし自身が厳しく教えた、完璧な淑女としての身のこなし。


「一瞬だけ、芯がぶれたのです」

「ふむ」


 王太子に突き放された直後で、衝撃のためだろうか。長年指導してきたわたくしだからこそわかる程度の微細な違和感。あの、完璧を体現する彼女にしては本当に本当に珍しいことだった。


「彼女にも予想外の出来事だったと言うことですな」


 痛ましげに、歴史教師はため息をつく。やってられませんなぁ、とおどけるようにして笑った。そうでもしなければ声高に王家批判を口にしてしまいそうで。その気持ちは十分すぎるほど理解できたので、わたくし自身も素直に同意する。


「これで、ようやくお役御免ですわね」

「お互いに、長かったですな」

「短慮せず、反乱を起こさず、ただ、あの子のそばに居続けることを選んだわたくしたちですものねぇ」


 給仕を呼び止めて、飲み物を受け取る。歴史教師とガラス細工の杯を掲げて、一息に飲んだ。杯に口をつけたままの彼が、目を丸くしている。

 長かったのだ。本当に。本当に、本当に長かった。先のない闇をつきすすむだけの時間だった。


 ローズ・フォルアリスの教育者として、言い遣ったのは一つだけ。


「何も知らない完璧な淑女を」


 確かに魔術の才能があるとわかるのに、魔術の一切から引き離すと聞いたときは耳を疑った。教師たちは一様に制約をかけられ、杖を預け、魔術の行使なしで一人の少女を教育することを求められた。疑問は全て黙殺され、従えないものは姿を消した。


「もう何を教えていいかわからない、と泣き出したのは誰でしたっけ」

「延々と、まだ足りないところがあるのだと本人に思わせるのは辛かったですなぁ」


 彼も、わたくしも、本当はあの子を褒めてやりたかった。ここまでできる子はいない。あなたは努力家だと、その実力を認めて、ひたむきな取り組みに報いてあげたかった。

 教師の中には、あまりにも素直な彼女の行動を指図し、過度にけなし、自身の優越感を満たしたろくでなしがいたことは事実だ。けれど、心ある教師も中にはいたのだ。耐えきれず、方針に逆らって遠方に飛ばされてしまったけれど。


 空になった杯を持つ手が震えた。


「いつでしたかの、延々と嫌がらせのような指摘を続ける教師の言い分に眉をひそめて、とうとう言い負かしたことがあった」

「そういう言い回しの策略に気づくための授業だったのね、と本人が言い出して、そういうことにしたようですけどねぇ。あれ、とりなしたのはどちらでしょうか」


 十一年。

 最初から最後まで、彼女の教育者であったのは、わたくしと彼だけだった。

 もう十分すぎるほど身につけて、最高峰の淑女を生み出した。けして、教師陣の手柄ではない。彼女自身が、そのように生まれついたのだ。為政者として民の上に立つために生まれついた才能の持ち主だった。

 それが、どうして若い身空で異民族への供物にされるのか。その努力の何一つ認められないまま。


「我が青の王国の、運命に決められた少女を異民族へ差し出す慣習。随分古くからあると聞きましたが、歴史的に見るといつ頃からとなるのです?」

「さて。魔女カフィネの大災以降にはすでに見られていますが、それ以前の記録がなんともねぇ」


 大罪人、魔女カフィネ。七人の魔術師のうち五人を殺し、世界を混乱に突き落とした張本人。事件の前後の混乱から、貴重な歴史に断絶が見られ、歴史学者たちは長年その補修に見舞われている。

 我が青の王国で行われている奇妙な因習も、続いているだけでその起源や意味は失われたままだ。


「そういえば。今は蔑称としてただ異民族、と呼んでおりますが、古くは精霊の民、と呼ばれていたようです。本人たちは今でもそう自称するとかで。彼らとの不仲も、魔女カフィネの大災以降にはすでに見られておりますなぁ」


 当時に何かあったのか、それともそれ以前の古き儀式にまつわることか。そのあたりが解明されない限り、見直されることはないだろう。どうやら、上層部にとっては必要なことらしいので。


「……王太子は、ぎりぎりまで異議を唱えていたという話、本当ですかね」

「国王陛下に? おやまぁそれは」


 命知らずな、と歴史教師は苦笑し、大広間に残る王太子へと視線を向ける。異世界からの来訪者である黒髪の少女に向かって、にこやかに笑っているけれどその心中はいかばかりか。噂が本当であればこの茶番でさえ、彼が婚約者を諦めたことを示すための場となる。


「……忘れましょう」


 彼はそう言って、空の杯を取り上げると新たな飲み物のをわたくしの手に持たせる。


「役目は終わった。私も、あなたも、役割を全うした。それを教え込んだ彼女の教師として、彼女へ恥じぬ働きをしたではありませんか」


 きっとわたくしも、この歴史教師も、死したのち天上の花園には行けないだろう。どんなに教え子を惜しんだところで、一瞬後にはこんな風に割り切って次へ行く。所詮、貴族なのだ。そのように生きて行く。そうでなければ十一年もやっていられなかった。


「王と、民と、世界のために」

「世界のために」


 再び杯を掲げて、今度は二人同時に飲み干した。






 その数ヶ月後。

 姿を見かけなくなった歴史教師が、教師を辞め城を去ったことを知った。


「そう。教えてくれてありがとうね」


 知らせてくれた同僚に笑いかけて、荷造りを再開する。

 わたくし自身も役目を辞して、城を去る数日前のことだった。

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