10.宝物と感情
多大な疲労感に、自分の寝台に突っ伏する。
トトリとエマのどよめきが聞こえた気がするけれど知ったことではなかった。
今日は、いろいろなことがありすぎた。一日の終わりの晩餐は侯爵夫人が同席していてやっぱり気が抜けないけれど、勝手知ったる貴族の会話と振る舞いだったので、まだ易しい。私の感覚が変なのではなく今まで何が身近だったかという話だ。
ここ数日の忙しさのお詫びを、などと言い出す侯爵夫人に、そんなことを言われるほどの立場ではないのですが、とやんわりと断りを入れつつ、丁重に受け取った。
「私が杖持ちだからといって、王城への出仕を進めてくる人たちが後をたたなくて。最近は特に忙しくなっているから、信頼のおける人間を確保するのに必死なのね」
今いる人員をうまく使わずどうするのかしらね。と、侯爵夫人はため息を吐いていた。
「王国結界のために結界系の宮廷魔術師たちが結界の間に詰めているので、人手が少し足りていないみたい」
夫人やフェルバートの口ぶりから、やはり異常事態は進んでいるのだろう。世界の魔力減少は、今どれほどの影響を及ぼしているのだろうか。
いまだ暮らす上で困っていないのは、王都を覆う都市結界のおかげだろう。都市結界の内部の魔力量も確保できないほどになったら、いよいよ都市のあちこちで使われている生活魔術具が停止し始め、混乱が起きるかもしれない。術具師たちも今、万が一のその時に備えて対策に走り回っているのだろうか。
晩餐の時間を振り返りながら、突っ伏した寝台に転がる。エマの叱責じみたよびかけが聞こえた。こんな行儀の悪い動作は初めてだけれど、何もかも構わずそのまま寝台のうえで丸くなった。ジャンジャックと一緒に夢中で魔石を調合したせいで、今の私は初めての魔力不足だ。学院外套を着ると少し楽なのだけれど、侯爵家の人間には見せない方がいいと言われたので仕舞い込んだままだった。
セファが学院外套に魔力を満たしたから、着用することによって大気中の魔力を取り込むのと同じことになるらしい。間接的に、セファの魔力を分け与えてもらう形になると思う。
魔力のやり取りなんて、家族以外ですることもあるのね、と不思議に思った。セファは魔力量が豊富で有り余っているから、人に魔力を与えるなんて普通のことなのかもしれない。貴族同士だったら変な意味に取られかねないのに、やっぱりセファって変わっている。
あのあと、工房に戻ってから鳥の飛ばし方を教えて欲しい、と早速頼んだけれど、セファからもエマからも、今日はダメだと言われてしまった。ざんねん。
明日も午前は侯爵夫人とお話をして、午後はセファの工房に行って、鳥はその時教わろうと思う。
はぁ、とため息が出た。
「……トトリ、エマ」
二人の名前を呼ぶと、すぐに返事をしてくれる。
「フェルバートは、なんであんなことを言ったのかしら。侯爵家から、出て行って欲しいだなんて」
誰もそうは言ってませんよ、と二人が苦笑する。けど、それ以上はなんともいえない様子で、部屋には沈黙が降りた。
「今のままじゃ、ダメなのかしら」
侯爵家での穏やかな規則正しい生活が気に入っていた。侯爵夫人とお茶をして、花嫁修行をして、ときどき商人を呼んで買い物をして。セファの工房に通う、なんて事のない毎日。憧れた、気ままな日々。ぐるぐる一巡り考えて、ため息をつく。憂鬱だ。
寝転がった寝台から起き上がって、のそのそと長椅子に移動した。さて。と、再びため息をついて、エマを見上げる。
「いつでも出ていけるように、荷造りをしなくてはね」
「……姫様?」
まぁ、持ち出すものなんて限られているけれど、と私物を思い浮かべる。トトリの不思議そうな呼びかけに振り返った。
「トトリ、飴細工も持っていっていいかしら。一応術式付与をしてもらった紙に包んでいるのだけれど」
「はい? 飴って、もしやあの時のですか? セファにもらったという??」
「だって、食べ方がわからないのよ」
「いえ、目で楽しむのはまあいいですけど、いえ、ええと、……まぁ、いいんじゃないですかね、術式付与されてるなら、そうそう溶けないでしょうし」
何かいろいろ反論されるかと思ったけれど、突然にスッとトトリが穏やかな笑みを浮かべて、うなずいた。エマが呆れ顔で小脇を突いているけれど、許してもらえたならなんでもいい。
「エマ? 飴色の透かし細工の髪飾りと、金の台座の髪飾りはすぐに持ち出せる場所に置いておいてね。ええと、私物と思っていいはずだから、それも持っていくわ」
「えっと、あの、ローズ様?」
エマに話しかけているのに、トトリが話しかけてくる。
金の髪飾りは、はじめての買い物の時目についたものを侯爵夫人に買ってもらった。最初のひとつだ。侯爵家の宝飾庫に納めてもらおうとしたら、あなたのものだから、手元に置いておきなさい、と言われた。なので、私物と思っていいはずだ。普段使いに、時折つけている。
何かもの言いたげなトトリが衣裳部屋から二つの髪飾りを持ち出してきて、エマが別の箱に入れていく。エマは丁寧な動作で金の髪飾りをしまって、次は飴色の髪飾りだ。一度触れて、そっと手を引く。
「……なんです? この髪飾り」
不信感たっぷりの声で、エマがいう。私とトトリは首を傾げた。
「この髪飾り、つけているところを一度も見たことがありませんけど。姫様、これも持っていくんですか?」
「持っていくわ」
エマが言い切る前に答えた。少し無作法だったわね、と反省していると、エマも沈黙して瞬く。物言いたげな目をトトリに向けていた。
トトリも苦笑している。しばらくエマはトトリを見て、なんだか妙な表情で私に向き直った。
「……セファ様からの贈り物なら、工房を訪ねる際に一度くらいつけてみては? 贈ったものを相手が身につけているとわかると、嬉しいものですよ。身に付けることで、感謝を示せます」
再び、まだ話しているのに、途中から首を横に振ってしまった。なんでセファから貰ったことを知っているのだろう。トトリが言ったのかしら。
ともあれ、大切だけれど視界に入れたくなかった。身に付けるなんてもってのほかだ。平静を保てなくなる。
だってこの飴色の髪飾りは、セファが私の部屋で眠ったという暴挙のお詫びなのだもの。そんな経緯を誰かが知るわけないけれど、あぁ、ほら、今だって、とっても不思議な目で二人が私を見ているわ。
「……落として無くしたら、大変でしょう」
言い訳半分、本音半分だった。何も持っていない、ほとんど唯一の自分の持ち物だ。無くしたら惜しいに決まっている。
惜しい、と、思うようになってしまった。
今まで手に入れたと思い込んで、そうでなかったものは諦めてきたというのに。
庭で摘んだ花は、押し花にしようとした本ごと次の日には消えていた。
侍女の好意で用意された香り袋は、気がつけば見かけなくなった。
登場人物に憧れたお気に入りの本は、母に遠ざけられ、妹が持って行ってしまった。
特別に、内緒だと、こっそりものをくれたり抱きしめてくれたり、本を読んでくれた侍女たちは、それぞれたった一度きり。どこに行ってしまったのだろう。
そうした幼い頃からの積み重ねで、私は知っているのだ。
欲しいそぶりを見せたものをは手に入らない。口にした望みは叶わない。
なら、本当に欲しいものは、誰にも知られてはいけない。
「すでに諦めた願いなら、いくらでも口にできるのにね」
「姫様?」
口の中でつぶやいたささやきは、誰かの耳に届いただろうか。何も言わなかったふりをして、私は二人に笑顔を向ける。
もう、あの頃とは違うはずだ。私の言葉、仕草を集めて、取り上げるような人はいないはず。
「私、これらが無くなったら悲しいわ。昔だったら眺めてそのまま見送るだけだったでしょうけれど。……もう、あの頃には戻れないわね」
また、あの生活をしろと言われればどうするだろう。きっとつらい。言われるがまま急き立てられるように勉強をして、試験を受けて、お茶の時間さえも取り上げられる。フェルバートやトトリ、エマと話す時間もなくなって。
魔術を教えてくれるセファにも、会えなくなったなら。
「あまりわがままは言えないわ。ただ暮らす部屋が変わるだけ、と思えばいいのよ。学院の寮で、花嫁修行の代わりにセファに魔術を教わる時間が増えるだけ。上位貴族との接し方についてジャンジャックに聞いてもいいし、魔術師を目指す女の子について、メアリに聞いてみたいこともたくさんあるもの。悪いことばかりじゃないわ」
「本当に、よろしいので?」
「フェルバートには、フェルバートのそばにいたい、と伝えたわ。それでも覆らないなら、従うしかないもの。居候の身で、家主に住処を変えて欲しいと言われたなら、従わないわけにいかないでしょう?」
飴細工と髪飾りをしまってもらえたら、あとは着るものだけれど、これは私が頭を悩ます仕事でないのでエマに全て任せる。何をどこに着け、当面の間必要な量なんて私に分かるわけがない。
魔術書はセファの工房に置いたままだし、学院外套と護符は移動する当日身につけたまま行けばよかった。
「持ち物が少ないと、身軽よね」
考えることが少なくて済む。言いながら、やっと寝衣に着替える気になったのでトトリを衝立の向こうに追いやった。エマが心得たように手伝ってくれる。
エマもトトリも無言だった。私も眠くなってきて、まぶたが重い。けれど、楽しかったことを話す口は止まらなかった。
「ねぇ、エマ。メアリってすごいのよ」
「今日会ったという、平民の少女ですか? 魔術師を目指せるほどの才があるという」
「そう。セファを、押し倒そうとしたのですって」
「……」
「はい?」
エマの手が止まる。声はトトリだ。びっくりよね、とくすくす笑った。
「……乱れていませんか、風紀とか秩序とかそういうものが……!!」
俯いたエマが、なんだか小声で叫んで震えている。工房に戻ってから、エマとトトリにはセファの研究室であったことをあまさず話したけれど、流石にこれはセファの前では言えなかった。
「セファに憧れていると言っていたわ。とっても好きなのだと。私のことも、綺麗といってくれたわ。とても気に入ってくれたみたい」
「セファが好きで、姫様のことも好き、と? へぇ…」
トトリの相槌に、こういうことってあまり言わない方がいいのかしら、とふと思った。エマは私の侍女でトトリは側仕えだから、私の言ったことを人に漏らすような存在ではないけれど。
着替えを終えて、緩く髪を編んでもらう。エマに促されるようにして、寝台に潜り込んだ。上掛けを広げてもらえるのがありがたい。
「双子の兄であるミシェルとも話をしたわ。あの二人、全く思いもよらないことを気軽に口にするから、一緒にいて面白いわよ。無礼なところもあるけれど、研究室の中だけの特別だと思えば気にならなくなったし」
ミシェルに言われたことを口にすれば、エマが怒るだろうことは予測がついた。なのでそれはなかったこととして、エマには今度メアリを紹介することを伝えた。
徐々に話よりも眠気が勝り、途切れ途切れになる。エマとトトリが手分けして明かりを落としていった。
「……姫様は、本当にいいんですか。魔術学院寮での生活なんて」
いまよりずっと、窮屈な生活になるかもしれませんよ、と、そう聞いたのはどちらだったろう。
窮屈な生活なんてこと、きっとないわよ、と口にできただろうか。窮屈な生活というのは、以前の生活のことを言うのだ。そう、私は、気づいてしまった。あの生活の、余剰な部分と自由のなさに。自由を謳歌するような人たちを目の当たりにして、気づいてしまった。
私の渦巻く感情に気づかず、エマかトトリのどちらかが繰り返し問う。
「フェルバート様に、お屋敷を出るのは嫌だと、言っていましたのに」
眠たい頭に、響く問いかけ。必死で思考を巡らした。返事をしなければ。と、思えば思うほど空回りする。
「嫌よ」
夢心地で囁いた。
「嫌に、決まっているわ。今が十分幸せで、満足しているのだもの。でも、いやだと言ったけど。でもーーーこの『嫌だわ』と思う気持ちをどうしていいか、わからないのよ」
手元に置いておきたい大切なものと、望まれたことに対して『嫌』を感じたローズの話。
次回「タルトの取り分」




