2.転移陣の間
「そういえば、午前中にセファを見るの、初めてね」
「……。午後しか来たことないんだから、そうだと思うよ」
食後のお茶を楽しんでいた時、ふと思い出して口にする。隣に座るセファは呆れ顔だ。
向かいの席に座って笑っているトトリは、今は品の良い少年側仕え姿で、こうしてみると本当に宮中の若き化粧師、という感じがする。そもそも侍女のお仕着せ姿でうろうろしていたのが少し、わりと、じゃっかん、異例だったのだ。何かこだわりがあったようだけれど、今それをやめたのはなぜかといえば、さすがに寝起きする時まで女装はちょっと、というひどく真っ当な返事で拍子抜けしてしまった。
ちなみにエマは今、一度侯爵家に戻っている。
「セファはいつも、私が来るまで何をしているの?」
「うん? 僕は、毎朝このくらいの時間に起きて、魔術学院に行ってる。中庭で人と軽く運動をして、研究室で毎朝届く手紙を処理。その間に生徒が訪ねてくるから、片手間に魔術相談の応対。午後からローズ様と何しようか考えながら、食堂で昼食を済ませて工房に帰るよ」
「……そう」
手のひらで頬を冷やしながら、私は相槌を打って顔を逸らした。
……ひょっとして、セファって毎日多忙なのでは? というか、セファに魔術の相談しに生徒が来るのはなんなの。魔術学院では普通なの?
「講義がある日は、軽く運動した後で朝一最初の時間で講義かな。終わった後に食堂で昼食をもらって、研究室でやっぱり手紙の処理をしながら食べて、工房に戻る」
「……今日もいくの?」
「いや」
色々聞きたいことはあったけれど、ひとまず飲み込んだ。私の問いかけに、セファは首を振って答える。
「今日はローズ様がいるし、特別におやすみしよう」
よし、とセファが頷いた。何やら色々考えて、決めているようだけれど私にはさっぱりわからない。そうと決まったら、とセファが立ち上がり、食卓の上を片付けを始める。流しに置いたかと思えば、大杖をとって床を小突いた。ここん、と小さく音がして、光がきらめくと食器類が綺麗になる。
「片付けを頼むよ」
トトリに告げて、一度さらに奥へと消えた。少しして戻ってきたかと思えば、白い外套を羽織っていて、調合室を通り抜け書斎へと消えていく。
私はぽかんとその姿を見送って、少しの好奇心に立ち上がった。お茶会室と調合室の間、セファが出てきた奥の扉をのぞいてみる。
「……なんだ、浴室」
開けてすぐ脇の扉は閑所だろうか。床は白い陶器のようなつるりとした素材で、水はけが良さそうだ。気のせいか、なんとなく涼しい気がする。鉢に植えられた樹木や、窓から入る明るい日差しは、すこしセファらしくなくて不思議だ。引き出しのついた棚もあるし、ここに着替えの類をおいてあるのだろうか。隅の床には魔術陣と、そこに収まる籠があった。何か便利そうな気配がするけれど、何かしら。
陣の術式を読み解く方法は、まだ知らない。魔力特性を記号にして、陣に並べただしい組み合わせに魔力を注げば魔術が発動する仕組みだけれど、記号は大まかにかわかっていない。火だとか水だとかは流石に覚えているけれど、これは何かしら……。
「姫様?」
床を熱心に覗き込んでいると、トトリに声をかけられた。ただ見ていただけで、やましいことはないのにびっくりしてしまう。取り繕うようにして笑って、なんでもないわ、とトトリと一緒にセファを追って書斎に向かった。
「ちょっと魔術学院に行ってくる。道すがら別の講師にあったら不在を伝えてもいいし、手紙だけ取ってすぐ戻って来る」
書斎に顔を出したトトリと私を見て、準備の手を休めないままセファが言った。結界装置の設定を変えているらしいけれど、私はトトリと顔を見合わせる。
「ここで待っていればいいの? トトリと二人で?」
「そうだけど……」
私の問いに手を止めて、セファが振り返った。しばらくじっと見つめて、一度談話室に向かう。私の黒い学院外套を持って戻るなり、私の肩に羽織らせた。
真正面に立つセファを、戸惑いたっぷりに見上げる。セファは何か考えながらじっと見下ろして来るばかりで、表情が全く読めない。さらには前を合わせ、頭巾をかぶせてきた。前が見えないけれど、と思いつつ、されるがまま。私に見えるのは自分とセファの足先だけだ。セファは頭巾を深く被らせて、ちょっと下がって全体を眺めているようだった。
「……ローズ様も、行ってみる? 魔術学院」
提案に、瞬いて顔を上げた。頭から頭巾がずれ落ちるのを、セファがまた直す。今度は浅く、顔が見えるほどで。眼鏡越しの薄茶の瞳を真っ向から見つめた。
「もちろん、すぐに戻るよ。でも、これを着ていたら悪目立ちはしないと思うし、行ってみたいかなと」
提案に、ぐらりと心が揺れた。侯爵家やフェルバートの日頃の口ぶりを考えるに、余計なことをはせず迎えが来るまではセファの工房、結界装置の内側でじっとしていた方がいいのはわかっている。わかっているけれど、兄の話を聞いて湧き上がった憧れがぐらぐらと心を揺さぶって来る。
ここで頷くのは軽率だろう。けれど、でも、フェルバートやセファからの護符はたくさんつけてもらっているし、セファのそばから離れなければ、滅多なことはないとも思う。一番の安全地帯が出かけるというのなら、それについていくべきなのか、それとも万全を期した工房内でおとなしくしておくべきなのか。
答えは明らかだ、わかっている。でも。
セファが笑ってる。寝房で顔に書いてあるよ、とマグアルフ片手に見ていたあの時と同じ顔だ。それでも強引に決めたりせず、私の言葉を待っているのは優しいのか、意地悪なのか。いや……。
「意地悪だわ……」
眉を寄せて目をぎゅっと閉じる。くつくつと笑うセファに、むー、と拳を押し付けた。どれだけ押してもびくりともしないのが腹立たしい。
「やっぱりセファって、じつは鍛えている……?」
「うん? ……そりゃ、ごく最近からだけど、少しは。それ抜きにしても、ローズ様の力でよろめくほどひ弱じゃないよ。魔術師団の中でも、魔獣討伐にいく人たちは、騎士団と合同で本格的な訓練をしてるって」
時間があれば、そちらに参加するんだけど。と、気軽にいうので驚いてしまう。魔術の研鑽を怠らず、身体まで鍛えては、いよいよとんでもない人物になってしまうのでは。それこそ、実力だけで登れる最高位までセファならあっという間だろう。
とんでもない人を異界渡の巫女は見出して、私の後ろ盾にしてくれたのねとしみじみしてしまう。いや、本当は異界渡の巫女の後ろ盾だったのか。その続きで、セファは面倒見てくれているだけなのだ。
忘れてはいけなかったことを思い出して、よし、と思う。
「私もいく。少しだけ見て、すぐに帰るからトトリ、ここに残ってエマを待っていてくれる?」
実は、交友関係を広げる件について、色々考えていたところだ。交友関係を広げる、ということは、行動範囲を広げると考えるのが無難だと思う。行動範囲を広げないまま人と知り合うには、紹介だとかのお膳立てが必要で、会うのは結局セファの工房だなんて、本来の目的にかなっているとはとても思えない。
今回、魔術学院へ行った先で知り合いを作るだとかそんな一足飛びなことは考えないけれど、ひとまず行ったことのないところに行くというのは、一歩前進とも言える。
前向きに、一つずつ、できることを、と思っていると、トトリは何かもの言いたげな目で見ていて、うーんと唸っていた。
「お二人で行かれるんですか?」
「すぐに戻るわよ」
「……姫様が、従者もつれず。セファと」
「弟子として、師匠の用事についていく、というつもりだけれど」
顔を晒して歩くと問題があることはわかっている。きちんと頭巾はかぶったままにするし、セファから離れるつもりもない。トトリはめずらしく食い下がったけれど、やがてはため息とともに頷いた。
「元はと言えば、セファがそそのかしたようなものだよこれ。姫様のそばから離れたらダメだからね」
セファへと詰め寄り、指先でどすどすどすと突いて何事かつぶやいていたけれど、最後には快く送り出してもらえた。
「行って来るわね、トトリ」
「そんな顔されたらもう何もいえませんよ。すぐに戻ってきてくださいね。絶対ですよ」
念を押されたので神妙に頷いて、セファとともに工房を出た。二人で知らない場所を歩くと思うと、少しワクワクしている。セファの半歩後ろを、追いかけるようにして歩きながら魔術学院ってどんなところかしらとぼんやり思い浮かべた。
ここからそんなに遠くない場所にあるはずだけれど、どうやって行くのかしら。徒歩ってことはないと思うけれど、馬車かしら。魔獣の引く箱だったらどうしよう、なんて思っていると、セファがある部屋の前で立ち止まる。扉を守る騎士と言葉を交わして、名簿に書付けたかと思えば私を手招きしたので扉の向こうへとついて行く。
床に大きな魔術陣の引かれた部屋だった。まぁ、と瞬いていると、ここに立って、と先に陣の上に立つセファの隣を示される。ちょっと待って、と右手でセファの外套を掴んだ。
「……なんなのここ」
「何って、転移陣の間だけど。……あぁ、魔術塔と魔術学院は、こうして繋がってるんだ。転移陣の設置法が広まり始めたばかりの頃の魔術師たちが、総力を結集して作ったって聞いたよ」
「……作った? 転移門の設置には国の許可が必要でしょう?」
「王国結界や都市結界を超えるには、ね。敷地内の建物に移るくらいなら、問題ないんだよ。この二、三十年で生活に根付いた小転移陣は色々あるよ。例えば、僕の工房の浴室。洗濯場に送るための転移陣が設置してあって、洗濯物はそこから送るんだ。塔の一階にある洗濯場で洗濯してもらって、部屋の前まで届けてくれる。これは魔術塔の各部屋にある」
自分の知らない常識が飛び込んできて気が遠くなる。身近な魔道具と変わらない位置に、移動陣が突如収まってきた感じだ。
「ここで一つ、君の師匠として注意しておく。ローズ様は、絶対に転移陣を起動させないこと。どんなものでも、だよ」
瞬いて、セファを見上げた。
「君の魔力量じゃ、起動できない。魔力だけ枯渇して危険な状態になる」
いいね、と念を押された。私は頷く。命の危険があるということで、セファの心配はもっともだけれど、こんな転移陣は今までの人生で出会ったことはないので、これからもそうだと思う。私自身が転移陣を起動しなければならない事態など、そうそうないだろう。
セファが差し出してきた手に、特に何の感慨もなく自分の左手を重ねる。すでにもう片方の手はセファの外套を握っているのに、なんだか変ね、と思った途端、転移が始まった。
荒地に行ったらどうしよう、なんて。考えてしまったのは仕方がないと思う。
次回、魔術学院とセファの研究室です。