1.朝の時間
本日から第3章『天機に触れた、宮廷魔術師』開始いたします。今月は夏季休業等を予定しておりますが、基本的に平日朝7:00更新です。よろしくお願いいたします。
本章も楽しんでいただけますように。
随分深く眠ったのにすっきりと目が覚めたのは、四方壁に囲まれているはずの寝房に朝日が差し込んできたからだった。
なんだか明るくて目を開ける。頭側の上方、奥まった場所に窓があるらしく、そこから光がさしこんできていた。
なるほど、ここにこもっていても、外の明るさは把握できるようになっているらしい。
……魔法使いは、そんなふうにして朝起きて、日々の勤めをはじめるのね。
吊り下がる魔術具の向こう側、天井に差し込む光を眺めながらふわふわと思い、掛布に顔を埋めようとして、その魔法使いがセファであることを思い出して飛び起きた。
膝と一緒に頭を抱える。眠れなかったらなどと言いつつ、ぐっすり寝てしまったようだった。
……この香りのせいかもしれないわ。
すん、と掛布に鼻先を埋める。セファから香るのと同じ、薬草の香りだ。知識でしか知らないけれど、煎じればさぞかし苦いであろうその薬草は、熱や痛みによく効いたと思う。安眠の効果があるのは初めて知ったけれど、もしかして私が眠るから、そういう香を焚き染めてくれたのかしら。
などと考え込んでみたけれど、さて、これからどうしよう。もうすっかり目が覚めてもう一度眠れる気はしないし、かといってこのままここを出るわけにもいかない。格好は寝衣だし、ここには髪留めもなにもない。結局ここを出るわけにはいかなかった。紐か何かあれば、不格好でも最低限髪をまとめることができたのに。
時間が来ればエマが声をかけてくれるだろうか。それまでどう時間を潰していようかしら。天蓋付きの寝台なら、帳のこちら側と向こう側は気配を探るのが簡単だけれど、板戸で仕切られているここはそうそう向こう側の様子がわからない。調合室だもの、朝も早くに人の出入りがあるとも思えなかった。
そう思った矢先のことだ。
「ローズ様、お目覚めですか」
「エマ? おはよう」
声に、パッと顔を上げる。引き戸を細く開けると、エマが笑顔で挨拶をし、着替えや温かい濡れたタオルを手渡される。少し前ならこれだけ渡されたってどうしろというの、と怒るところだったけれど、最近の私はすこし違うのだった。
「助かったわ。ありがとう」
ふふんと誇らしい気持ちでエマにお礼を伝え、引っ込んで戸を閉ざす。顔を拭いて、寝衣から室内着へと自分で着替えた。旅の間セファに指摘された部分を思い返して一人で確認を終え、そっと寝房から出る。待ち受けていたエマが私の格好を一通り確認し、手が届かない背中の編み上げを任せる。他に目立った手直しもなく頷いてもらえたことが、一層嬉しかった。私、確実に成長しているのではないかしら。
手早く髪を編まれて、くるりとまとめられる。そこでようやくほっと息をついた。
「セファ様もトトリもまだ休んでいますから、そっと朝食になさいますか?」
空腹に悲鳴をあげているお腹を撫でながら、私は小さく頷く。
やっぱりセファに差し出された時に、マグアルフを食べておけばよかったのだ。一口大の小さな果実、一口でパクッとすれば、果汁がこぼれる心配もないのだから。けれど、寝台の上であんな風に手でつまんで食べるのは、とても無作法な気がして手が伸びなかった。眠気が勝ったのもあるけれど、あれはもうそういう意識の問題なので仕方がないと思う。
「では、すぐに用意いたしますね。こちらにお持ちしますか? それとも」
「お茶会室へ行くわ」
「わかりました」
調合室にはいくつか椅子があるのでそちらで待っていてもよかったけれど、雑然としているしなにより手持ち無沙汰だった。お茶会室で食事をとる方が用意も片付けも楽だろうし、調理場と食卓がすぐそばなので、エマと話しながら待つこともできる。
それに、挑戦したいこともあるのだ。
「……ローズ様? そこで何を」
奥から出てきたセファが、私を見るなりそう言った。明らかにうろたえた様子に、何よ。と目を眇める。
「まずは、おはよう、でしょう。セファ」
むん、と視線だけ向けて一言指摘し、すぐに目の前の監視対象へと向き直る。かと思えばすぐ隣にセファが並んだので、狼狽えるのはこちらの番だった。
「おはよう、ローズ様」
「お、おはよう。セファ。……昨日はありがとう。あなた、どこで寝たの? ちゃんと休めた?」
「うん、問題ないよ」
すぐ隣で顔を覗き込まれ、眼鏡越しに薄茶の瞳と目が合った。そこへさらにそんなことを言われれば、気を取り直してつい答えてしまう。返事が綺麗なすまし顔だったので少し信用ならなかったけれど、それ以上追求するには動悸が激しく、意識をそらす方へ集中する。意識をそらすことに集中、なんて、いっそう意識してしまうに決まっていた。
今朝のセファはいつもの宮廷魔術師の制服ではなくて、簡素な上下に上着も何も羽織らない、ひどく寛いだ格好だった。自分の暮らしている工房なのだから、当たり前かもしれない。何を考えているのかしら、私。と、ため息を飲み込む。食事をするためか、銀の髪は緩く結わえられていて、なんの変哲もないセファだった。そう、少し、見慣れない姿なだけで。
そんな私の気も知らないで、セファは腕が触れるほど近くに立って、私の監視対象を一緒になって覗き込んでいる。
「それで、ローズ様? 一体何を?」
「見てわからない? 朝食よ」
炊事場の前で杓子を片手に立っているといえば、それ以外に何があるのだろう。きちんと前掛けもしているのに。たしかに、貴族令嬢としては少々不格好かもしれないけれど。
「セファにはたくさんお世話になったし、エマにもトトリにも無理をさせたから、少しくらい、こういうことを手伝ってもいいかと思って」
「……………そう。……作ったエマは、君に鍋の番を任せてどこへ?」
「見栄を張りたかったわけでも、騙されて欲しかったわけでもないけれど、そうも簡単に見抜かれるとちょっと悲しいわ。驚いて欲しかったのに」
「……? 食に対する意識が低いローズ様が、鍋の前で杓子を握ってるだけで十分に驚いたけど」
食べることにあれだけ無関心なのに、これはいったいどういう風の吹き回しだろう。何かあったの? だなんて、やっぱりこの人失礼だわ。
もう、と思いつつ、監視対象あらため、野菜スープの鍋へと向き直る。エマの調理を横で見ているだけとはいえ、非常に有意義な時間だった。調理というものは非常に奥が深く、身につけるには長い時間が必要だろう。おとなしく専門職に任せた方がいいと私が判断するのも当然だった。
「エマは、調理にひと段落ついたからと言って、仮眠に使っていた談話室を片付けに行ったわ。工房に入ってすぐの部屋でしょう? 整えないと、突然の来客に対応できませんからねって」
「普段から本に埋もれてるし、今更だけどね」
憎まれ口を言ってないで、少しは感謝したらどうなの?と呆れる。まったくもう、と憤慨していると、沸点に達したことでふつふつと気泡がいくつも出ている鍋に気がつく。
セファから意識を逸らし、鍋を杓子でかるくかき混ぜる。なかなか、うまく鍋の番とやらができてるのではないかしら、と充実した気分になっていると、セファの体温が迫った。ずし、と一瞬重みがかかる。驚いて顔を上げる頃にはすでに、セファが一歩か二歩離れた場所へ下がり、片手で顔を覆ってうなだれている。
「セファ?」
「ごめん。なんでもないよ」
「……ひょっとして、まだ眠いの?」
返事がないということは、図星だろうか。
そーっと火を弱めてから振り返り、セファの空いている手を引く。面目なさそうについてくるセファがなんだか素直で、ふふふ、と笑ってしまった。
「やっぱり、きちんと休めていないでしょう。こっちにきて、座っていなさい。トトリやエマの分も、これから用意するから」
椅子にセファを座らせる。セファが眉をひそめて私のことを見た。
「配膳を? 君が?」
「それくらいできると思うけれど。……運ぶだけでしょう?」
「……鍋から器にスープをよそうのもちょっと想像できない。君こそ座って待っていたほうが」
「座っていてったら。旅の間の私、ほんとうに何もしなかったものね。今振り返ってみればいい機会だったのに。私、もっといろいろできるようにならなくてはいけないと思うのよ」
「……君ができるようにならないといけないことの中に、前掛けをつけて炊事場に立つことは含まれないと思うよ」
「いいのよ」
終わりのない言い合いを止めるべく、私は笑ってみせる。
「こういうの、なんだか素敵だと思うわ」
今だけだ。エマが作った食事を前にして、ただ杓子を握ってただ立っているだけの真似事で、誇れるものは何もない。だというのに、なんだかここにこうしていることが、とても得難い瞬間である気がしている。
セファの工房はまるで、おとぎ話の中の世界だった。
「私、セファに魔術を学ぶみたいにして、お母様とこうして並んで立ってみたかったのよね」
いつかのように、ふと、思ったことが口から飛び出す。あらまぁ、と思わず口元を押さえたけれど、目を見開いたセファの視線からは逃れられなかった。ええとね、と視線を逸らしながら、先ほどエマに教えてもらった隣の食料庫の扉を開ける。日持ちを助ける魔術具が働いている食料庫は涼しくて、ちょっと火照った頬に気持ちが良かった。スープに合う美味しそうなものは、と目についた麺麭と乾酪を手にすると、追いかけるようにしてセファがやってきた。
私が手に持っているものを見て、無言でマグアルフのかごをとる。他にも、なにやら野菜をとって先に出ていってしまった。かと思えば、入り口で戸を抑えて待っていてくれる。両手がふさがっていたので、助かった。
「ありがとう」
私のお礼には頷きを返すだけで、セファはさっさと流し台へと向かって、野菜を洗い始める。ああやって、栓をひねるだけで水が出るのは便利ね。神殿の下級神官たちは、毎日朝早くから水汲みをしていたけれど、実はああ言った便利なものがあったのかしら。あの肉体労働も、じつは体を鍛えるための訓練だった?
ところで、セファの手際がいいことに私驚くべきなのかしら……。流石、なんでもできるのねって考えてる場合じゃない? 落ち込んだ方がいい?
「……君の、その理想とか、憧れだとかは、一体どこから出てくるものなんだ」
「ええっと」
とうとう洗い終わった野菜をさらに小さくむしってお皿に盛り付けながら、セファがいう。ずいぶん間が空いたけれど、私がうっかりこぼした言葉を拾い上げての、悩みに悩んだ問いなのかもしれなかった。こちらを一切見ないので、私も持ってきたものを食卓に置いて、セファに背を向ける形で答えた。
「そうね、多分、五歳までに読んだり聞いたりした、おとぎ話からかしら」
森の魔女に憧れたのは、もっとずっと後だったけれど。昔はお話を聞いたり読んだりするのが大好きで、思えばあの森の魔女は本当に久しぶりの新しい物語だった。
「貴族の魔術師の話もあれば、平民のなんてことない家族のお話もあって、お母様はお話が上手でね。いつか大きくなったら、お話の子達みたいに、私も、って思うのは、自然な考えだったわ」
振り返ってみれば、ちょっと笑ってしまう。
「あの頃は、自分がまさか王太子の婚約者になって、王太子妃教育に明け暮れるだなんて想像もしてなかったものね。当たり前に、兄や母から魔術を習って、当たり前に、魔術学院へ通うのだと思っていたわ」
母の工房で、魔術具を見せてもらったり、薬液を作ったり、魔力がまだ覚醒していなかったので、本当にただ横で見ているだけだったけれど。どうして忘れていたのかしら。五歳の頃なんて、覚えてなくて当然かしら。
「セファは? セファは、辺境でどんな風に過ごしてたの?」
専用の包丁で人数分に切り分けながら、思いつくままに問いかける。少し待っても返事がなかったので、慌てて付け足した。
「気に障ったなら、謝るわ」
使い終わった道具を食卓の上において、切ったものはカゴに盛り付ける。我ながら、単純作業とはいえよくできた方ではないかしら。断面はガタガタだし、こぼれた屑はあつめれば大した量になるかもしれないけれど。
そう言えば、鍋が火にかかったままだった。あっと思い出して、炊事場の方を振り返る。流し台にすがるようにして立っていたセファにぶつかりそうになった。
なんとか堪えて、一歩下がる。
鍋は焜炉から降ろされているのが見えて、ホッとする。向かい合ってセファを見上げるけれど、その薄茶の瞳は凪いでいて、少なくとも苛立ちや悲しみといった負の感情は見当たらなかった。
「……答えたくないなら、答えなくてもいいのよ?」
よく注意してみれば、なにか言葉に迷っている様子だったので、返事に窮しているのかと察して取り下げを申し出る。
私の言葉で、そんなふうに困らせるつもりはなかったのに。
「いや…。特に、話す思い出がないだけだよ。診療所で治療師をしてたおじいさまと、静かに生活していたから」
考えなしだったわと思っていたところへ、思いもよらなかった過去を聞かされ目を瞠る。
聞き返そうとしたけれど、セファは目の前に立つ私の背後を見ていた。
なあに? とその視線を追って振り返る。
「……何をしてるんだい」
「おはようトトリ。エマも、談話室の片付けがすんだなら、朝ごはんにしましょう。二人とも、そこで何しているの?」
談話室とお茶会室の境界線。エマとトトリが本棚に隠れるようにしてこちらを見ていた。
近い距離でなんか真剣に話してたらそっと見守りたくもなる。