25.誓いの真実
なるほど、たしかに荒れている。
フェルバートの執務室に足を踏み入れた時の第一印象がそれだった。
積み上がった書類に、放置された空の皿。騎士団員の上着は長椅子にかけてあり、執務室机の上も応接具の上もなにかしらで埋まっていた。丸まった毛布を見るに、泊まり込みだろうか。元は清潔で落ち着いた執務室であっただろうに、見るも無残に荒れ果てている。
先ほどの丸い中年文官が言ったのはそういう意味ではないだろうけれど。
そうして、執務机にすわるこの部屋の主。冷え冷えとした青い瞳を遠慮なしに俺へと突き刺して、なんの用……ですか。と低い声で唸る姿は、まるで手負いの獣だ。
「……ローズ嬢のことでしたら、話すことはなにもありませんよ」
少しして思い直したのか、かろうじて口調を取り繕った。けれど刺々しいままの剥き出しの言葉は、独占欲だろうか。それとも、敵愾心か。なんにせよ、縄張りに足を踏み入れるなという警告のようだった。
「酷い有様ですね。身の回りの世話をする者はいないんですか」
返事はないけれど、そのまま足を踏み入れる。流石に書籍らは避けたけれど、書類のいくつかは踏みつけにするしかなかった。多くが書き損じのようだったので、構わず応接具のあたりまで進む。座ろうと思っても何もかもが埋め尽くされていたので、唯一空間に余裕のある、寝床になっていたであろう長椅子を陣取った。
腰を下ろして、溢れかえった書類を眺める。どうせここにあるものに大した機密情報はないだろう。
「騎士団は大わらわだそうですね。そんな中での引き継ぎとは、骨が折れるでしょう。……あぁ、なるほど。引き継ぎしながら通常業務ですか……これはひどい。魔物は今、どれくらい活性化しているんです」
「……結界装置の不調で、すぐに結界が再設置できないいくつかの村々は放棄。村人は近隣の町へ移りました。国王陛下は王国結界を多重結界へ移行。結界系宮廷魔術師とともに、起動と維持のため結界の間に詰めています」
「もうそんなに段階が進んでいるんですか」
「加えて、大気中の魔力減少に歯止めは効かず、もう、猶予はありません」
「どちらにしろ、異界からの来訪者リリカは、救世の巫女としての用意が整っていないので、まだ無理ですよ。濃度が上がっている一部辺境地域での魔力酔いは、ローズ姫とセファの働きによってずいぶん解消され、異民族内の不満は抑えられる程度らしいですが」
「……辺境の様子はともかく、リリカ様の様子を、なぜ知っているんです」
青い目が見開かれた。さてどうしてでしょう、とにっこりしてみせる。
「まぁ、色々と。ツテがあるので。ご婦人方は皆、親切ですし」
「……あなたのそういうところが信用ならない」
鬱陶しげな目を向けられる。最初の態度がだいぶ軟化して、そろそろ頃合いかな、と見定める。さて、とうっすら笑って見せて、本題に入った。
「今日はローズ姫のことについて、聴きにきました。魔術師セファの工房に一晩預けたのは、事実ですね? なぜあんなにも大事にしていた婚約者を、魔術師の手に委ねたのです」
「……」
嫌そうな顔に笑ってしまう。
「噂になっていますよ。魔術塔に、ローズ姫が連日入り浸っている、と。問題では?」
「問題はありません。今日は迎えに行きます」
「間違いがあれば?」
「トトリもエマもいる。それに、ありえない。あなたも知っているでしょうに」
フェルバートが鼻で笑ったようだった。物語の悪役さながらに、酷薄に笑む。
「ローズ嬢は真面目で、正しいことを尊び、いつだってそれに殉じます。教えられた通り、王と、民と、世界のため。今のローズ嬢は、貴族の義務として正しく血を残すことを基準に行動指針を定めている。
婚約者としての自分の立場を守るためにも、彼女は俺を裏切りませんよ。
……あなた方が、そのように育てた」
「君も、ただそれを見ていた。第一王子アンセルム殿下もね」
相槌のようにして嫌味を言う。フェルバートの視線がさらに険悪になった。
涼しい顔で受け流す。取り繕う気もない子どもめ、とせせら笑った。
「魔術師セファの方がその気になったら?」
「セファも同じです。あれは人に強制しない。頼りにされれば最大限の働きをするでしょうが、血を残したいというローズ嬢に、魔術師としてのセファは絶対に手を出さない。あいつはいずれ、魔法使いになる人間ですから」
そんなに簡単にわかるものだろうか。と俺は思う。この堅物な若き騎士は、少し、人の心というものを簡単に見積もりすぎてやしないだろうか。
貴族の悪い癖だ。共通目的がはっきりしているあまり、その大前提が崩れている可能性を見誤る。
相手は平民のアルブム・アウルム。我々が持つ物差しなど、意味を為さないというのに。
ローズだって同じだ。あれは無意味に温情を与えられた欠陥品の哀れなお人形。真実世界を知った時、なにを一番に選ぶかなんて、想像もつかない。
「セファだけを見て、セファのことだけを考え、セファさえいればそれでいいと思って」
机に頬杖をついて、フェルバートが喉の奥で笑う。
「セファさえいれば、他に何もいらない。どんなことも怖くはない。心からそう想って、その身をセファに預け……。そして、セファがそれに全力で答えたなら」
語るフェルバートの様子を見ながら、あぁ、もう、だいぶ心にきているな、と察した。もう時間がないのだと、俺にもわかっている。だから、今こうして誰もかれもが奔走しているのだ。
きっと、この騎士は最後までローズの心に沿うべく動くのだろう。
「かえって好都合です。ローズ嬢が、世界を救う。その理由は俺でなくても構いません」
人のことは言えないが、この騎士が少々哀れだった。
何より哀れなのはローズだ。今頃、どうしているだろう。何も知らないで、優しい魔法使いの庇護翼の元、幸せに笑っているだろうか。
時折、あの魔術師の工房を訪れる。その度に魔術師セファの実力を目の当たりにして、その驚異の魔力量と魔力特性の多さと高さに畏怖を覚えた。その程度のすごさをわからないローズは、ただ目を輝かせて、羨望の眼差しをセファへと注ぐ。
その無邪気さに、あの孤独な魔術師が救われているのも確かなのだろう。
ローズは、魔術師セファの横顔をよく見ている。彼が魔術講義をしている時、魔術を行使している時、調合をしている時。その間中、横顔や背中を、まるで当然ように追いかけている。二人がそばにいる時に少しでも居合わせていれば、その視線がどう言った意味合いを持つのか明白だった。
そうして、セファもそれと同じだけの、優しい眼差しをローズに向けている。
二人の側仕えが、どう思っているかは知らない。けれど、事情を知らない第三者に見られれば終わりだろう。あんな光景、まるで密会だ。それも送り迎えに婚約者がつく、公認の。そんなことが世間にバレればどうなるか、考えるまでもない。
もうすでに噂になっている。現時点では、婚約者のフェルバートが宮廷魔術師セファにローズの保護を頼んでいると説明がつくし、側仕えや俺が出入りしているので噂は噂のまま、事実は違うのだという主張ができるけれど。
確実なのは、ローズは想いを自覚したところで封じ込めるということだ。胸にしまって蓋をして、忘れることにする。その上でフェルバートの婚約者から妻となり、いずれ母親になるつもりだろう。それが誰にとっても幸せな結末にならないとわかっていながら、そうすることでしか生きられないとわかっている。
ローズの目的は、自分の持つ青き血を次代につなぐこと。今までの生活が、誰によってもたらされていたのか、貴族の家に生まれたというただそれだけで、いずれ望まれる役目を果たすべく生きてきたのだと教え込まれている。
自らの手で糧を生み出すことなど知らないしできない。家に属すること、望まれる役割を果たすことでしか、彼女は生きていけない。
操り人形となるべく育てられたのだ。なるべくして出来上がった、当然の結果だった。
全てはその、類稀な魔力特性値を持って生まれ、王家に見つかってしまったがために。
「俺は、ローズ嬢に幸せを知ってほしいだけです。心からの喜びを。そうして、やさしい気持ちで世界を救ってほしい」
「それを、すぐそばで見ていたい、と?」
「あんなにも努力して、必要な振る舞いを身につけて、見返りもなく、懸命にひたむきに、ただ過程を積み重ねるばかりだったローズ嬢が、報われてほしいと思います。世界を救って、世界中から祝福されてほしい。
これで、世界も救わず逃げ出して、世界中が困窮し、怨嗟の声に満ち、突き出され、捕まって、罰を受けて、罵倒され後ろ指をさされながら世界を救い、そのまま葬り去られるのは何よりも俺が耐えられない」
貴族としての当たり前に、個人の感情が上乗せされて独りよがりな男の出来上がりだった。幼いながらに努力するローズに、いつの間にか憧れを持ったのだろうか。彼女の生活環境へ疑問を抱き、誰かに詰め寄ったこともあったのかもしれない。その時知った真実に、受けた衝撃と、湧き上がった感情。その起点が今に至るまで昇華され、フェルバートの行動指針となっている。
「そのためならなんだってする。手段は選ばない。ただ、ローズの人生を価値あるものにするために、俺は今までずっと、アンセルム殿下のそばで彼女を見ていた」
フェルバートが思い描く、『ローズの幸せ』だった。
「そうですか」
俺は、言葉少なに頷いた。
「それが、ローズ姫の幸せですか」
皮肉交じりにそういえば、フェルバートは困ったように笑って視線を逸らした。