5.ただのローズその現状
そう言い捨てて、日傘を持つ。いないものとして背景に溶け込む見知らぬ侍女に目配せをして、彼女を伴い部屋に戻ろうとした。
それなのに、『兄』は行く手を阻むように立ちふさがる。
「お前が、『ただのローズ』だと?」
何を思い違いをしている、と批難するように唸った。私がそれにひるむことはない。クライドは怖くない。だって、彼が私に怒るのは、いつものことだから。フェルバートもトトリもセファも、怖かった。知らないも同然の人たちだもの。当然だ。
慣れ親しんだ、勝手知ったる幼馴染の怒りなど、取るに足らない瑣末ごとだった。
「自分の立場を、わかっているのか?」
「私の、立場ですか」
問いかけに、小首を傾げる。そう言えば、異界渡の巫女からの手紙は読んだけれど、あの紙の束は読んでいない。世界の危機の根拠と、その方策が書いてあるのだろうと推測は立つけれど。そう言えば何よりも自分がしでかしたこととなっている出来事と、その影響についても早急に知るべきだった。
庭に出ている場合じゃなかったなと反省する。
表情の変わらない私に業を煮やして、クライドは小さくため息をついた。
「お前は、王太子から直々に婚約を破棄され、勘当されたな」
はい、とうなずく。そうして辺境に追いやられ、異民族との戦闘の傍らでかつての高貴な姫として静かに暮らすはずだった。異民族との戦闘でなにか有事があれば、きっと担ぎ上げられ生贄の一つにもされただろうけれど。
「その境遇を、自らの才覚を示すことで覆し、返り咲いて、王都に凱旋した」
凱旋とは大げさな。まぁ、大成功してかつての追いやられた地に帰ってきたというなら、確かにそうかもしれない。
そういうことなら、そこにきっと価値が生まれる。成したのは異民族との融和だ。辺境を盛り立てた立役者として、立派な駒の一つにーー。
「さらにそこで、かつての婚約者であり王太子として城に居座る、アンセルムとその取り巻きの不正行為を糾弾し、自らの汚名を雪ぐ事に成功する。主犯の取り巻きは王都を追放され、彼らを御しきれなかったとして、王太子は地位を追われた」
あら。そう。確かにそう聞いた。そうして、王太子の座に就いたのは、第二王子で、
「その第二王子からしたら、お前はどういう存在になる」
冷静な頭で整理して、考える。クライドの声は思考を明瞭にするのに非常に役立った。昔から甘やかすことのなく罵倒してくる教師のような存在なので。
「……とても、とっても、わかりやすい反第一王子派で、第二王子派に取り込めば、有力な王太子妃候補になりうるかと」
功績があるので箔がつくし、血筋については明白で扱いやすく、私と実家が望めば勘当も取り消せる。いいや、王が命じれば障害などなく、そうでなくても養子を名乗り出る家は多いだろう。
次第に視線が落ちて行く。あぁ、このあとはじまるお茶会で、良家のご令嬢から妃候補について探られ、牽制と取り込みや、追従をさばきながら、異界渡の巫女として振舞うことができるのだろうか、私に。
「お兄様」
思わず泣き言のような声が漏れた。
「私に、そんなことができると思いますか」
クライドにとっては、わけのわからない文脈だ。有力な第二王子の妃候補だなんて、私、昨日まで第一王子の妃候補だった気持ちでどうこなせばいいのか。それも、異界渡の巫女が振舞った行動そのままに。とても無理だ。だって私は、出来損ないで、落ちこぼれで、妹にだって劣る、人の役に立つことなんて今まで一度もなかった。
フェルバートも、トトリも、セファも、異口同音に無理だと断じた。異界渡の巫女と私の違いに戸惑う彼らは、正直にそう口にした。
異界渡の巫女を知らなくても、私をよく知っているクライドだって、そういうに違いない。
「……そんな弱音を吐くくらいなら、なんであんなことしたんだ」
なじるように、クライドは吐き捨てる。お前など、出来損ないらしく辺境で大人しくしておけばよかったんだ、と。そんなこと私に言われても知らないわ、と言い返せたらどんなにいいだろう。異界渡の巫女のことは吹聴すべきではないし、説明したところで証明もできない。日傘の陰に隠れて、クライドの視線から逃げた。
深いため息が聞こえてくる。
「大方、周囲に言いくるめられたんだろうなぁ。ローズは馬鹿だから……」
「ひどいです」
「どこに出しても恥ずかしくない姫君に育て上げたはずなんだ。フォルア伯爵家の総力を結して、持てる素質を全て伸ばし補い王太子妃に相応しい教養を身につけさせた」
はい、とそこは否定せずに頷く。両親は必要なものを全て用意してくれ、家庭教師も一流の、教えるのが上手な方々ばかり。社交の練習と称して兄の友人や父母の知人とお茶会で交わすお喋りはどれも楽しくて、何もかも恵まれている事に気づかずただ夢中だった。その、無自覚のツケはすぐ払う事になるのだけれど。
「なのに。なんでお前、そんな馬鹿に育ってしまったんだ……」
盛大に、かなり大げさに、ため息をつかれる。返す言葉がない。なにせ、私の『それ』によって最初にして最大の被害者に反論するほど愚かではない。
「……それでも、お前がここで何かすべきだと思い、ことをなすというなら、城にいた頃のように俺を使え、ローズ」
「はい。……はい?」
そっと持ち手を浮かし、日傘の縁を持ち上げる。茶色い髪の間からじっと見つめる灰色の瞳と目があった。本来ならもっと上にあるはずの頭が、少し屈んで視線を合わせてくれている。昔から、冷たくて厳しくて口の悪い兄だけれど、話す時はこうして目線を合わせてくれたものだった。
ふっと、肩が軽くなる。小さく笑って、日傘に隠れる自分を恥じた。
「見返りは、なくってよ?」
そう言って婉然と笑う。馬鹿を言え、とクライドは鼻を鳴らした。
「見返りなしにお前のお守りなど誰がやるか。お前はせいぜいその振る舞いで城での地位を確立して、俺をつかって有力者に取り入れればいい。俺は勝手に見返りを使って自分の地位を築く。いままでどおりだ。何処かの誰かさんが勝手に辺境に飛ばされた挙句、音信不通のまま手を切ったつもりでないならな」
だって、異界渡の巫女はあなたのことなど知らなかったのだもの、と心の中で思う。王太子の婚約者という立場上、私とクライドのつながりを知る人は少ない。せいぜいが次兄の同僚、と言った認識で、いずれ王太子妃になったら側近として取り立てるつもりだったけれど。未婚の娘として、頻繁な接触は控えていた。必要な情報のやり取りは、それこそ日頃の書簡で、その他の書類に紛れ込ませれば済んだ話だからだ。
あの頃は次兄やそのほか身近なものがその書類の運び手を担ってくれていたけれど、辺境に行って手足を一から見繕わなければならなかったというなら、異界渡の巫女がクライドのことに気づくことはなかったでしょうね、と不運を嘆く。クライドがいれば、異界渡の巫女にとっては百人力だっただろうに。
「急なお誘いは断って、何事も提示された日から三日以上先の予定にする。猶予期間はきちんと持てる手段を使って用意整え、備える。人と会うような事については、一人で決めず一人で会わず、必ず信頼のおける人に相談する事」
以前言われたことを、そのまま唱える。そうだ、とクライドがため息をついた。記憶力は悪くないのになんでああなんだと付け加えられるけれど、構わない。
「……基本的に、突然目の前に立ちふさがって、急に母の具合が悪くなったという人や、お金がなくて生活が困窮しているから、今すぐ貴金属の類が必要っていう人の話は、聞かなくても、いいのよね……?」
「……それをわざわざ不安そうに聞いてくるから、お前は不適格だと言われれるんだ。そしてそれは基本中の基本で、変種はいくらでもあるから油断しないように」
叱り飛ばされた。ひえ、と肩をすくませる。だってそんな風にわざわざ口に出して縋ってくるほどなりふり構っていられない人だもの、内心がどうあれその言葉にできたことの上辺だけでも救ってあげるのが持てる者の務めというものではないかしら。
この反論は、以前口にしてめっためたのぼこぼこに口撃されたので、慌てて封じた。怒られたことを思い出しついでに、言わなければいけないことを思い出してクライドの横をすり抜けて歩き始める。本当に、そろそろ支度を始めなければ。お茶会まで時間がない。
面と向かって言えないので、前を向いたまま背後へ声をかけた。
「教えを破ってばかりで申し訳ないのだけれど、これまで通り、あなたを使いたいわ、クライドお兄様。以前のように、私を助けてくださいませんか」
最初からそう言えばいいんだ、と言い返されて、苦笑する。続ける言葉に、この人はきっと怒るだろうな、とちょっと遠い目になりながら息を吸った。
「つきましては、これからのお茶会に備えるべき知識が何もないのです。助けてくださいますか?」
「なんでそれを早く言わない」
うっかりしていました、と笑って見せて、会場や参加者の人数、その面々、想定される話題、数々の問いかけに何も返せない私に呆れ返ったクライドは、そのまま私の部屋まで乗り込んできた。
衝立を挟んだ向こう側の卓にクライドを座らせ、こちら側では侍女に着替えを手伝わせながら、情報を交換する。クライドには招待状と参加者リストを渡して、異界渡の巫女が用意していた茶会参加者向けの辺境産手土産も披露した。
「……なぜここまでの用意ができていて、あなたの頭はそんなにも空っぽなのでしょうか。ローズ姫」
「お兄様、お口が悪いですわよ」
人前であるにも関わらず猫の脱げかけたクライドの発言に、私は楽しくなって衝立から顔を出した。着替えの途中であったためか、侍女は悲鳴をあげるし、クライドからは腰枕を投げつけられて散々である。痛い。クライドをもてなすトトリの顔も引きつっていて、あらあら、と衝立に引っ込んだ私はクスクスと笑った。
そう言えば、トトリは侍女であって着替えを手伝うけれど、私の素肌が出るときはそばにいない、と気づいてしまった。あるいは気づきたくなかったともいう。やはり、ということは、トトリとはそういうことなのだろう。なんで侍女の格好をしているのは疑問だけれど。初対面の時、やたらと出入りが多くくるくると働いている印象だったのは、私の肌が出ている際は衣装部屋に必要なものの準備をしに行き、着付が整ってきた頃に戻ってきて仕上げをするためだったのだ。いろいろと芸が細かい。いや、だから、どうして侍女なんて仕事をしているのか。
そんなトトリをそばに置いてその職務のままいさせたというのだから、異界渡の巫女というのは個人を尊重する革新的な方なのだろうな、と一人頷いてしまう。
「ローズ姫、聞いていますか?」
にこやかなのに含みが感じられるクライドの声に、はい、と私は返事をする。支度が終わり、衝立が取り払われる。クライドからの視線を感じて、貴族令嬢らしい姿勢に意識をむけた。ちょうど、部屋の扉がノックされ騎士姿のフェルバートも入室する。今日のお供は彼だ。侍女を置くには少し不安なお茶会なので。
「助かりましたわ、クライド様。これで、少々まともにお茶が楽しめそうです。花のトゲには十分注意して、あとで成果をお伝えいたしますので、またお時間をいただけますかしら」
クライドからの返事はなかった。いつも、身内だけの時にせよ猫をまとっている時にせよ、打てば響く明瞭さで快活に言葉を交わす人だというのに。どうしたのだろう。
内心で小首を傾げていると、上から下まで見下ろされていることに気がついた。結い上げられた金髪に、青い宝石を使った装飾品。夏らしい爽やかな空色の衣裳は、個人的には複雑な気持ちだけれど、ここでこれを着るよう準備されているということは今更誰も気にも留めないということなのだろう。
アンセルムの色だな、などと、婚約破棄から一年半も経って思うはずがないのだから。
なにより、私とアンセルムは金髪碧眼のお揃いで、そういった意味では、青色の宝石も、空色の衣裳も、私の色なのだ。大丈夫。気にしない。
気にしない、と内心で繰り返す。
「……似合いますか?」
裾をつまんで、立ち位置を変えてみせる。衣裳の映える角度に映るように、クライドと、フェルバートに披露した。
「ええ、とてもお似合いですよ、ローズ嬢」
即座に頷くフェルバートは相変わらず騎士の鑑だ。対するクライドだって、私以外の女の子には軽率に口説いているかのような勢いで褒め称えるというのに、なんだか今は複雑そうな顔だった。