23.名付けぬ想いにさよならを
薬草の香り。
鼻をくすぐるそれが薬草だと知っているのは、薬草の基礎知識として以前教えられたからだった。その記憶はすでに薄れていて、今品種を聞かれて正しく答えられるかは、自信はない。
今はもう、その香りはセファのものだと記憶が塗り替えられている。
夢現の中で、寝返りをうった。不思議と近くにいるはずだと思いこんで、手を伸ばす。うつ伏せに寝ながら腕がぽすぽすと周囲を彷徨うけれど、手応えはなかった。ぼんやりと目を開ける。口元まで引き上げられた掛布がその香りを強くしているのだと気付いた。
「ここ、どこ」
のろのろと体を起こす。ふかふかと柔らかい寝台は、足を下ろす場所が見当たらず、四方に壁が迫っていた。棚になっている壁もあるし、天井からはやっぱり何かしら魔石や魔術具が吊り下げられていた。うち一方が引き戸になっていて、薄明かりが漏れている。
ぺたんと寝台の上に座り込んで、両手で頰を抑えながら首を傾げた。ひどく眠くて、まだ頭が回らない。むにむにと頬を揉むけれど、まったく目が覚めない。なぜかしら?
なぜといえば、ここは、セファのええと……房かしら。天蓋付きの寝台よりも、巣穴にこもってる感じがしてますますおとぎ話の魔術師のようだわ。なんて、ついときめいてしまう。これは現実逃避なのかしら。
それとも、ここはまだ夢の中なのかもしれない。
だって、なんでここで寝ていたの。寝る前の記憶が曖昧だなんて、そんなことあるかしら?
着るものは夏物の室内着になっていた。眠っているうちにエマが着せ替えたのかもしれない。と、これは現実的な推測ができる。外出着のまま寝ていたら、せっかくの衣裳がシワになってしまうし、布の量からしてかさばって寝にくいので。
けれど、やっぱり、そこに至るまでの経緯がわからない。
そっと引き戸を開けて、足を下ろす。少し大きいけれど、室内履きがあったので借りることにした。
‥‥調合室だわ。
のろのろと房を出て、見覚えのある景色にホッとする。やはりここは、セファの魔術工房だった。調合室にあった仕切りの奥は、セファの寝場所だったのねと納得する。戸棚か収納庫の類かと思っていた。
外はすっかり暗くて、調合室はわずかな灯りに照らされているばかり。左手のお茶会室は煌々と明かりがついていて、人の気配がする。けれど、前方の書斎から漏れ出る小さな光源に惹かれて、そちらを目指した。
近づくにつれて、書斎の椅子に座っている影が見える。机の魔石が光を反射していて、とても綺麗な光景だった。それを眺めているのは誰かしら。椅子の上で片膝を抱えて、ちょっと俯いた顔は、半分が銀の長い髪によって隠れている。
……セファ?
よくよく見れば眼鏡をかけていないセファだった。思わず目をこする。眼鏡ごしでない眼差しが、心臓に突き立ったかと思うほど鋭くて、息ができない。
声がかけられないので、近くへ寄った。大きな机のすぐ横までやってきたとこで、セファから「寝てなよ」と促されてしまう。いやよ。せっかくセファがいるのに。と、首を振った。ちょうどよく用意された椅子に座る。
ここ数日、色々考えた。
本当にたくさん考えたのだ。フェルバートが余計なこと言うから。昼間は忘れた振りをして、いつも通りに振る舞って、でも夜になるといろいろな感情が押し寄せる。
私、なんてことを、しているのかしら。と、途方に暮れ、考えはまとまらないまま朝が来ることを繰り返した。
頭を撫でる手が、
手を引いてくれる指が、
苦笑した顔が、
意地悪な笑い声が、
優しい瞳が、
セファの与えてくれる全てが、宝物のように思えた。大切で、かけがえのないものだと気づいたけれど、全ては凍りつく。
この気持ちは、大事に大事にしまって、誰にも見せてはいけないと堅く誓った。手を差し出されても、絶対にとったりしない。すがりつくなどもってのほかだ。
なのに。
『私、きっと、セファのことをーーー』
なんだかとんでもないことを言いかけてしまった気がする。外套をもらった嬉しさのあまり、舞い上がった私は、頭がおかしくなったのだ。
「あの続きを、聞かせてくれる?」
眠気が吹き飛んでいく。顔が熱くなって、身動ぎひとつできない。セファが顔を覗き込んでくる。手が伸びできて、私の肩にかかった髪に触れた。
「……?」
髪?
ふと、ついさっきとはまったく別方向へと血の気が引く。ばっと両手で頭を抑えた。セファの目が見開かれる。
結っていない。
当たり前だ。今の今まで、寝ていたのだから。魔石の明かりに照らされたセファから、ジリジリと後ずさった。頭が真っ白で何も考えられない。
と、ととり。
きっとお茶会室にいるだろう確信を持って走る。果たしてそこに、化粧師はにいた。けれど、とたたらを踏む。いつもの侍女のお仕着せではなく、装飾の少ない侍従服を身につけた少年姿のそれに、混乱したままの私は踵を返した。
姫様? というトトリの呼びかけにも足を止めず、そのまま真っ暗な談話室に駆け込む。こちらです姫様、と言うエマの声がして、迷わずそこに飛び込んだ。
「申し訳ありません、姫様」
長椅子を衝立で囲ったそこは、エマがたった今まで仮眠を取っていた場所らしい。いそいそと自分の髪を纏め直したエマは、そばに置かれた魔術具へ次々に触れ、明かりをつけていく。そうして、十分な明かりの中で、私の髪を結い始めた。
「え、エマ、私。私、こんな姿のままセファの前に」
「すみません、すみません姫様。私やっぱり調合室で仮眠をとらせていただくべきでした」
調合室に長椅子を運び込む空間はなく、談話室で眠るよう説得されてしまったらしい。けれど、それどころではない。
「どうしたら。私、こんな、ふしだらで、慎ましくなくて、みっともない姿を」
「落ち着いてください。姫様。大丈夫。大丈夫ですから」
「だってエマ。こんな、だらしない姿で、人前に。きっと軽蔑されたっておかしくないわ」
成人女性は、髪を結い上げ、毛先を仕舞い込む。編み込んで毛先を極力短くしたり、隠したりするのは、神話の訓戒だ。
貞淑であれ、誘惑することなかれ。
成人もこえ、髪を下ろし毛先をほしいままに男性の鼻先で弄ぶのは、そういう仕事をする女性たちばかりだというのに。
少なくとも婚約者もいる私がーーー、とよぎったところで、はたと思考が止まる。
「……私、どうしてこんなところにいるの?」
しまった、とエマの表情がこわばる。私は辺りを見回した。談話室に窓は少ないけれど、お茶会室側の暗さを見ても、今がとっくに日の暮れた真夜中だということは明らかだった。
震えながら立ち上がる。帰らなければ、と思った。だって、こんなの。明らかな醜態だ。
婚約者でもない男性の家に、泊まるだなんてこと。侯爵家へと嫁ぐ身の上としては醜聞が過ぎる。セファにとってだってそうだ。宮廷魔術師と、その庇護下にある伯爵令嬢。世間がなんと思うだろう。囲っていると思われる。どちらが、どちらを、などはこの際関係がない。
「エマ、今からでもいいわ。帰るわよ」
もう遅いのはわかっている。こんな時間に夜陰に紛れこそこそと、などと言われればそれまでだ。だけれど、朝までここにはいられない。
髪を編み込んでもらって、渡された肩掛けを頭からかぶった。
「どこにいくの」
衝立から飛び出ようと勢い込んだ矢先、衝立を挟んだ向こう側から聞こえたセファの声に、身がすくんだ。
先ほどさらしてしまった醜態と合わせて、喉の奥がぎゅっとなる。
「寝不足とはいえ倒れたんだ。異常がないか診るから、こちらにおいで」
優しい声に、また別のところがきゅーっとなる。
「だめよ。セファにだって、見苦しいところをみせて、私、なさけなくて、合わせる顔もないし。ここで朝を待てないわ。フェルバートにだって、侯爵夫人にだって、顔向けできなくなってしまうから。セファにだって迷惑をーーー」
だから、としどろもどろになりながら言葉を紡ぐ。紡いでいたのに、ひょっこりとセファが衝立のこちら側に顔を出して、あっという間に私の腕を掴んで衝立の向こう側へと優しく引っ張り出された。
両肩を掴まれて、その場に向かい合う。
「まず一つに」
眼鏡をかけていないセファの目が、まっすぐにこちらを見る。それだけで耳の奥が痺れるようだった。この人、自分の顔が整っている自覚はあるのかしら。誰彼構わずこんなことをしていたらどうしよう。
「ここ数年、髪を編み込んで毛先をしまい込む、という価値観は、廃れつつある。妻に貞淑さを求めて髪を極力しまいこむのは、そういった問題の原因を女性側にだけ押し付けている証左ではないかと。ある大物貴族のその手の騒動をきっかけにして女性活動家を筆頭とする女性側の主張が世間に認められる形になった」
なあにそれ、と瞬きすると、異界渡の巫女がいた時の話だよ、とセファが教えてくれる。私の意識が異界渡の巫女に乗っ取られていた頃の、私の知らない世間の話だ。
「あとは異世界からの来訪者リリカが、その風潮を後押ししたのも大きい。女性活動家から話を受けて、彼女が元の世界での社交界でもよく見られた、という髪をただ横に流しただけという姿で、夜会の場に現れた。これは、今に至るまで緩やかな流行の発端になっている。
神殿を重く見る、格式ある儀式や式典の場では控えるよう示し合せる事になったけど、女性の髪型一つをとって、ふしだらだと影で言われることはなくなりつつあるよ」
それにね、きみ。と、セファの声は呆れている。あんな姿、旅の間に何度見たと思ってるんだい。と小さく呟かれて、カーッと熱くなる。忘れてといったのに、と恨みがましく睨みつければ、セファはどこ吹く風と肩をすくめた。
だってあの時は、緊急事態だ。
その直前にもっととんでもないことをされていたのだから、あそこでつべこべ言うなど今更すぎた。けれど今は、もっと、ちゃんと、きちんと、できていたはずなのに。
「次に、フェルバートや侯爵夫人へ顔向けできない、ってことだけれど。ーーーそのフェルバートが、僕の元に君を預けたんだ」
フェルバートが? と瞬いた。私が悲しむと思ったのか、セファが目をそらす。
「騎士としての仕事の忙しさと、あと、侯爵家でも何かあったらしい。危険だから、工房から出ないようにと、君が寝ている間も何度か釘を刺された」
セファの目の奥に苛立ちが見えて、思わず手を伸ばす。両肩を抑えられているので、右手を背に回してさすった。
あぁもう、とセファが呻く。何に怒っているかわからないけど、元気を出して欲しかった。
……友人との距離感って、これでいいのかしら。
痛みとともに、胸に染みるように考える。
貴族で、ハミルトン侯爵の庇護下にあって、騎士フェルバートと婚約している私。
自分の持ち物なんて何もない、王太子の婚約者としての私に贈られたもの、伯爵令嬢としての私の贈られたもの、フェルバートの婚約者としての私に贈られたものだってきっと、それぞれ属した家の財産となる。
どこかの家に属することでしか生きていけない私は、そこを飛び出したところで潰えることがわかりきっていた。
だから、私、このままここで、笑っているしかない。このまま抱えていくか、いつか忘れてしまうしか、道がない。
感情一つ、名前をつけて形を持つことさえ許されない。
ふわふわと抱え、いつの日かうやむやにして、もう覚えてないわと笑うのだ。
あなたが余計なことを言うからよ。と、フェルバートを恨んでしまいそうだった。
あなたを好きでいさせてとさえ、祈る。
全く君は、と、セファが笑う声に、耳をすませた。
いろいろ気づいてしまったけれど、そのまま蓋をしてしまいます。
先などないので。