18.フェルバートの昔語
夕食時に合わせて帰ってくるフェルバートだけれど、その後も慌ただしく職場に舞い戻ってしまう。いったいいつ眠っているのかと心配になるけれど、引き継ぎが完全に終わって仕事の流れが落ち着くまでの辛抱ですよと笑っていた。
今日も見送りに立ち上がる。いつも制される手を、こちらから掴んだ。
「フェルバート様。無理はしないでくださいね」
「はい。ローズ嬢も、何かあれば呼んでください。緊急時には作動する護符もお持ちいただいていますが」
そんなものもあるのかと、思わず身に付けた護符へと視線を落とした。
「決して、過信はしないでください。あとできれば、ローズ嬢自身の結界も、なるべく使わないでくださいね」
思いがけない申し出に、瞬いた。どうして? と首を傾げて問い返してしまう。
答えるフェルバートは、苦い顔をしていた。
「……俺は、あなたの結界をそんなに見たことがあるわけではありません。ですが、話を聞くに……目の前で使われたならともかく」
手が伸びて来たので、思わず注視した。一度その手は止まったけれど、そっと頬に触れてくる。
「誰も知らないところであなたが使って、そのまま誰にも見つからず隠れてしまったらと思うと」
目に見えず、魔力探知にも引っかからない私の結界。もう二度と会えなくなるのではないかと恐ろしい、とフェルバートが告げる。そんなこと、と思う。触れてくる大きな手に、慰めるようにして擦り寄った。
「そんなこと、あるわけないわ。私の魔力量ではすぐに力尽きて、維持できなくなるに決まっているもの。心配しすぎよ」
真面目なのだから、まったくもう。と笑ってみせる。いってらっしゃいませ、お気をつけて、と玄関ホールで見送った。
フェルバートの背中が闇に紛れるまで見届けて、そのままぼんやりと暗闇に視線を向けながら、ため息をつく。
あれから結局、フェルバートと対話の時間は取れないままだ。次兄のドミニクからも返事はない。時折、セファの工房には行かず屋敷に留まろうかと考えるけれど、侯爵夫人にやんわり止められてしまう。侯爵夫人も外出の用事がある日は、私が屋敷に残ると護衛や侍女の配置がまた難しくなってしまう、とは、数度の押し問答の末に明かされた。
「考えが足りなくて、嫌になるわ」
再度、ため息が出る。何がですか? とエマが顔を上げたけれど、笑ってごまかした。
「今日のフェルバートは、いつ戻るかしらね。もっとお話をして、あの人自身を知りたいと思うのに。うまく行かないわ」
やっと日が落ちた夏の夜は、気温が高い。熱を持った大地を風が慰めてくれるけれど、この空気が冷える頃には戻るだろうか。
遠くで羽音が聞こえる。翼を持つ生き物の音だ。こんな暗闇を鳥が飛ぶのね、と夜行性の生き物をいくつか思い浮かべながら外を眺めていると、暗闇から大きな獣が舞い降りて来た。すんでのところで悲鳴を飲み込む。
「まだここにいたんですかローズ嬢」
その声に目をこらす。のしのしと大地を踏みしめながら近づいてくるのは、よく見れば拘束具をつけた魔獣で、その背に乗るのはフェルバートだった。
フェルバートが、 騎獣またがって舞い戻ってきたのだ。
「どうして」
「いえ」
どこからともなくやって来た下男に騎獣の手綱を任して、フェルバートは私のすぐそばにやって来た。長い足ですぐだ、私は立ち尽くしたままその姿を目で追いかける。
目の前に立ったかと思えば、優雅な動作で跪く。まさに、騎士さながら。いや、間違いなく騎士なのだけれど。
「ここ何日か、視線を感じたので。気になって引き返してきました」
かっと朱が上る。そんなにあからさまだったかしらと自らを恥じた。下から見上げてくるフェルバートの青い双眸が丸くなって、逃げ場がないわと後ずさりしそうな足を叱咤する。
「あぁ、いえ。違いました。そうですね」
私の醜態に、なぜだかフェルバートが慌てていた。ええと、その、と口ごもり、私の手を取る。
「俺が会いたかったので、戻って来ました」
「……まるで手慣れた物の言いようよ、お前」
お好みじゃありませんでしたか、と苦笑するその顔が少し照れていて、慣れないことをするものではないわよ、とつい可愛くないことを言ってしまう。
本当は、とても嬉しかったけれど。
「ローズ嬢、まだ眠るまで時間はありますか? 少し話しましょうか」
フェルバートからの提案に、私は頷いて部屋を用意するようエマに伝えた。
「ちょうど、聞きたいことがあったの。嬉しいわ」
「聞きたいことですか?」
改まって? なんだか怖いですね。とフェルバートが言うので、怖いことなんてないわよ、と私は笑う。
「フェルバートは、私の何を見て求婚してくれたのか、ずっと知りたくて」
優しい顔のまま、フェルバートの顔が固まった。それを、上から見下ろすのはなんだか気分がいい。手を取られていなければ頰をつつくのに、と思っていると、ゆっくりとその表情が動いて、形のいい眉が下がった。
「やっぱり、怖い話じゃないですか」
失礼ね。と私は笑った。
以前と同じ、大きな窓のあるあの談話室を用意され、フェルバートがますます気まずそうな顔をしていた。そんなに気にしなくてもいいのに、とさっさと長椅子に腰掛けて、隣を叩く。エマが用意してくれたお茶はいつものとは違って、爽やかな香草茶だった。
「……トトリは」
「今日はもう下がったわ。明日、早い時間から付いてくれるのですって」
本来トトリが側仕えとしての配置に組み込まれるのはおかしいことなのだけれど。私専属の侍女が現状、エマしかいないのが問題だった。エマ自身も侯爵家から監視を受けている身なので、人手が足りていないのだ。
かといってもう一人増やせば私に三人付くことになり、それだと少し多い。昼間だけ、通いでもう一人雇うかどうか、侯爵夫人も悩んでいるようだった。
「……やはりローズ嬢、少々迂闊では?」
そうかしら? と思う。未だ談話室の入り口に立ち尽くしているフェルバートに、いいからこっちにきて座ったら? と促した。
フェルバートは少し考え込んだ後、卓を挟んだ向かい側に腰を下ろした。
「いいですか、ローズ嬢。まだ、結婚前、ですよ」
「……そういうもの?」
「少なくとも我が家では、いえ、俺たちは。……節度は保つべきです」
そういうものなの、と頷く。
「お見送りの際に、抱擁の一つもしてはいかがと、侯爵夫人に言われたけれど」
「しなくていいです」
返事は素早かった。額を押さえてうなだれるフェルバートが少し疲れて見えて、早く本題に入らなくてはと気が急いてしまう。
けれど改めて聞くとなると、どこか気恥ずかしくて言葉が見つからなかった。
「ええと、それで……フェルバートはどうして私に求婚したの?」
その挙句に、そのまま聞くことになってしまって、こんな間の抜けた問いかけがあるかしらと目が遠くなった。対するフェルバートは不思議そうな顔をしている。あらかじめ聞いたからか、今度は固まらなかったようだ。
「どうして、と言いますか。ローズ嬢、俺の求婚は父の意向だとかなんとか変な解釈で納得していませんでしたか? どう言う経緯で考え直されたんです」
「経緯を聞かれると困ってしまうわ」
ただ、ええと、なんていうのだろう。だから。
「あぁもう! 私のことは今はいいのよ!」
叫んだ。
「いつもそうやって話を逸らして、人に何か話させようとするのよ」
「お見事です」
「馬鹿にしないで。もう!」
その手には乗らないわよ、と宣言すれば、フェルバートが真顔でうなずく。
力が抜けてしまった。なんなの。と笑いながら、長椅子の背に体を預ける。
フェルバートが、宙を見つめる。
「求婚のきっかけと言われると、俺も困ります。俺は、ただ……。まわりから、言われるまま努力してきたあなたを、寂しいだけでいさせたくなかった」
「私、寂しかったのかしら?」
「少なくとも、周りに沢山人がいて、満たされている風ではありませんでしたね」
思い当たる節があって、すこし胸が痛んだ。
「もっと報われるべきだと思いました。一年半前の、あの時も。あんなことになって、そのまま辺境の地で絶望させたくなかった」
「異民族の長に嫁いでも、ひょっとしたら幸せだったかもしれないわよ?」
「あの一族の長は、妻を複数人娶ります。すでにイシルイリルには奥方が数人いる。ローズ嬢があの時あのまま嫁いで、幸せになれたとは思えません」
きっぱりとした言い方に、本当に私のことを知った風に話すのね、と苦笑する。
「昔からそうだったの?私、昔から、あなたにそんなふうに大切に思われていた?」
王太子妃教育ばかりの日々の中で、実はそんなふうに思ってくれる人がいたのかしら。
「いえ、申し訳ないですが」
フェルバートは、昔を懐かしむように優しい顔で否定した。
「アンセルム殿下の婚約者の存在を知ったのは、アンセルム殿下に仕えるようになって少し経った時でした。最初はどんな優秀な高貴な美女が、と期待していました」
勝手ながら。敬愛する主人の婚約者に、理想を作っていたのです。と、フェルバートは誤魔化さずに告げた。子どもだったのでと弁解するけれど。
「それが、五歳の少女だと聞いて腹を立てました。それも、魔力量は極めて少なく、魔術学院に行く予定もない。毎日毎日勉強漬けにならなければ王太子妃として立てないほどの、不適格だと知ったときは、尚更に」
まぁ。と口に手をやる。ということは、
「贈り物を届けてくれていたのよね? そんな役目、本当に辛かったのではないの」
「荒れました」
こくりと頷かれて、気の毒に…と息を吐く。
「殿下とその婚約者の伝令役、という立場は、あなたを守るためにも必要でした。常に王太子が気にかけていることの象徴のような役目でしたから。贈り物がないときは、フォルア伯爵家の門番役だったのです。何せまだ八歳かそこらの見習いだったので、他にさせることもないんですよね」
で、それが理解できない馬鹿坊主だったので。
「荒れたの……」
「そこは育ちの良さが出て、訓練場で。ですが」
流石に悪い遊びは覚えませんでしたね。
それで、と私が先を促そうとすると、「ところでローズ嬢」と話しかけられた。
「王太子妃教育の中で、体を動かす類のもの、こなした期間を覚えていらっしゃいますか」
瞬きをする。突然聞かれても、目を伏せた。あの頃は椅子に座って机に向かうか教師の真似をするか、あとは舞踏を多少嗜んだけれど。
ふと、木剣を握った感触を思い出した。
「そういえば、一通りやったわ。馬にも乗ったし、剣も持った。でも続かなかったわ。どれもこれも物にならないから、って。だから、最後に舞踏が残ったの。体を動かすのはうまくないけれど、音楽に身を任せるのはなんとか及第点だったから。剣は一度だけね。訓練場で、同じくらいの子と向かい合ったことは覚えているけれど」
「そこで、剣の手合わせをしたのも俺です」
「…………本当?」
間違いなく、とフェルバートが微笑む。
「革の鎧を纏って、逆に全く身動きの取れないローズ嬢と、訓練の途中で呼び出された俺でした。大人が剣を構えたら、ローズ嬢が怯えてしまうかもしれないという理由で」
あぁ、それはもう、怒ったのでしょうね、と思う。目に浮かぶようだった。
「なので、自分で勝手に試合形式にしました。先輩に審判役を無理矢理まかせて、誰かが止めに入る前に合図をさせて」
指を揃えて、フェルバートが手刀を作る。上に掲げて、ストンと下ろした。続いて横なぎに。
二撃も繰り出したのかと呆れた。少年フェルバート、主人の婚約者になんということをしたのだろう。今更すぎるけれど、つい無事を祈ってしまう。
「ローズ嬢は地面に倒れました」
無事では済まなかったでしょうね。先ほどの祈りは無駄な物になってしまった。私はいいのだ、今こうしてピンピンしているので。さきほどからずっと、自分のことではなく、昔のフェルバート少年の話として聞いているので、ついフェルバート少年に肩入れしてしまう。
「もちろん、革鎧の上から当てましたが」
「そういう問題ではないと思うわ」
「その通りで、まぁ、ひどく叱られました。上司は慌てふためくし、先輩は青ざめて卒倒しそうだし、最後にはアンセルム殿下までやってきて」
ふと、その場面が蘇ってきた。
地面に座り込む私を助け起こして、あの人は聞いたのだ。
「何か、この場で言いたいことはあるか?」
と。
私はそれに、なんと答えたかしら?