17.白百合の訪れ
お待たせしました。
口にしてしまってから、トトリとエマの視線を浴びてハッとする。膨れ上がった不安を押し込んで、深呼吸をした。
取り乱したまま考えても、仕方がないもの。
「推測を重ねても、本当のことはわからないわ。どういう意図を持って私が教育されていたのか、王家に切り捨てられた今はもう、すぎたことだし」
そう言って、何もかもなかったことにして、これからを望まれた通りにただ生きていけたらいいのにね、と思う。家族と二度と会えなくとも侯爵家の一員として、ハミルトン侯爵の庇護の元、フェルバートの隣で。
トトリがいつまでそばにいてくれるかはわからないけれど、時々セファに会いに行ったりみんなで集まってお茶をしたりして。当初目指していた通りの、穏やかな、波風のない人生を歩んでいく。
そういうことができたとして、それもこれもすべて王に結婚の許しを得てからだった。夏以降に決まった縁組は、慣例的にその年を締めくくる晩秋の夜会で王の許しを得るのだ。
「エマ、他にも思い出したことがあったら教えてくれる?」
うなずくエマに、よろしくねと微笑んだ。悪い風に考えればいくらでも出てくる。不安だってある。けれど、なんの根拠もない想像に押し潰されるわけにはいかない。
ただ一つの場所を目指して、周囲に言われるままやってきた私は、強くならなければ。今はもうフェルバートの婚約者で、相手は変わったけれど目指していた場所にたどり着いたと言える。
それに。
必ず、幸せな花嫁になる。と、言われたのだ。絶対だ、と。
それを、不安に急き立てられた自らの行いによって、台無しにするわけにはいかない。
ただ一人の友人に、無様な真似は晒せない。
「……かっこうよくなりたいわ」
トトリとエマが顔を見合わせているのを眺めながら、ため息が出た。些細なことで動揺しない自信が欲しい、と切実に思う。なにがあっても、どんなことも自分で切り抜けられるような力が。
ふと、トトリがまん丸な目をして、口を開く。
「姫様はかっこいいですよ?」
「へっ」
思いもよらない言葉に心底気の抜けた声が出た。
「きっぱりと言い切る姫様、とってもかっこいいです。笑顔を気に入っているから、気にせずそこで笑っていなさい、とはっきりおっしゃった姫様……。とっても素敵でしたよ」
やだ、なんだか恥ずかしくなってしまうわ。
「姫様は昔からそうです。くよくよしている人がいると、思いもよらない優しい言葉を、強く格好良く言い切るのです。上から目線でーーー」
エマの声が明るくて一瞬騙されそうになるけれど、ちょっと待って今の褒め言葉? と凝視する。エマは笑顔で固まっていた。トトリが噴き出している。
「ローズ様はえらいので、もちろん上からでいいんですよ」
「トトリ、それはエマのために取り繕ってるつもりなの? 私怒っていいかしら」
もう、と拳を作ると、まぁまぁと押さえられる。
「それにしても、侯爵夫人、遅いわね」
すぐ戻ると思っていたのに、ちっとも帰ってこない。来客か何かだろうか。トトリもエマも何も知らないので、三人で首をかしげる。トトリが様子を見に行こうかと考えたけれど、エマと私を二人にはできないらしい。ではエマが様子を見に、というのも、現状、エマは一人で屋敷内を歩かせられないという。
いつもなら侯爵夫人から借り受けた侍女がもう二人ついているはずなのだけれど、今日は侯爵夫人と衣裳の注文で人手が足りていると判断され、久方ぶりの休みを与えられていたのだった。
「それなら、三人で探しに行きましょうか」
私が提案してみる。それなら問題ないかと思うけれど、どうかしら。
「もしも、ここで待っていなかったことを怒られたら、私が謝罪するわ。部屋に戻りたくなってしまったので、と正直に言えばいいのよ」
この談話室はとても素敵だけれど。と付け足して、トトリをみる。エマもトトリを窺うようにじっとしていて、トトリがため息をついた。
「わかりました。では、少し片付けをしますのでお待ちください。途中、食堂に寄ることをお許しください。散策もせず、まっすぐお部屋に戻りましょう」
働き者のトトリがいうので、それはもちろん構わなくてよ、と笑った。ほら、エマも。と促せば、ハッとしたようにエマもトトリの手伝いをする。
侍女としての仕事の手際はエマに分があるけれど、側仕えに必須と言える気配りや先を見越した備えはトトリの方が行き届いていた。劇団では、先々の段取りや急な予定変更での順序の組み直しなど、臨機応変に日々仕事をこなしていた経験が生きているのかしらね、と感心する。
「行きましょうか」
二人の準備が終わったのを見て、私は立ち上がった。
まずは食堂へ寄って、トトリが用事をすませる。玄関ホールの近くへ差し掛かっと時、ふと、話し声がきこえてきてあしが止まった。声の一人は侯爵夫人だ。
もう一人は、よく知っている人の声だった。さっと血の気が引く。
とっさにエマを振り返る。顔面を蒼白にして、ぶんぶんと首を振っていた。トトリが私とエマの様子に顔色を変えて、声がする廊下の先へと早足でいってしまう。
私はその場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
「不思議ね。どうしてそんな風に邪魔をするのです? 母が娘に会いに来るのがそんなにいけない?」
身を翻して、この場から離れなければと思うのに、足が動かなかった。聞こえてきた声に、心がざわめくのがわかる。
「おかあさま」
それ以上口走らぬよう、口元を押さえた。
「あなた方に、あの子がうまく扱えて?」
声の方に進みそうになる足が、止まる。聞かない方がいいと全身で思うけれど、足が動かない。
「目的も、使い道も決まっているわ。もう誰にも止められない。なので、わたくしが連れてゆきます。これ以上ここにとどまるのは、今後を思えば酷すぎるでしょう」
あなた方のためでもあるのですよ、と母が言う。
「晩秋の夜会で、国王陛下から結婚の許可が降りると、本当に思っているのですか」
母の言葉が、私の胸に突き刺さる。
「降りませんよ、そんなもの。あの国王陛下が許すわけがないでしょう」
さぁ、お人形遊びはおしまいです。ローズをお出しなさい。と母が侯爵夫人へつめよった。
「いい加減にしてください」
侯爵夫人が声を張った。
「かつて魔術学院在学中、学院の白百合と学院中から呼び慕われ、憧憬を一身に集めたあなたが、なんという有様です。恥を知りなさい。それでも王国の秘宝と謳われる、ローズ・フォルアリスの母親ですか」
「……どうあっても、ローズは出さない、と?」
精彩を欠いた母の声に、ぞっとした。聞いたこともない声音だった。お母様、と心が叫ぶ。母の言っている言葉の意味は何一つとしてわからなかった。ただどうしてと詰め寄りたいことがたくさんある。私、ここで出て行って、母を問い詰めるべきなのだろうか。
「いずれ必ず後悔しますよ」
「末の愛息子が、とっくに覚悟を決めているの」
母の言葉を遮るようにして、侯爵夫人が囁いた。
「とっくに運命を定めた騎士の前に、立ち塞がる魔王の役は真っ平よ」
「……馬鹿な人」
それが、と軽蔑しきった声で母が言う。
「それが、わたくしたちというものでしょう」
その場を離れていたトトリが、早足で戻ってきた。私の肩を抱いて、来た道を引き返す。さっきまで全く動かなかった手足が、トトリに促されることで動き出す。強く掴まれた腕の感触に、ただ集中して足を進めた。
「なにをしていたの、あの人」
母の声が聞こえなくなって、ようやく私は声が出せた。本来私が使うことのありえない、使用人が使う内階段を使って、客間へと戻る。信じられないほど狭い通路を進んで、どこを歩いているのかわからなくなりながら、たどり着いた部屋の長椅子に座り込んだ。
「運命ってなに」
運命を定めた。運命を誓った。
運命を共にすることを、決めた。
侯爵家にお世話になってから急によく聞く言葉だ。そんなに口にするかしら。と、なんだか嘘寒い。
すこし、気軽に口にするには大仰だわ。もっと、大事な、ちゃんとした意味を見失っていそう。
真意を見抜くことはできない、けれど、誰にまつわる言葉として聞いてきたかは明白だった。
「ねぇ、トトリ」
はい、姫様。とトトリがそばで膝をつく。けれど、その先を言わせてはくれなかった。
「大丈夫ですよ。姫様。フェルバートは、私が初めて会った時から、それまでも、今も、ずっと、姫様のことだけを大事に思っています」
ですから、とトトリが言い募る。
「そんな顔、しないでください」
どんな顔をしているのだろう。両手に手を当てる。運命、という言葉が、くるくると頭を巡っていた。
すべて、フェルバートのあり方に向けられた言葉だ。私と共にあることを決めた、フェルバートへの。
訳ありの私と結婚することを決めた。ただそれだけのことに、こんなにも何度も聞くかしら。
「ねぇ、エマ」
そう言えば、聞いておかなくてはならないことがあったのだ。
はい、とエマが進み出る。
「エマは、お母様に何と言われて、ここにきたの?」
「おかしな指示はなにも。本当です。ただ私は、姫様のそばについていて欲しいと言われました。絶対に一人にしないでと…」
「まるで、絵本に出てくる『お母様』のようね」
娘の無事を祈る、優しい母親のような言葉だ。
膝の上で、拳を握る。取り乱さぬよう、ただ事実を浮かべ並べた。想像も推測もいらない。実際にあった出来事だけを胸に留める。
ぺし、と頬を叩いた。トトリの口からぎゃー! と悲鳴が上がる。もう一度、べしり。
「姫様…?」
「しっかりしなくてはね」
何度も何度も、こんな風にうろたえて立ち尽くすのはごめんだ。次はこんなことがないようにしなくては。振り回されるトトリとエマがかわいそうだ。
「兄に面会依頼しましょう。ドミニクお兄様に手紙を出すわ」
あえて、次兄を選んだ。城に出仕していて居場所が近いし容易に把握できる。そして、あの一年半前の婚約破棄現場を取り仕切っていた張本人だった。
「母が侯爵家を訪ねたのが、エマを連れてきた日や今日だけとは限らないもの。侯爵夫人にどれだけのご迷惑をかかけているかわからないわ。兄を通しても変わらないなら、正式に抗議します」
屋敷に来たばかりのことを思い出す。早々にセファの工房へと促され、追い出されたのかしらと感じたあれは、全くの思い違いだったのだ。
「私、守られていたのね」
知らず知らずのうちに、守られていた。ハミルトン侯爵と侯爵夫人は、私を確保することにどんな利を見たのだろう。それとも、本当にフェルバートが私を望んだというただそれだけで保護を受け入れたのだろうか。
頭から否定していたそんな可能性を、やっと考える。
では、フェルバートはなにを考えているのだろう。もしかして、私、とてもひどい態度をとっていたのかもしれない。
「私、フェルバートとたくさん話をしなくてはね。あの求婚が、真実であるなら」
悪戯っぽく笑って見せる。
「私、あの人のことを、なに一つ知らないのだから」
侯爵夫人が先輩です。