16.侍女エマの証言
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長椅子に腰掛け、ほぅ、とため息をつく。侯爵夫人の談話室だったけれど、侯爵夫人の姿はなかった。少し前に、家令が呼びに来て、少しのやりとりで退室して行ってしまったのだ。
商会の人たちもとっくに帰っており、私はトトリとエマを控えさせ、一人でぼんやりしていた。
勝手に部屋に戻ってもいいのかわからず、こうして侯爵夫人が戻るのを待っている。
エマがお茶を淹れてくれる。トトリは本来化粧師として私についていて、必要から側仕えの振る舞いをしていたけれど、本職のエマが今その役目のほとんどを担っている。そのため、トトリは基本的に私のそばにいるだけだ。そばで笑っているだけでいいと言ったのは私なので、特に不満はない。
お茶のお礼をエマに伝えていると、ふととトトリと目があった。ふんわりと笑ってくれるので、笑みを返す。
「二人とも疲れたでしょう。楽にしていいわ」
「姫様こそ」
私の許しを得たトトリが、屈託無く話しかける。
「私はそばに控えていただけでした。姫様こそお疲れでしょう。……楽しめましたか?」
「それはもう」
嘘偽りなく答えた。思い出すだけで口元がほころんで、思わず口元を両手で隠す。エマが目を見張っているのを見て、そんなに不機嫌に見えたかしらと首をかしげる。
「衣裳選びは大変だったけれど、自分のためだと思うから良くないのよね。誰の隣で、どんな時に着るかを考えたら良いんだわ。装飾品もそう。もともと綺麗なものは好きだし、産地の話を聞けたことも勉強になったけれど、どの衣裳に合わせるか考えるのも楽しかったわ。そのあとの小物も同じね。今とこれからの立場は、上の身分にも下の身分にも配慮する必要があるから、考えなければいけない場面がとても多くてーー」
一息に話してしまった。こほんと咳払いをして、瞬きを繰り返すエマを見る。
「今までと違う立場になってやっと、その苦労を知ることができる。というのは、上に立つものとして少し不出来だけど」
「姫様は十分苦労されてきてますけどねぇ」
そう言いながら、隣を見るトトリの視線が冷たかった。私がいないところで何かあったのか、エマが居心地が悪そうに身を竦ませている。
「エマは、今の暮らしは窮屈ではない? お母様と接触しないよう、トトリや侯爵家の侍女に見張られているでしょう。ここに置いてもらうようになってまだ五日だけれど、息苦しかったら仰い。侯爵夫人に私から意見してみるから」
「いえ! 平気です。これ以上姫様の立場を悪くするわけにはいきませんので」
ぷるぷると必要以上に首を振る娘に、そう? と首をかしげる。トトリはといえば、私の発言にやれやれと肩を落としていた。
「お前たちを使う以上、その環境を守り働きやすいよう改善するのは、主人である私の義務なのよ。わかっている?」
「と、姫様はおっしゃっていますが、エマ?」
「……あの、恐れながら、姫様。他の貴族のご令嬢方はそこまで考えていませんので、姫様もどうぞ私たちのことは捨て置いてください。その……」
言いよどんで、エマは口を噤んだ。伺うようにトトリを見上げて、トトリがため息をついて続きを引き取る。
「側仕えの職場環境云々の前に、姫様は自分の置かれている状況をもう少し自覚すべきです。私たちを気にかけている場合ですか。エマに聞きたいことがあるのでは?」
まったくもう、とため息を吐かれてしまった。そう言われても、となんだか腕をさする。
エマを見るたびに家族の面々が思い浮かんだけれど、侯爵家の人間の前でそれを聞くのはなんだかきまりが悪かった。結果として、物言いたげなエマへの視線を、見かねたトトリが拾い上げてくれたようだった。
申し訳なくてありがたくて、私はエマへと向き直る。
「……エマ、みんなは元気?」
「は、はい」
「父も母も、兄たちも、妹もあそこで働いていたみんな。私がいなかった間、何事もなかったかしら」
「はい。はい。皆様お元気にお過ごしでした」
エマが優しい顔で笑う。屋敷にいた頃は硬い表情しか見ていなかったので、表情が緩むと素朴なあどけない雰囲気になるなんてこと、今更知った。
トトリはなんだか厳しい目で見るけれど、あの頃も、エマが優しかったのは覚えている。あの家の侍女や侍従、家令たちは、私が教師をつけられて勉強する毎日の中でも、欠かさずお茶の時間を設けるために苦心してくれていた。
王家の指示で我が家へ赴いていた教師たちは、本来使用人はもちろん我が家の人間誰一人として命令を下せる立場にない。それでも、母の指示だと言い募って、この屋敷内の采配は母の領分だからと食い下がった。
「あなたの焼いてくれた、マグアルフのタルト、今でも美味しかったことを思い出すわ。すっかり好物なの」
特に厳しかった、礼儀作法の指導。王族としての振る舞いを、教師の見本のまま話して振る舞うことがどうしてもできなかった私に、できるまで繰り返しやってみせるよう言った。それはいつまでもいつまでもいつまでも終わる気配がなく、私も時間の感覚がなくなって、永遠に続くかに思えた。
けれど、気がつけばお茶の用意がされていて、私に話しかけることがある数少ない使用人が、「姫様、ご休憩を」と申し出たのだ。
そうして、休憩を挟んだ後の試験で、無事教師から及第点を手に入れることができた。あれは、見かねた使用人たちが先に準備をした上で、伝達不備を装って教師に休憩を提案してくれたのだ。「休憩と伺ったので、準備いたしましたが?」というように。
「私が焼いたことを……ご存知で……?」
声を詰まらせるエマに、笑って頷く。
あの日食べたタルトは甘酸っぱくて美味しくて、滅多にないことだけれど、製菓担当に美味しかったことを伝えたのだ。あたりを気にしながら囁くようにして、作ったのはエマなのだと教えてくれた。
それ以来、赤い宝石のような大粒のマグアルフは私の好物になった。それを誰にも伝えることはなかったけれど、セファとの旅で最初に泊まった森を抜けた村の特産だった。森を抜けて疲れ切って食欲も失せた私が、マグアルフだけは無心で食べていたのを、セファは覚えていてくれたのだ。
「また焼きます」
エマの顔は真剣だった。トトリが不思議そうな顔をする。
「……侍女のあなたが、お菓子を作っていたんですか?」
「伯爵家では行儀見習いでお世話になっていたのですが、ええと、ちょっと変わったお屋敷で……。興味があることはなんでもやらせていただいていたというか。焼き菓子が好きな私は、家政担当にどうしてこんなに美味しいのかと質問を繰り返していたら、気がつけば興味があるならと助手になっていて」
側仕えとして雇われているはずの侍女が? とトトリが呆れる。本当に変わったお屋敷なんです、とエマは繰り返した。
貴族令嬢として大変高貴な出身だった母は、その家柄の庇護のもと破格の待遇を受けて育ったという。先人が積み上げてきた物を軽んじることも厭わない先進的な考え方は、この国の貴族社会ではなかなか受け入れられず、その評判と身分の高さから結婚先選びが難航した。
若くして爵位を継いでいたフォルア伯爵も同様で、国外への留学経験を経て他国の商人と懇意になり、事業は成功しているもののやはり貴族社会では馴染みのないやり方を批判されていた。
そこで、母の後見人は二人の婚約を取りまとめた。ほとんど本人たちの了解を得ぬまま結婚話は進んだそうだが、当初から今に至るまで夫婦仲は非常に良く、四人の子宝にも恵まれた。性格や考え方の一致から、数々の事業も協力し成功を収め、広大な領地を保有するフォルア伯爵領はさらに発展することとなっていったという。
そこで二人はますます意気投合し、他国で見聞きしたことや、独自のやり方を屋敷内に取り入れていった。新しいそのやり方に奔走するのは執事をはじめとする使用人たちで、結果的に人手が不足しがちなフォルア伯爵家で働いていると、いろんなことを覚えなくてはならなくなる、ということだった。
「父と母は、ひょっとしてええと、……とっても、変わり者?」
私の問いに、エマが苦笑する。とても正直に答えられないだろうけれど、そういうことなのだろう。そうだったのね、と呟いた。
気まずそうに私を一瞥してから、トトリは首を振った。
「作れる理由がわかりましたが、エマがつくったものを姫様にお出しするのは難しいですよ」
「わかってます。でも、侯爵家の家政担当へ姫様の好物を伝えることはできるでしょ」
ふうんと、トトリはエマを見つめる。私にはいつも優しいトトリから好意的な言葉が出ないのがなんとなく不思議で、つい口を出してしまった。
「トトリ、どうしてエマに冷たいの」
「ここに来た経緯を思えば、私がエマを警戒するのは当然ですよ、ローズ姫」
「でも侯爵家に来てから、エマはよく働いてくれているし、そもそもここに来たのだって母に振り回された結果だし……。もう少し……」
「姫様」
トトリが私をまっすぐ見つめる。私も同じように見つめ返す。しばし見つめあって、トトリが一度目を閉じた。
「今から大変出すぎたことを、申し上げます」
度が過ぎていましたら、お叱りを。と、非常に心苦しそうに前置きする。私はうなずいて、構わないわ。と答えた。あまりに簡単に返し過ぎたのか、じとっとした目で見つめられる。
なあに? 言ってごらんなさい。と微笑んで見せると、小さくため息をつかれた。ええと、何度目かしら。
「……私、姫様の今までの生活、やっぱりちょっと変だと思います」
どきりとした。思わずトトリの目を見る。褐色の瞳が、じっと注がれていた。初めて真正面からこんなにまじまじと、トトリの顔を見たかもしれない。
以前、セファにも言われたことだ。街道が交わる街の高台、大聖堂の前で。
目の前の化粧師も、あの時のセファと同じような静かな瞳で見つめてきていた。
「その光景をそばで見ておきながら止めることもなく、黙認し、あまつさえ協力してきたであろう方々を、私は信用できません」
きっぱりとした言い方だった。わー、と思う。もしかして、とつい頰に手を当てて問いかけてしまう。
「……トトリ、怒ってくれているの?」
「そりゃ………。なんで嬉しそうなんですか」
嬉しいに決まっているわ、と私は笑う。私のことで、私の代わりにそんな風に怒ってくれるんだから。
「……フォルア伯爵のお屋敷は、何もかもが変わっていましたけれど、……姫様のお世話に関する命令が最たるものでした」
あの頃のことを、今更弁明するつもりはありませんが、と付け足したエマの言葉に、トトリが身を乗り出した。詰め寄るようにして、先を促す。
曰く、母に認められた者しか話しかけてはならない。年の近い娘は特に親密になることを許されず、私のそばでの職務中は使用人同士でも口を開いてはならなかった。さらに、城からやってくる教師たちの前ではそれを厳守するよう徹底された。
何か疑問を抱いても使用人の間でさえ話題にすることは禁じられ、何かあれば母へ申し出ることも周知されていたらしい。それでも、母は私についての疑問を聞くだけで何か答えることはなかったという。……とういうことは、エマは何か私のことで母へ申し出たことがあるのかしら。
「王太子妃教育とは伺っていましたけれど、……その、五歳から変わらぬ環境と伺った時は、耳を疑いました」
「……本当に王太子妃教育のためだけに、そんな生活をしていたと?」
「そう聞いています。それと、もうひとつ」
私の前で、魔法を使ってはならない、という制約があったという。これは本当に異様な指示だった。ええと、とトトリがエマに確認を繰り返す。
「……本当に? 魔封じの護符を複数所持していて、それをただのなんの罪をおかしていない使用人につけさせていた?」
「姫様のお世話をする魔力持ちの使用人は、皆、魔封じの護符を持たされていました」
本当に、とエマが繰り返し頷く。私も自身もそうでした。と請け合った。エマは杖持ちではないけれど、魔術学院を卒業している歴とした末端貴族の出自だそうだ。
杖を所持していなくとも、魔力を持つ貴族は術式と詠唱さえ知っていれば魔術や調合を行使することができる。もちろん杖持ちに比べれば魔術の行使回数に制限はあるけれど、性能にそれほど差はない。魔力を込める型の魔術具を使用するし、魔力特性値が高ければさらなる性能の術式を使いこなす。
生活に欠かせない自身の能力の一つだ。それを、たった一人の人間のために禁じていた、という。
「姫様の前で使用人が魔術を行うことは、禁忌に近かったのです」
知らなかった事実に、私は二人の会話に言葉が挟めなかった。まって、と記憶を振り返る。ひやりと、心臓に冷たいものが走ったような気がした。
私、両親も、兄たちも、魔術を使っているところを見たことがあったかしら。
咄嗟に、いいえ、と記憶が反論する。魔術学院に通っていた兄たちが、楽しげに魔術を使って見せてくれたことを覚えている。少しほっとした。ただの思い過ごしだった。と、大きく脈打った心臓を両手で押さえて落ち着かせる。
あぁ、でもちょっと待って。
第一王子の婚約者になってから、家族が魔術を使ったことを目の当たりにしたことがあったかしら。
あれ、と思う。やっぱり、これ、なんだか。
「……変、かもしれないわ」
今週もよろしくお願いします。
魔術師の杖、というのは、手軽に魔力が込められて、魔術を行使できる便利な道具。といった具合です。