4.第一王子と側近候補
幸せに。
そんな言葉で締めくくられた手紙に、クラクラする頭を抑える。……世界を救う? 何が? どういうことなの。
束になっている書類を見る。これを読み解いた結果、何が待っているのか、知るのが怖かった。思わず書類の束を文箱にしまって、書棚に片付ける。フェルバートは目を通したと言っていたけれど、そんなに差し迫った様子はなかった。彼には読み解けなかったということだ。
「ほんの少しだけ、庭を歩くわ。日傘を用意して」
夏の太陽が中天に差し掛かっている、出歩くには向かない時間帯の申し出に、この時控えていた二人の侍女は一度戸惑いを浮かべたけれど、流石に王城の侍女だけあって教育が行き届いていた。無言で用意を整え、日よけの肩掛けと傘を用意する。付き添いは一人でいいから、テラスから庭に出る直前に、騎士フェルバートに言付けを頼む。すぐ戻るから、来なくていいとも。
侍女から傘を受け取って、自分の手で持つ。少し離れて歩かせて、私自身も考え事をしながら歩いた。広い庭園は生垣で区切られているけれど、アーチや木戸で行き来はできる。しばらく進むと人の気配があったけれど、こんな時間だ。午後のお茶会の準備に奔走している使用人かもしれない、と歯牙にもかけていなかった。
「ローズ……?」
名前を呼ばれて、動きが止まる。あっと思ったときには、日傘を持った手が遠慮なしに引き寄せられていた。手から日傘が離れ、地面に転がる。
「こんなところで、何をしている」
「あんせるむ、でんか」
私の、婚約者。だったひと。
「フェルはどうした。あいつめ、片時も離れぬなどと豪語してこのざまか。ローズに何かあったらどうする。すぐ騙されて丸め込まれるのだから、事を荒立てず説得して連れ出して誘拐するなど簡単なんだぞ」
非常に不機嫌な顔で恨み言のような言葉を呟くけれど、最後の方は聞き取れなかった。それに何より、私にとって婚約破棄されたのはつい昨夜のことで、いまだに傷が癒えていない。どんな風に接したらいいかなどわからない。
怯えている私に気づいて、掴んだままの腕の力を緩めた。
「すまぬ。少し取り乱した。しかし、なぜ侍女を一人しか伴わず庭に? もうすぐ茶会だろう。支度があるのではないのか」
生真面目な顔で、顔面蒼白であろう私を気遣うように問うてくる。金の髪に、碧の瞳。並びたてばお揃いの色彩と、誰もがため息をついた、かつての王太子とその婚約者。昔の話。とうに破綻した、夢物語だ。
「殿下こそ、お一人で、なにを」
つい、人のことを言えるのかと口答えをした。うん? と殿下は腕を組んで、む、と口を引き結ぶ。しばし間があって、その口元が緩んだ。
「昨夜、第二王子が王太子としてお披露目された」
その顔は、緩んだ笑みだった。寂しげだったけれど、肩の荷が下りたというように、ほっとした、と全身で告げているように。
「これで、やっと、王太子ではなくなった」
独り言のようにアンセルムはささやいた。私の方を見もせずに。やっと辿り着いたとでも言いたげで、けれど、準備が終わった、とでもいうような。
目があうと、取り繕うようににっこりとする。私が王太子妃に相応しくあれと振舞っていたように、この人も王太子らしく振舞うべく張り詰めていたことを知っている。お互いに、立場を守り、努力しあえるよき伴侶になれると、そう思っていた。
「本来、第二王子自身の手で、第一王子を引き摺り下ろして王太子位を手に入れる筋書きだったのだがな。あなたは、思っていたより王都に愛着があったようだ」
読み違えていたのは、そこだったのだろうな、と呟くアンセルムの目は静かだった。
「辺境では、随分奔放に振舞っていたと聞く。知っている様子とまるで違う噂に、実際見るまで信じられなかったが、王都での大立ち振る舞い。元婚約者である私への追求劇……」
指折り数えるようにして、痛快だったなぁと笑う。私はただ、その様子を固唾を呑んで見ているだけだ。私の記憶にない、異界渡の巫女の情報を、気取らせぬよう聞き入る。随分自由に振舞ってくれたらしい。彼女も私と同様に、何も知らない相手になりすます無理難題をこなしていたということなのだろう。
「けれど今、目の前にいるあなたは、まるで以前のままだ」
じっ、と見つめてくるアンセルムの瞳は、ただ真実を問うていた。
探るような視線に、息が詰まる。何を聞かれるのか、聞かれたらどう返すのか。思考は空回りして、何も備えができない。
「あなたは、誰だ」
「あぁ、こんなところにいたのですか、ローズ姫!」
表情を変えぬよう、取り繕うのが精一杯だったその瞬間、明るい声が張り上げられ視線が奪われた。
生垣の切れ目から真っ直ぐにやってきた男性を、私は呆気にとられて見上げる。アンセルムに目もくれず、私の目の前に長い足で一息にやってきた。板についたにこやかな笑みは、これが私自身の窮地だと気づいている、訳知り顔のようで。
今の今まで気付いていなかった、というように、アンセルムを視界に入れると慌てて礼を取る。
「第一王子殿下につきましては、ご機嫌麗しゅう」
「クライド・フェロウ! ワルワド伯爵家の三男か。まだローズにつきまとっていたのか」
「付き纏うだなんてとんでもありません。未来の妃殿下のため、日々ご用聞きをこなしていただけですよ。幼馴染ですし」
疑わしい目をアンセルムに向けられたが、思わずコクコクと頷いてしまう。
クライドは私の次兄の友人で、幼い頃から我が伯爵家に出入りしていた、幼なじみであり、3人目の兄みたいなものだ。アンセルムの婚約者として城に出入りするようになる頃には、次兄とともに文官として出仕しており、折々に城内の情報をさり気なく流してくれていた。
そういえば次兄から、今後側近として取り立てるには若すぎるので、先にどこかの重鎮をそばにおいて、そこから紹介という形の方がいいと言われていた。まぁ、今では過去のことだけれど。
けれど私を構うようになったきっかけに、私は関与していない。ほとんど押し掛けのような存在なので、付き纏うという表現もあながち間違いではないだろう。なにせ…
「ローズ姫」
声をかけられて、ハッと思考を切り上げる。伺うように視線をあげれば、クライドがにっこりと笑っていた。
含みがあるのは重々承知だけれど、にっこりと返してみせる。そのままクライドは放置して、アンセルムに向かって貴族令嬢の、礼を取った。
「殿下、迎えが来たようなのでこれで失礼いたします」
頃合いだった。今を逃せば、あのアンセルムはさらに追求してくるだろう。アンセルムも、これ以上は無理だと引き際を悟った。私とクライドを交互に見やって、両手のひらをあげてみせる。
「……話の続きは、またの機会だな」
あなたと気兼ねなく言葉を交わせることなど、そうそうないだろうが。寂しそうに言って笑って、私がその場を辞する前にアンセルムが身を翻して姿を消した。
ほっと息を吐く。肩の力を抜いて、傍らから感じる視線をどうやり過ごそうかと考える。これ、悪あがきというのでしょう、と諦めて振り返り、軽く膝を曲げて礼をした。
「ごきげんよう、クライドお兄様。困っていたところに割り入ってくださり、感謝申し上げま」
全て言い切る前に、片手で頰を掴まれ言葉が途切れる。う、と呻くと一瞬で解放された。
容赦のない握力に、痛む両頬を両手でさすりながら、思わず口を開いた。
「猫は相変わらずですね、お兄様」
「……ふん」
つい、皮肉を言ってしまう。私の目の前には、アンセルムに対してにこやかに軽薄に話す先程までの彼はすでになく、いるのは不機嫌に目を眇めて私を見下ろす青年だった。
「茶会の支度もせず何をしている。事前準備は整っているのか。それとも情報戦は放棄したのか? 辺境に行っている間に、俺が教えた何もかもを忘れて来たらしい。恩知らずめ」
実家の家族にも、俺にも、手紙の一つもよこさず、連絡を取ろうとしたのもつっぱね続け、どういうつもりだ。
なじってくる言葉の一つ一つによって、異界渡の巫女の行動を把握する。思うに、私自身を知る人物との接触を、できる限り避けたのだろう。どういう関係かわからないから。それはそれは、とめまいがする。長兄も、次兄も、妹も、両親も、この上なく激怒したことだろう。彼らの言葉一つ一つに唯々諾々と従ってきた娘が、辺境に行った途端反抗し、奔放気ままに振舞ったというのなら。
あぁ、叶うことなら私もこのまま一生会いたくないわ、と思う。そもそも勘当したのはあちらだというのに、怒られる筋合いはないのだけれど。
冷静な頭で考える傍ら、歓喜が押し寄せている自覚があった。喜びを顔に出さないように押しとどめる。視界に映るクライドは、不機嫌な顔をしながらもひっくり返って転がる日傘を拾いに行ってくれ、半ば義務のように私の手に押し付けてきた。
その、大きく骨ばった手を、逆に両手で握りしめる。
「ローズ」
クライドが、咎めるように声を鋭くする。けれど構わない。救われた気持ちになって何が悪いというのだ。幼馴染の、兄と慕う、けれど、けして私を甘やかさない人は、どうやら。
辺境にいた頃の、『私』を知らない。
私を知らない私を知る人たちに囲まれて、知らず不安だったのだと気づく。クライドの手を握る私の手は、小刻みに震えていて、それを押さえ込もうと躍起になっているうちクライドがどんな顔をしているか考えもしなかった。
日傘を握る手とは逆の手が、私の両手の上に覆うようにしてかぶさってくる。
「……怖かったのか」
ポツリと問われて、とっさに否定ができなかった。怖かったのか? 怖かったのか、ですって? 私の中では、ほんの昨夜、それまで信頼していたアンセルムに突き放されて絶望したところだったというのに。
聞くまでもないことを聞かないで、なんて、怒鳴ったところで仕方がない。だって、
「……あれからもう、一年以上経ってて、こないだ大立ち回りをし引きずり落としたっていうのに」
私が王太子によって婚約破棄の上追放されたのは、とっくに過去の出来事なのだ。それでいてこんな様子、不審がられて当たり前だった。
押さえ込め。押さえ込め。押さえ込め。私は、ローズ。勘当され、家名はなく、守る家も立場もないけれど。
背筋を伸ばして、日傘を奪い取る。思ったよりも時間を取ってしまった。身支度をしなければ。
「クライドお兄様」
変わり者の幼馴染を振り返る。いくら王太子妃になるといえども、とり入るには早すぎる段階で、クライドは私に近づいた。結局こうして王太子妃位は遠ざかり、クライドの努力は無駄となったのだ。もう、これ以上無為に過ごすことはないだろう。
「私、もう、ただのローズですから」
クライドは不機嫌な顔をしていた。いつものことだ。周囲の評価は軟派者。高位貴族の自由気ままな三男で、城に出仕して人脈を作り、親友の妹である王太子妃候補に取り入って、狡猾に城内の有力な地位を狙う切れ者。
誰にも分け隔てなく接し、王子など権力者にはわかりやすくおもねる。
「王太子妃にもなれない私に取り入っても、見返りはなくってよ」