12.君へ花をふらす
寝る前に、抱きしめて眠った絵本。
あの憧れた魔女の絵本の記憶は、瞬時に母の悲鳴と妹の笑みに塗り替わる。
いつものように、頭を撫でてもらうだけのはずだった。寝る前にほんの少しだけ撫でてもらって、また明日も頑張るのだと、そう思えるその瞬間がやっときたと。
母がぼんやりと、私が抱きしめる本について尋ねてくる。母との会話が嬉しくて、私は体を起こし、夢中で話した。
薄明かりの下、本を撫で、開き、内容を話して聞かせ、こんな魔女になるのだと、無我夢中で。廊下の明かりで影になった、母の表情にも気付かずに。
気がつけば、母が寝台に乗り上げ私の胸元を掴み上げていた。金切り声をあげて、本は叩き落とされ遠ざけられ、絵本のことも、魔女のことも、憧れのことも、何もかもを否定される。「よくもこんなものを」と言う言葉が、悲鳴の合間にようやく聞き取った。
騒ぎを聞きつけ駆けつけた兄が、床に落とされた絵本を拾い上げ、私を守るようにして母との間に割って入る。「第一王子殿下からの、贈り物ですよ」母を咎めるような冷静な声が言う。あれは、長兄だったろうか、次兄だったのだろうか。絵本は私の手に戻され、母の目に触れないようにときつく言い含められた。
それから数年、時折思い出しては手に触れて、そっと心を慰めた。魔術学院入学を控えた妹が、私の本を借りに来ることが増えた頃、彼女の目に触れるまではずっと私の部屋の片隅にあったのだ。
夕刻だったと記憶している。夕飯前の、わずかな自由時間。食堂に行く途中に立ち寄った妹が絵本を見つけて、お姉様、と声をあげた。「この絵本は?」と。母の反応が瞬時に思い出された私の口は重くて、なんとか話をそらそうとしたけれど、中を確認した妹が考え込むような瞳で、「あぁ、これが……」と呟く。
彼女が何を考えているかわからなかった。だから、そのぼんやりとした表情が突然、笑みに変わって背筋が凍ったのだった。
「お姉様、まだ、この魔女になるため努力されているんです?」
誰が彼女に伝えたのだろう。仮面のような笑みをたたえて、絵本を抱きしめるようにして進みでる。戸惑う私に、重ねて問いかけた。
「こちら、第一王子殿下から賜った絵本ですよね? 羨ましいわ。アンセルム殿下。素敵ですよね。もうずっとお持ちだったのでしょう? 読み飽きていらっしゃいますよね。こんなお部屋の片隅に、本棚の端の方に置いてあって、なんだかかわいそう。不要なら、私にくださいませんか。お姉様が持っているより、この本もずっと幸せだと思うのです」
畳み掛けるような言葉だった。詰め寄られて、拒絶できないまま、妹は笑みを深める。
「ありがとうございます。お姉様」
そうして、妹は絵本を持ち去った。誰にも訴えられないまま、とられた絵本の記憶は思い返さないようきつくきつくしまい込む。大丈夫、と夕日に照らされた部屋で、一人胸を押さえた。大丈夫、あの魔女に憧れた記憶はこの胸にある。第一王子から贈られた絵本がなくたって。
王と民と世界のために。
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花の香りに、心が慰められる。頭上から落ちてきた花を両手で受け止めて、視線を落とした。多弁の白い小さな花だ。白の中にいろんな色が透けて見えるような気がして、ほぅ、と見惚れてしまう。自国の植生はある程度把握しているので、私が知らない植物ということは、魔物の領域に咲く類だろう。見惚れるというよりは、魅入られているのかもしれない。魔力を帯びた花だろうか。
静かな靴音がして、壁側に大杖を立てかけたセファが私の隣に腰掛ける。
「出会った頃からは、想像できないことで悩んでるんだね」
セファが重ねて言う。フェルバートが私を嫌うことなどあり得ない、と。顔を上げられない私の横から、ため息が聞こえた。
出会った頃から、だなんて。まだ二十日も経っていないのに、そんなに変わるわけないわ。
「あの時にも言っただろ、君が荒地に飛ばされた時、一番迎えに行きたがったのはあいつだって。開発中の魔術具は登録制で、後見人から預かった当人しか使えない仕様になっていたために、僕が行くしかなかったってだけで。大杖は持っていけないし、旅の最中ろくに魔術も使えなくて苦労させたのは悪かったと思うけど」
もっと開発が進んでいてフェルバートにも使える魔術具ができていたなら、助けに行ったのはフェルバートのはずで、遠征や旅慣れたフェルバートならもっと快適な道行だったのだと。
「あの人がいた頃だって、ローズ様の立場を守るために何度あの二人が喧嘩したか。知らないからそんな不安になるんだ」
「怖かったですねぇ。巫女姫様は使命に必要なことだと言い張って一歩も引かないし、フェルバートも姫様としての振る舞いをわきまえるよう強要して。セファは今ほど腹をくくれていませんでしたし、私も加わったばかりで立ち位置を探っていた頃で。誰も止める人間がいない喧嘩は、本当に心臓に悪くて」
知らない話に、顔を上げる。異界渡の巫女の話をすがるように聞き入ってしまう。聞けば聞くほど、彼女のように振る舞えれば、なんて考えた。フェルバートと対等に言葉を交わしていたという異界渡の巫女。喧嘩ができるほど対等に渡り合っていたと聞いて、余計に取り残された気持ちになる。
「癪に障るけど、あいつ、君のことは大事にしているよ。それは、疑いようがないと思う」
トトリ、お茶をくれないか。とセファが言って、トトリがハイハイとお茶を差し出した。二人に励ましてもらっているようで、なんだか情けない。
小さくなっていると、焼き菓子のお皿が私とセファの間に置かれた。
「魔術での調合は疲れると聞きました。甘いものを口にして、少し休んでください」
ね、とトトリが笑う。笑顔が眩しくて、目を細めた。ありがとう、と小さく呟いて、お茶も焼き菓子も遠慮なく口にする。そんな私に、セファの視線が刺さっていた。
「どうしたの」
「いや、……嫌われたらどうしようって悩むくらい、フェルバートのこと、好きなんだなって」
「婚約者だもの。決められたとはいえ、だからこそ、寄り添う努力は必要でしょう?」
その努力が不要と言われて、困っているのだけれど。私の物言いが予想と違ったのか、セファが瞬きながらトトリへ目配せをしていた。トトリは苦笑して肩をすくめている。
なんだか、感情の行き場がなくなって、だんだんフェルバートだってわかってくれてもいいのに。という不満に変わっていく。
お互いをよく知らない二人が婚約を結んで、これから一生を連れ添うと言うのなら、努力は必要だと言うのに。無理に作るものじゃない、だなんて。好きになれるかどうかを考えろ? そうならなければ、どうなると言うの。
その感情を、膨れ上がった苛立ちを、必死で押し殺した。心を落ち着かせるために息を吐く。
「ダメね、感情に振り回されて、無様な姿を人に晒して」
とっくに迷子になっているけれど、それを人に知られるわけには行かなかった。邪魔になりたくない、もう二度と、いらないと言われたくない。これは独りよがりの自己愛で、フェルバートへの愛情ではないのだと、心のどこかでわかっている。
ふうん、とセファが隣で呟いた。テーブルに肘をついて、私を見ている。
「一緒にいて、安心できて、心底幸せって感じじゃないんだ」
そうだけど、とどきりとする。肘をついて体をこちらに向けているから、普通に座っているより距離が近く感じた。
「わざわざ好きになる努力をしなくていい、っていうくらいなら、好きになれなかったら婚約を解消してもいい、って言ってるのかもね。それか、結婚という形だけをとって、その実態はないものとする、とか。あの男ならやりかねないと思うけど」
なんだか勝手に恐ろしい解釈を口にしていて、そんなことあるわけないわ、と思わず首を振る。だって、貴族なのよ。より良い魔力を循環させ、次世代を残し、これまでの暮らしに報いるべきなのに。そんなずるが、許されるわけがないのに。
「僕は、貴族のローズ様でもただのローズ様でも、変わらず友だちとして君のそばにいる。それはトトリもだろう? なら、ローズ様。もしもフェルバートとの関係が破綻して、今度こそ何もかもなくしたなら、僕たちみんなでどこかに行こう。どこか遠い場所で三人で、楽しくのんびり暮らせばいいよ」
夢物語だった。まるでセファらしくない、絵空事。そんな、夢のような話を想像してみる。セファとトトリがいれば、大抵のことがなんとなる気がしてきた。私にできることなんてあるかしらと思うけれど、立ち上がるたびに何もせずに座っていてと言われた旅路を思い出す。
「あいつに嫌われたらどうしよう、なんて、不安にならなくてもいいよ」
思わぬ着地点にびっくりした。セファが、そう言った私のことをずっと気にして、その不安を払拭するためにここまで話をしてくれたのかと思うと、泣きたくなる。私、こんな風に優しくされても、いいのかしら。
「あいつ、君をどこか何にもできないお姫様だ、って頑なに思い込んでいるから、今度びっくりさせてみようか」
いたずらっぽく、優しい魔法使いが笑う。
「ローズ様、飲み込みがすごく早いし、やっぱり頭がいいよね。頭が勉強することに慣れていて、話がしやすくて、座学がとても優秀だ」
息が、止まるかと思った。喉が干上がって、セファを見ていられなくなる。
「いい質問も多いし、習ったばかりの事で質疑応答とはいえ会話が成り立つのもすごいと思う。護符づくりだって、魔力を込めること自体は躓かずに進めれた。心象を固めて強く想うのが上手なんだね。魔力はないけど、確固とした心象と、魔力特性が全てを補ってくれてる。結界系だと規格外だと思うよ。なんかすごい面白いことして見せて、フェルバートを慌てさせるくらい、いいんじゃないか」
そうすれば、フェルバートだって君のいうことに耳を貸すかもしれない。貴族としての心構えなら、君の方がずっと正しく身につけているんだろうから。
何と言っても、王太子妃としての教育を受けている。いずれ王妃で、国母に至る身の上だったのだから。
「セファ」
「やっぱり、君の優秀さを見せつける形が一番だと思うんだ。あのかくれんぼ向きだと謙遜する結界を、フェルバートは知ってるのか? あれに何か幻術よりの術式を組み込んで」
「セファ」
「……なんだいトトリ。ーーローズ様?」
もう顔を上げていられなかった。なんだか興が乗ったように楽しげに話し続けるセファを、トトリが諌める。
両手で顔を覆って、溢れる物を受け止めた。隣でセファが戸惑ったように言葉に詰まる。トトリが小さく息を吐いて、私の背中をそっとさすった。
「私も詳しくは知りませんし、誰かに明言されたわけでもないですけど。……ここしばらくずっと姫様のそばにいて、他の人から告げられる言葉や、姫様自身の言葉を聞いての推測に、なりますけど」
トトリが一度言葉を切った。
「姫様は、きっと、今セファが言ってくれたように褒められることが、なかったのです」
え、とセファの声がする。違うの、と私は首を振った。本当にできないことばかりで、望む水準にたどり着けない私だっただけなのだと。しゃくり上げるようにして口にした。
あぁ、なんてこと。これではまるで、髪を結い上げる前の幼子と変わらない。なんて、不適格の落ちこぼれだろう。こんな、こんな姿を身内でもない他人に晒して、羞恥で潰れるどころか心から安堵している。
求められることが違うのだとしても、かつての教師たちのように、セファをがっかりさせることはなかったのだと。それどころか、身にあまる言葉の数々を告げられた。
「そんなことでこんなに泣くのか、君は」
呆れたような声に、何よ、と思う。ほら、顔を上げてと促されて、負けたくなくて顔を上げた。泣き濡れた顔を晒すのはもはや今更だと開き直る。
「前に見た泣き顔より、ずっとましだけどね」
そんなことがあったかしらと訝しんだ。いつの話? と目で問う私に構わず、セファが座ったまま壁際に手を伸ばす。立てかけた大杖を引き寄せて、楽しそうにここんと鳴らした。
「フェルバートをあっと言わせる作戦会議をするよ。ローズ様。君、もう少しいろんな自信をつけたほうがいい」
ぽとんぽとん、と頭上に花がふる。機嫌の良さそうなセファが次から次へとここんと鳴らすので、色とりどりの花で埋まってしまうかと思った。
花まみれになったお茶会室で、トトリがいい加減にしてくださいと笑いだすまでそれは続いた。溢れかえった花はセファが瞬時に乾燥させて、香り袋やお茶にするため、しばらくみんなで手作業をすることに決める。
決めることはそんなことじゃないだろう、と、セファがまた笑った。