11.憧れの森の魔女
「……何かあった?」
「いいえ、何も!」
答えた瞬間、手元で薬品がぽんと音を出して煙を立てた。思いっきり吸い込んでしまって、けほけほと咳き込む。
あーあ、とセファが苦笑して、私が手にしていたガラス器具を取り上げる。調合室の奥へと持って行き、中の失敗作を鍋へ捨てる。
「どんな調合もそうだけど、魔力の込め方が雑だと失敗するよ。簡単なものは中断できるから、集中が途切れそうな時は一度置いて落ち着いてから仕切り直すといいよ」
セファの魔術講義が始まって、今日で四日だった。フェルバートと話をした夜の翌朝に講義が始まると没頭してしまい、いろいろなことを考える余裕がなくなってしまった。
魔術概論などの座学に始まり、魔法を魔術に落とし込む流れ、魔術がより研鑽された結果魔法になる流れ、陣の基礎、魔術を陣にする方法、魔力が必要な魔術具と不要な魔道具の違いとそのしくみ。魔術書を片手にセファの講義を聞くばかりで退屈かといえばそんなことはなく、新しいものを受け止めることに心が忙しい。
セファはあの大杖を手に、時折ここん、と床を小突いて、炎や水の球、光を生み出して説明してくれる。具現のための流れをきちんと思い浮かべた上使っている、れっきとした魔術だそうだけれど、私にとっては魔法そのものだった。
その証拠に、たまたま居合わせたクライドがものすごい表情でセファのその魔術を見ていたので、やっぱりすごいことをやってのけていたことはわかった。
聞けば聞くほど、本当に、魔術に関しては何も知らなかったのね、と思い知る。こんなにも知らないことがあるなんて思っていなかった。
三日間で聞くだけ聞いて、四日目にあたる今日は調合についての講義だった。魔力を得て育つ植物や魔物から剥ぎ取れる素材、魔石を使って、薬を作るのだ。魔術具や魔具、陣といった道具が普及しているので、簡単な調合ほど不要になり、調合に関する研究そのものが今は廃れつつあるそうだけれど、理想の道具や薬効を求めるのであればまだまだ有用な手段らしい。
特に、高機能の護符や結界装置は条件付けがそれぞれで、売られているものは高額な割に質は劣る。そのため、求める機能の結界装置を探すくらいなら作った方が早いのだという。手順を踏めば、魔力特性が足りなくとも調合によって装置を作ることは比較的容易なのだそうだ。
今はその初歩、素材を溶かし込んだ液に、自分の魔力を込めて使い切りの護符を作っているところだった。魔力の込め方次第では、小さな衝撃であれば弾けるという。
「魔力を込めるのって、疲れるのね」
「ローズ様は魔力が少ないから、特にそうかもね」
頷くセファに、なんだかクライドの気持ちが少しだけわかる気がした。講義の最中あれだけの魔術を使っておきながら、今も涼しい顔で私とは違う調合を繰り返している。セファの魔力はどれだけあるというのだろう。
「でも、こんな風に調合するのは、楽しいわ。なんだか物語の魔法使いみたいで素敵……」
「ローズ様は、誰か憧れている魔法使いでもいるの?」
鍋からすくった液体を洗ったガラス器具に注ぎ入れながら、セファが私に問いかける。その問いかけに驚いた私は、言葉も返せず瞬いてしまった。
「そういう、わけじゃ」
ないけれど。くちごもれば、セファはそれ以上追求してこない。そんなそぶりを見せたかしら。今まで、何度か心の中で、セファは優しくて優秀な魔法使いだわ、などと思ったことはあるけれど。魔法や魔術に目を輝かせたり、セファの工房についてあれこれ質問責めにしたけれど、知らないことを知ろうと思えばあれくらい普通だわ。普通よね? わからない、けれど。
「昔読んだ、絵本があるの」
つい、口が勝手に動いていた。
「王と民と世界のために。森の魔女が、王様に見出され世界を救う話。その力を振るって世界を救い、みんなに感謝されて、最後は森に帰っていく。けれど、王と民と世界は、魔女に感謝して、それを語り継ぎ末長く感謝する。そういう、お話」
その魔女に、どうしようもなく憧れた。
そう、あれは、第一王子との婚約してしばらく後、王太子妃教育が一般教養からより専門的な教育内容に進んだ頃だった。十歳くらいの時だったかしら。
第一王子からの贈り物だと、一冊の絵本が送られてきたのだ。学術書や神話書ではない、誰かの手による子ども向けの物語。もうこんなお話を喜んで読む齢ではないのに、と腹を立てつつも、第一王子から久しぶりに届いた贈り物が嬉しかった。
嬉しくて嬉しくて、何度も何度も読んで、夜は胸に抱いて眠った。もう、手元にはないけれど。
「王と民と、世界のために。私は、魔女みたいに魔術は使えないけど、いつか王妃になった時はそんな風に力を尽くすと決めていたの。王と民と世界のためにいつか役に立って見せると。そんな王妃になるために、今まで、ずっと」
もう、終わった話だけれど。そうね、王と、民と、世界のために、これからも生きていくのだわ。
「世界を救う、森の魔女……? そんな物語が王都にはあるのか」
森の魔女が、ねぇ。とセファが首を傾げながら、持っていたガラス器具を差し出す。これを両手で持って、中の液体に魔力を注ぐのだ。注ぐ魔力が一定であれば規定量に達すると固化が始まり、最終的には小石のような透き通った魔石に変わる。セファがやると一瞬で魔石に変わり、まるで宮廷道化師の手品を見ているようだった。
今度こそ、と意気込んでガラス器具を受け取ろうと手を伸ばせば、さっと避けられる。あれ、と思ってセファを見上げると、眼鏡の奥の薄茶の瞳が、とてもとても真剣な目をしてこちらを見つめていた。
「それで、調合の最中に何を考えていたの。四日間ずっとそうだ。……何かあったの?」
「……ええと」
最初の質問に戻って絶句する。こんなに回りくどく追求されるなんて思ってもみなくて、言葉を何も用意しておらず、気を抜けばありのままを話してしまいそうで、何としてもと口を噤む。
フェルバートとのあれこれについての一切を、セファにもクライドにもまだ話していないのだ。
「クライド・フェロウも知らないようだった」
ちょうど名前が出て、ぎゃ、と心の中で悲鳴をあげる。いつの間に、二人は仲良くなっているのだろう。私の知らないところでも接触があるとは思わなくて、そんなところにも衝撃が大きい。
「魔術に関することで集中がおろそかになると、思わぬ怪我に繋がるから危険なんだ。憂いがあるなら払ってもらわないと困る」
おっしゃる通りで、うなだれてしまう。それでも答えない私に、セファは液体の入ったガラス器具を専用台に乗せ、丸椅子を引き寄せ隣に座った。
覗き込まれるように顔を傾けられ、ますます俯いた。
「ローズ様?」
「っ!」
「……本当に、何があったんだ」
セファの手が伸ばされて、とっさに息を飲む。不審に思ったその目が眇められた。セファの離れていく手を目で追って、その手が首元を撫でるのをみた。
「クライド・フェロウが知らない、トトリとは今まで通り。となると、侯爵家で何かあったとしか思えない。侯爵夫人に何をされた」
「こ、侯爵夫人からは何も」
「では、騎士フェルバートが?」
「いえ、何も、そんなセファが怒るようなことは! さっきのは、ついというか。とっさに、というか」
不審に満ちていた目の色が変わる。なぜだかその瞳が虹色に揺らめいた気がして、とっさに言葉を重ねた。先ほど避けた手を、腰を浮かしこちらから手を伸ばして両手で握る。
「セファに話すようなことは何もなくて、なんともないの、ほら、ね。平気だから、ーーひあ!」
背の高いセファの首元にあった手をとったので、体制が崩れた。
全体重が乗ったはずなのに、セファがこともなげに私を受け止める。ああほらもう、とガラス器具を机の中程へ追いやって、私の両肩を掴んで椅子に座らせた。
「だから危ないって言ってる。胸のつかえが取れるまで、調合はしない。いいかい」
セファが怒っているのに、その声がどこか遠いところで聞こえる。私を見もせず、セファは怒りながら調合に使っていた器具を片付けていく。その手伝いもできず、私は椅子に座ったまま固まっていた。
動悸がうるさく、耳が遠い。
顔が熱くて、途方に暮れて辺りを見回した。汚れた容器をまとめて、セファが洗っている。もちろん、自らの手は濡らさずに、大杖をここん、と床に打ち付けていた。続いて、簡易台所が付いているお茶会部屋から、トトリが心配そうに顔を出している。私たちの声に気づいて駆けつけたのだろう。調合室は実験器具や本で散らかっていて、トトリを含めた三人が出入りするには手狭だったので、お茶とお菓子の用意のためトトリは席を外していた。
目があうと、トトリは少し驚いた顔をして、駆け寄ってきた。
「姫様。具合が悪そうですよ」
「そ、そう?」
「ええ、とても。セファとお話ししてたんですか? まだ続きがあるなら、お茶会室でお茶にしましょう。今日は焼き菓子も用意したので。それに、この三人なら巫女姫様の残した書類についてお話しできますし」
ね、セファ、とトトリがまだ怒っていそうな背中へ付け加える。「先に行ってて」と口にする声はぶっきらぼうだ。拗ねてるだけですよ、とトトリが耳打ちしてくる。
「フェルバートと何かあったことが明らかなのに、話してももらえないから」
「どう話せというのよ、あんな出来事」
思い出しただけで情けない思いでいっぱいになるというのに。私、フェルバートの婚約者なのに、その望みを叶えるどころか、そのやり方は見当違いだと怒られている。あれ以来、なんだか私は気持ち避けてしまうし、フェルバートの仕事はますます激務に拍車がかかっているようで、夕食後に話す時間もなくなってしまった。
トトリに導かれて、お茶会室の椅子へと座る。魔術師の工房に用意されているこの部屋は、四人がけの小さなテーブルと椅子が置かれた、こぢんまりとした部屋だった。ちょうど、使用人の休憩室の様子に似ていて、部屋の隅に煮炊きができる簡易の設備が整っている。大きく取られた窓には屋根のない露台がついていて、手すりにはたくさんの植物が吊り下げられ、半円形の植木鉢に植わっていた。意外だけれど、あれはセファの趣味なのだろうか。
「素敵ね、魔法使いの秘密の食卓みたい」
「セファほどの魔術師になると、火を起こしたりお湯を沸かすのに、こういった設備はいらなさそうですけどね」
その証拠に、設えてある機能のほぼ全てが、魔力がなくとも起動できる装置だった。魔術塔に工房が置けるような杖持ちなら、魔力を込めて使えるより上等な物をおくだろう。逆に、セファほど豊富な魔力で術式に詳しく、複数の高い魔力特性があって心象と具現を操り、事象を書き換えることができるなら、こういった設備そのものが不要だ。よって、この設備を使う魔力が無い者のための仕様となる。
「巫女姫様の助言かもしれませんが、私が使うことを見越して用意してくれたんでしょうね」
そういうトトリは嬉しそうで、やっぱり辺境から王都に来て拠り所はあるのかと心配になってしまった。
「ローズ様はお茶をどうぞ。顔が赤いですし、目もちょっと潤んでますよ」
言われてハッと頰に手を伸ばす。目尻に触れると指先に涙がのって、慌てて拭い去った。淑女たる者、動揺のあまり涙を浮かべるだなんて、なんて無様をと打ちひしがれる。最近の私はてんでダメねと落ち込みながらお茶を口に運んだ。
そんな私を、トトリが優しい目をして見つめている。
「あれ以来、フェルバートのこと、怖いですか」
「……婚約者だもの。怖くなんか、ないわ」
お茶から口を離した途端に問われて、取り繕う気も起きずに返事をした。トトリは結局、いつもそばに控えて私のみているものを見ているのだ。隠しても仕方がないし、そのことでトトリが行動を間違えて何か失敗をしてしまうかもしれない。それは、仕えてもらっている私の責任だし、主人としての不足になる。
「婚約者だもの。婚約者として今度は、もう、いらないって、言われないようにしなくては」
トトリがため息をついた。あからさまなつき方に、えっと顔を上げる。その目は優しい。優しいけれど、困った子どもを見るような目に変わっていた。
「これ以上嫌われないために、どうしていいかわからないの。それで避けてしまって、また、嫌われてしまうかもしれない」
あぁ、なんだか泣きそうだった。語尾が湿っぽくなって、震えたことに気づかれませんように。そう思った途端、背後でここん、と、聞き慣れた音がした。この工房で、魔術講義を聴くようになってから幾度も聞いた、大杖の音。
頭上から、花がぽとりぽとりと落ちてくる。花びらではなく、萼もついた丸ごとの花。頭の上にものった気配に、何が起きてるかわからず身じろぎできないまま息を潜めた。
トトリが口元を隠して笑う。
セファの足音が後ろに聞こえて、頭上に乗った花が取り払われた。
「フェルバートが、君を嫌う、だって?」
ありえないよ、と背後で言う声が、心底呆れた色をしていた。