10.かさなる影と吐息
フェルバートの向かいの長椅子に腰を落ち着ける。身じろぎひとつせずうなだれたままのフェルバートを見て、トトリが「お茶の用意をしてきます」と、退出して行った。
相変わらず動かないフェルバートに、本当に大丈夫? と私が声をかけるけれど、それにも返事はない。なんだかぐったりしているわ、と腰を浮かして卓に手をつき、身を乗り出した。その黒髪に触れる直前、ぱしりと手を掴まれる。ゆっくりと顔が挙げられ、青い目が私を射抜いた。
「……何をする気ですか」
「ええと。疲れているように見えたから、頭を撫でようと。頭を撫でてもらうと元気が出るでしょう?」
毎晩、毎晩。母と父から、寝る前には頭を撫でてもらっていた。そうして、明日からまた頑張ろうと思えたのだ。もっともっと頑張れば、次はーー。と、祈りながら眠った。
でも、フェルバートは嫌だったかしら。
「ごめんなさい。私がそうだからと言って、お前もそうとは限らなかったわね」
やはり、慣れないことはするものではないのだ。長椅子に座りなおして、顔をそらす。これから先、ずっとそばにいるのだから、良好な関係を気づいていくべきだった。した方が良いことよりも、しない方が良いことを早急に知らなければ。
「特に注意すべき不愉快なことがあるなら、早めに教えなさい。お前に嫌な気持ちをさせたくないわ」
私を守る。ただそれだけのために、一生を棒に振らせてしまった護衛騎士のために。私自身も、この先を誓わなければいけない。
「ローズ嬢が、そこまで気を遣う必要はありませんよ。言ったでしょう。あなたの思うままに、生きて良い、と。望みがあれば、叶えます」
そうは言われても、とっさに望みが何か、なんて出てこない。これからのことを考えたいとは、思うけれど。
「慣例通りなら、冬に入る前に国王陛下に婚姻の許しを得るのよね?」
「……そうですね」
「では、そのあとは、このお屋敷を出る? どこか別の場所に、住居を構えるのかしら」
これからの生活を想像してみる。普通の、騎士とその妻が暮らすのに適した邸宅に移り住んで、数人の使用人を雇って、暮らしていく。
子どもができたら、侯爵家を頼った方が良いだろう。人手は多いに越したことはないと聞くし、そうやって頼るつもりでいるなら、やはり侯爵家に嫁ぐものとしての義務は果たさなければならない。
「……ローズ嬢は、俺との子どもを、考えているんですか」
「……? 結婚するなら、そういうものではないの」
なんだか、変な聞き方ね、とフェルバートの方へ顔を向ける。フェルバートが私を見ていた。わだかまりがあるような表情を浮かべ、何も言わず、口元を引き結んで。なんでそんな顔をするのと思うのに、声に出して聞けなかった。
「……そういうことは何もかも、王の許しを得てからでしょうね」
張りつめた緊張が突然解けて、フェルバートが長椅子に身を鎮める。トトリがお茶の用意を手に戻ってきた。
「新居についても?」
「……えぇ、新居についても」
そういうものなのだろうか。トトリからお茶を受け取って、一口飲む。それなら、春に結婚の許しを得て、それから新居のことを考えて、同時に新居に置くための家具や布物を用意する、ということなのだろう。
「それまで、今みたいに侯爵家で過ごせば良いのかしら。他になにかすべきことがあると良いのだけど」
「やりたいことはないですか? ずっと王城と屋敷を行き来するだけだったでしょう。城下に降りてみます? 避暑地なんかに行ったり」
城下、と聞いて、セファと街を歩いたことを思い出す。あんな風に、城下も歩けるのなら楽しそうだ。それとも、あれは身分を隠しての旅だったからできたことで、ここでフェルバートが言っていることはまた違うのかしら。
「あぁ、そうだ。観劇に行きましょうか」
「観劇?」
考えたこともない提案に、私の目が瞬いた。私の反応が良いことに、フェルバートは嬉しそうに頷く。
「ええ、劇場に足を運んで、流行りの歌劇を見に行きませんか?」
「まぁ、でも私、行っても大丈夫かしら。そういうところには、上級貴族や王族の方々も出入りがあるでしょう?」
「記念公演でなければ滅多に鉢合わせするものではないです。日常的に出入りする方々は、観劇好きの方々で、興味本位の噂話をわざわざ持ち出したりはしないでしょうし」
それなら、と頷く。これからの楽しみができて、有名どころを勉強しておこうかしらと思案する。侯爵家にもし蔵書があるなら、物語詩集を借りて……。
「ローズ嬢は、俺のことをよく知らないまま婚約者になったと思います。俺たち、婚約者だとか、夫婦だとか、そういう関係の前に……恋人になってみませんか?」
その口ぶりは、生真面目な騎士の口から出るにはなんだかとてもそぐわないもので、私は何度も瞬きを返してしまう。
「……こいびと?」
はい、とフェルバートが目を伏せる。照れているのかしら。私から顔をそらして、早口にまくし立てた。
「俺は、ローズ嬢のことを昔からよく知っています。けれど、ローズ嬢は違うでしょう? 時間は……、たくさんあります。だから、」
フェルバートの提案に、想いを馳せる。恋人。そう、確かに、恋人というのなら。
長椅子から立ち上がって、卓を回り込む。えっ、と声を上げるトトリとフェルバートに構わず、婚約者の隣に腰を下ろした。ストンと弾みをつけて座れば、フェルバートがなぜだか両手を上げて私を見下ろしている。
「たしかに、伴侶として、隣に並び立つなら、卓を挟んで話すよりも、こうやって同じ方を向いて並んで座った方がそれらしいかしら」
つまり、こういうことね? と問えば、フェルバートが途方にくれた目をしていた。変なところで思い切りがいいのは、多分物を知らないからですね。となんだか失礼なことをもごもご呟いている。
隣に座るフェルバートと、膝が触れ合うかどうかの距離を眺めながら、自分の指で掌をなでる。
「次はうまくやりたいの。前回は失敗してしまったから、なにか、変なところや間違いがあれば教えてくれる? 伴侶として、望む振る舞いを身につけてみせるわ」
拳を握って意気込む。返事がないので顔を上げると、変わらず遠い目をしている。なんなの? と思わず声が出る。
ねぇ、トトリ、と振り向けば、苦笑を返されてしまった。ローズ嬢、と横から声をかけられて、再びフェルバートに向き合う。
「俺の理想を、叶えてくださると?」
「もちろんよ」
「では、俺を見て、俺のことだけを考え、俺さえいればそれでいいと思えるようになってくださいますか」
見つめあったままま一息に言われ、その言葉の意味を理解するのに時間がかかった。きょとんとしている間に、膝の上にあった手を取られて、手の甲に、フェルバートの唇が触れる。
息を飲んだ。
「俺さえいれば、他に何もいらない。どんなことも怖くはない、と。そんな風に心から想って、その身を俺に預けてくださいますか?」
フェルバートの顔が、覆いかぶさるように近づいてくる。
影が重なり、鼻先が触れ、ようやく我に帰って飛びのこうとしたのに、気づけばフェルバートの掌が首の後ろに添えられていた。
動けなかった。
もう、何も見えなくて、ただ、フェルバートがとっても近くにいるということだけがわかる。頭の後ろがひりひりとして、握られたままの手が熱くて、あぁ、なんだか、とても、
……こわい
ぐぅ、という呻き声と共にフェルバートが離れていく。竦んだ体はフェルバートの手から解放されても身じろぎできず、涙のにじむ目は周囲の様子もわからない。瞬き一つすれば溢れてしまいそうで、天井を見上げながら息を吸った。
すぐ側で、二度、三度と鈍い音がするのを不思議に思う。自分で目をこすろうすると、姫様、とトトリが目元を拭ってくれた。心配そうに覗き込むトトリと少し見つめあって、ぱちぱちと瞬きをし辺りを見る。私の反対側に、フェルバートが突っ伏していた。
トトリが私の視線を遮るようにして、フェルバートとの間に座る。拳を作って、騎士の背中へ叩き込んだ。
ぐぅ、と、先ほども聞いたうめき声が響く。
「……フェ、ル、バ、ー、ト!」
「……い、お、俺だって、何もわかっていないローズ嬢にわからせるため、一芝居くらい打ちます」
「あわよくば、くらい思っていたでしょう!」
「ぐっ、俺は騎士ですよ」
「不埒な騎士が山といるのに、そんな言い訳通用すると思いますか」
「と、トトリ、もうその辺で……」
ぐぅ、とフェルバートが再び呻いた。トトリの拳が叩き込まれる光景を黙って見ていた私は、恐る恐る止めに入る。ふん、とトトリは拳にしていた手をひらひらさせながら、別の手で私の手を取り、フェルバートから距離をとった。
「ええと、フェルバート?」
「はい」
トトリの背中越しに声をかけると、フェルバートはすぐに体制を整え、床に跪いて頭を垂れる。
「……お芝居と言った?」
「申し訳ありませんでした」
「ええと、結婚するなら、私、そういうことも知っておかなくてはね?」
「どこで知るつもりですか。書物や観劇程度にしてください。……本当にすみませんでした。そんな風に、泣かす、つもりでは」
謝罪を口にするフェルバートの声が、どんどんしぼんでいく。なんと声をかけていいかわからなくて、私は自分の頰に手をあてる。涙は頰を伝ってはいないけれど少し熱っぽく、冷えた自分の手を押し当てると、とても気持ちいい。
「ただ、次は、うまくやりたい。などとおっしゃるので、少し……カッと、いえ、頭に、いえ……そういう、理屈ではないのだと、わかっていただきたく」
私が不用意なことを口走った、と言いたいのかしら。フェルバートの言い訳に首をかしげる。
「怖い、と言ったローズ嬢に、俺は、無理を強いたりしません」
口元に手をやる。よぎった言葉が口から出た自覚がなかったので、驚いてしまう。
「私、怖い、なんて言った?」
「じゃなかったら、止めに入れませんでした」
トトリに聞けば、小さな声でですけどね、と肯定される。それで、トトリがごつごつとフェルバートの背中を殴っていたわけだ。非力ですからね、と常日頃から口にする化粧師の手を痛めていないか、心配になる。
「ローズ嬢。俺の婚約者として今ここで過ごす時間は、与えられた役割でないことをいい加減ご理解ください。俺が、あなたの一番近くにいる権利が欲しくて、あなた自身を望んだんです」
距離は遠く、フェルバートは跪いて顔を伏せたままで格好は良くないけれど、とても真摯に言葉を尽くそうとしていることがうかがえた。
「俺は、あなたの望みを叶えるべくそばにいるし、あなたの意に沿わないことをする気はありません。あなたを恐怖から逃し、笑顔を守る。何が起きても、怖くないと思ってもらうために」
私は何も言わずに苦笑した。なんだか、変よ。お前。そんなもの、婚約者でもなんでもないじゃないの、と。思うのに言えない。ずっと、フェルバートの表情が私の心を重くする。
まるで、騎士みたいね、と思った。私の意向を第一に尽くす、一の騎士そのもの。ずっと、言葉の端々にその気配が見えていて、それがずっと、気になっていた。気になっていて、聞けなかった。また居場所を失いそうで。
居場所を失うことが怖い私は、もしかして、ずっと、そんな風に思いながらフェルバートの隣にい続けるのだろうか。
……私に、何もわかっていないと言いながら、お前だって、騎士という立場を崩そうとしていないことを、気づいてないの。
それとも、それが、フェルバートの愛の形なのだろうか。
「フェルバートは、溺れるほどの愛を待っているの? あなたがいれば、他に何もいらないと、そう言って体ごと預けてくる愛が理想?」
「あ、あれは、さっきのは、演技ですよ」
「私、そんな風にあなたを愛せばいいの?」
ですから、とフェルバートが顔を上げて声を荒げた。
「そうやって、無理に作るものじゃないと言っているんです。ローズ嬢は何もせず思うまま振舞えばいいんですよ」
仮に、そういう形を理想とするなら、それはローズ嬢が意識して振舞うのではなく、と話す語調が強い。
「あなたを骨抜きにして、そう言わせるのが、俺の役目という話です」
こんな風に言ったら意味のなくなることですよ、とさらに付け加えられて、私は首をかしげる。トトリは呆れたようにため息をついた。生真面目すぎて身動きが取れなくなってますよと、とフェルバートに忠告している。
「好きになればいい、というだけではないのね」
「好きになれるかどうか、判断をこれからしてください。なんども言いますが、ローズ嬢は、多分、俺のことを何も知らないので」
わかったわ、とようやく話が落ち着く。第一王子の時と同じく、並び立つのにお互い不足はないし、努力しあえる。目標を同じくして進むことのできる良い伴侶になれると思うけれど、フェルバートは慎重だ。
「では、もう少し話をしましょう。観劇の予定も、他にも、何か考えてくれる?」
トトリの背中から抜け出して、跪くフェルバートの側の長椅子に腰掛ける。隣をぽん、と叩いて、フェルバートを誘った。
「……今さっき何されたか、わかっていませんね」
「お芝居だったんでしょう?」
「そういうところですよ、ローズ嬢」
盛大なため息とともに、フェルバートが頭上を仰いだ。