9.談話室へ至るまで
侯爵家の侍女の手を借りて、外出着から衣裳を改める。侍女が二人掛かりで手際よく進めるまま、体を預けた。着替えが終わるとどこからともなくトトリがやってきて、化粧を直してくれる。トトリの姿が見えると何となく安心して、私は考えごとに没頭した。
というのも、先ほど侯爵夫人に頭を下げたまま動かない娘のことだ。あれは、一体何だったのだろうか。どこの誰が、何をしに? 珍しく侯爵夫人が苛立っていたようにも思える。
それよりも何よりも、どこか、看過できない妙な引っ掛かりが消えない。
支度を終えて、侍女とともに食堂を目指す。魔術塔から戻って準備が済めば、すぐに食堂で夕飯になるようにしてもらっているのだ。帰宅に合わせて給仕も揃っているはずなので、時間の余裕がないことはわかっているのだけれど。
足を止めた。
「玄関ホールに寄るわ」
戸惑う侍女に構わず、私は身を翻す。困惑して立ち尽くす二人の侍女を一瞥した。私の視線を受けて、はっと我に帰って付き従ってくる。一人は先を歩くべく私を追い越した。
文句もなく抵抗もせず、玄関ホールに案内される。少し反応が遅いけれど、私の要望に反抗なくしたがってくれたのでよしとする。
果たしてそこに、先ほどの娘はまだ頭を下げたまま立っていた。
「そこでいいわ。待っていて」
侍女たちを留めさせて、私は娘へと歩み寄る。危険人物がこんなところにいるわけないとは思うけれど、これは不用心が過ぎるかしら。
できれば誰にも見つかりませんように、と願いつつ、そっと体をかがめて、頭を下げたままの娘に声をかけた。
「ねえ、お前、どこの誰。顔を上げてもいいわ。話して」
声をかけると、驚いたように娘の肩が震える。そっと顔を上げて私と目が合った。その目が、瞬時に見開かれる。
「ひめ、さま」
驚愕に震える娘を見て、ん。と首を傾げた。あれ、私、もしかしてこの顔を知っている?
「……まぁ、お前」
何ということだろう。彼女は、フォルア伯爵家の侍女だ。主に私の面倒を見てくれていた。
けれど、名前も知らなければ、声をきいたのも初めてだった。記憶はぼんやりとしていて、そういえば、実家の使用人の顔も満足に覚えていないかもしれなかった。
「……口がきけたの」
思わず口にしたその言葉は、よく考えなくても叱責に聞こえたかもしれない。長年仕えていた侍女の声を聞いたことがない。というのは、今の侯爵家の侍女との暮らしを思えば、異様であったことはさすがにわかった。
身を固くする娘に、こほん、と咳払いをする。けれど、今の私はあの頃とは違うので、私は体を起こし、背筋を伸ばした。
「名前は?」
「は、はい?」
「名前。あるのでしょう? ないなんてこと、ないわよね」
青ざめた娘は、息も絶え絶えだった。私を見つめるのもやっとという風で、私の方こそこのやり方であっているのか不安になってしまう。
「え、エマと。申します」
深く深く礼をされる。そう、エマというの、と頷いた。やはり記憶にない名前だったので、フォルア伯爵家に暮らす上で、使用人の名前は一切頭に入っていなかったことを再確認する。
「エマは、どうしてここに? 侯爵夫人に何かお願いが?」
私の言葉に、エマが愕然とした面持ちで固まっていた。そんな顔をしなくても、と思うのに、わなわな震えはじめては、こちらも気後れして何も言えなくなってしまう。
しばらく無言で見つめあって、けれど我に帰ったエマが、しどろもどろになりながらも問いかけの答えを探し視線をさまよわせた。
「あの、その、私。奥様に言われて」
「……お母様に?」
うまく顔も思い出せない母が出てきて、瞬く。当然だけれど、実家の屋敷の侍女は、母が選んだ侍女たちだった。ということはもちろん、このエマもそうなのだろう。
「姫様の、お世話をさせてもらえるよう、あの、この、紹介状をいただいて、奥様とここまできて、その」
エマの話を整理すると、つまり、母とエマは二人でこの侯爵家にやってきて最初こそ和やかにお茶をしていたけれど、エマを私のための侍女として置いて行くと申し出た。しかし、それを侯爵夫人が固辞し、母はかまわずエマを置いて言って、残されたエマと侯爵夫人の、あの玄関ホールでのやりとりというわけだ。
「……無礼だわ」
頰が引きつるのを懸命にこらえて、私はやっとの思いでその一言を絞り出した。父の右腕として領地経営の補佐をしている母にしては様子がおかしいような気がするけれど。それにしたって、普通、目上の侯爵家の玄関ホールに、自分の侍女置き去りにして帰るだろうか。
これは、すぐにでも私が侯爵夫人に謝罪するべきなのでは。というか、母はいったいどういうつもりで。何にせよあまりにも上手くない手に、途方に暮れてしまう。
ここでエマを叱り付けても仕方がない。母に付き従っただけというなら、エマに断る術はないのだから。
私は少し考えて、
「母のしでかしたことなら、これ以上侯爵夫人に迷惑をかけるわけにもいかないわ。私から許しを乞い、私の侍女として引き取ります」
いい? と背後の侍女に問いかける。侯爵家の侍女である二人は顔を見合わせ、どう返事をするべきか判断に困っているようだった。
「ひ、姫様。それでは姫様の立場が」
「私の立場なんて」
少し考えてみて、当の実家の侍女からそう言われてしまうと、ちょっと笑ってしまう。
「多分、今より悪くなることってないわ。もしこれで侯爵夫人からの心象が下がったなら、これから先いくらでも努力して取り戻すもの。お前は私の侍女になりなさい」
仲違いが起きたとしても、そう言えばクライドも言っていた。フェルバートは長男ではないのだ。四男の嫁にそこまでの関係は期待していないだろう。少し甘く考えすぎかもしれないけれど、そうでもなければ、エマは夜通しここに立って頭を下げた体勢でいそうなのだ。
「これから夕食なの、侯爵夫人から許しをいただくまで、もう少し待っていてくれる?」
エマは立ち去る私を呆然と見送った。そんな、と繰り返し首を振る姿に、母に振り回され、侯爵夫人からは厳しい目を向けられて、エマが本当に気の毒でならない。
それに、口も利いたことのなかった実家の侍女と、婚家ではじめて言葉を交わすというのは何だか不思議な出来事だった。王太子妃教育を受けていた日々を振り返ると、他にももっと大事な何かを取りこぼしてきたような気がしてくる。
それらを、全部とは言わないけれど、一つずつ拾い集めることができたなら。
「あぁ、やはり気づくわよね。そうよねぇ」
食事を終えた頃合いに、私は侯爵夫人へエマについて謝罪した。すると、頭痛を堪えるように侯爵夫人がこめかみに手をやり眉を寄せる。実家の侍女の顔くらい、知っていて当然だものね、とため息をつかれてしまう。
「ですけれど、ねぇ、ローズ姫。これは、義母としての忠告だけれど、あなた、ご実家からは勘当されたのをわかっている?」
出されたお茶に手を伸ばす。両手で包み込むようにして、水面に視線を落とした。触れたことで波紋が揺れて、虚像がかき消える。
「あの侍女はまさしく、勘当された実家の母親から『送り込まれてきた』と言える娘ですよ。自ら懐に入れるのは、どうかしら」
向けられるその目を知っていた。こちらの力を推し測る、教師のような目だ。求める正解を言い当てなければ、瞬く間に失望に変わる目。喉の奥がひくりと震えた。
早く何か、返さなければ。
はく、と口を動かそうとするのに、声がうまく出せなかった。何を言おうとしたのかもわからない。けれど、それだけで侯爵夫人の眉が上がった。どん、と心臓が脈打つ。
「母上」
隣から、大きな手が私の左腕に触れた。暖かい感触へ、意識が集中する。
「それでも、ローズ嬢はその侍女を召し抱えたいそうなのです。お許しをいただけませんか」
フェルバートの言葉が頼もしく、胸の動悸が治まっていく。前もって話をしていたわけではないのに、さも聞いた上で二人で判断したのだというように言い添えてくれた。
侯爵夫人は、フェルバートが発言することをわかっていたように、目を閉じてため息をついた。
「……あなたは、もう。そうやって婚約者を甘やかす! お人形遊びでもしているおつもり?」
「そんなつもりは」
「そうでしょう。夫として、妻をきちんと教育せずどうするのです」
「ローズ嬢は、これまで十分努力されてきました」
「だからといって。不用意な行動を慎むようその都度忠告しなければ、いざという時に恥を掻くのはローズ姫ですよ」
「俺がそばにいます。これから先、ずっと。いつまでも」
「……っ」
躊躇ないフェルバートの受け答えに、侯爵夫人が言葉に詰まる。私は婚約者と義母に挟まれて、ドキドキすればいいのかハラハラすればいいのかわからず、動揺を押し込んでただ椅子に座っているしかなかった。
「それに、侯爵家の四男とは言え、騎士の妻です。これからのことは、この後話をする約束ですが。ーー俺は、侯爵家の一員としての役割を、ローズ嬢に課す気はありません。母上はこれまで通り、兄たちをせっついてくださいね。俺は、領地もつぎませんし、ローズ嬢にも母上の補佐はさせません」
簡単に言っているようで、ものすごいことを言い切っている。
男女による教育の差だろうか。やがて独り立ちして家を出ていく男性と違い、女性は家に属するものだ。本来なら、嫁いでも必要とあらば実家に戻り手伝いに駆り出されるのは当たり前だし、婚家が分家なら、本家のあれこれに巻き込まれるのが女性というものだ。
なにより私は本家の四男の婚約者で、当然義母の指示のもと同じように嫁いできた女性と協力し、一族を動かす手足になるのが当然だというのに。
それに、そんな風に勝手に言い切られてしまっては困る。家のことに協力するということは、引き換えに家からの援助を受けるということなのだ。後ろ盾になってもらう以上、できることはしなければいけないと思うのに。
「あの、フェルバート様。私、必要なら侯爵夫人の力になりたいと思うわ。こうして後ろ盾になっていただいて、その厚意に報いなければ」
「あなたはまたそう言って」
侯爵夫人の方を向いていたフェルバートが、振り返って目を釣り上げる。なぜそんな批難をめいた視線受けるのかわからなくて、うろたえた。
「ローズ嬢は、今まで十分……。いえ、すみません。そんな顔を、させるつもりでは」
いつの間にか強く掴まれていた腕から、手が離れていく。痛いのかどうかもわからなくて、無意識にその腕を胸に引き寄せ抱いた。
「あぁもう、ごめんなさいね、ローズ姫。ちょっと、末っ子だからか頑固に育ってしまって。これでもだいぶましになったのですよ」
昔は本当に手のつけられない乱暴者でね。と、見かねたように侯爵夫人が間を取り持とうとしてくれる。給仕に合図をして、その場の全員に退出を促してきた。
「この後、お話をするために談話室の用意をしているのでしょう。これからのことは、二人でゆっくり話しなさい。我が家ですから、遅くまで話し込んでもいいですし。あぁ、明日の午前の花嫁教育はお休みにしましょう。たまにはそんな日があってもいいですもの。
あぁ、あの侍女については、よくわかりました。当家の侍女として迎えます。ご安心なさい」
ね、となんだか念を押されて、思わず頷いた。フェルバートはなんだか額を押さえてうなだれている。調子が悪いなら、と言いかけると、フェルバートはものも言わず手を挙げて遮った。
「せっかくだから、先に着るものも改めてしまいなさい」
「母上」
侯爵夫人の言葉を受けて、侍女が私を導いてくれる。フェルバートが引き止めようとしていたけれど、そのまま連れて行かれてしまった。
部屋で待っていたトトリが目を丸くして、侍女から何事か指示を受けはじめる。その間に私は衝立のこちら側で締め付けの少ない室内着に着替えさせられ、その後現れたトトリに、薄化粧を施された。
衝立の向こう側で何度か吹き出していたような気がするけれど、今も笑いをこらえた顔で震えているわ。
「寝る前なので、昼間のようなお化粧ではなく、肌の調子を整えるためのお手入れだけにしました。なので、このまま寝ても大丈夫ですよ。いやー、怖いですね、侯爵家」
前半はふんふんと聞いていたけれど、最後の一言がわからなくて首をかしげる。何か怖い思いをしたのだろうか、心配でじっと見つめたけれど、トトリは気にした様子もなく笑っていた。
そんな間にも、力強く目配せをし頷きあった侍女二人によって、結い上げられていた髪もほぐされ、ゆるく編まれていく。
わー。こわーい。とトトリが平坦な声で言って、何かを探しに出て行ってしまった。
あぁでもないこうでもないと小声で侍女たちは相談を繰り返し、香りをつけられ、仕上げに胸下に細い帯で蝶結び。よし、と頷く侍女を、もう一人が労う。職務に勤勉で、二人で協力しあっていて、仲良しなのね、と微笑ましい気持ちになった。
年頃は私と同じか、少し下だろうか。侯爵家ともなれば、下級貴族が行儀見習いに侍女を務めることはままあるので、もしかするとどこか良家の子女かもしれない。この家で良い関係を築けているのが目に見える形でわかって、この家は本当に真っ当で良い家なのだなと実感する。
「……姫様? 聞こえてます?」
トトリの声に、はっとする。瞬きの先には白い羽織りものを手に戻ってきたトトリがいて、なあに? と取り繕うように微笑んだ。
「はい、これ。夏とはいえ、夜は冷えますからね」
広げられたので、素直に着せてもらう。あぁっ、と侍女の声が聞こえつつも、確かにフェルバートと話をするのに少し心もとない格好だったので、さすがトトリね、と労う。
侍女たちを振り返ると、なんだか残念そうな顔をしていた。君たちねぇ、とトトリが苦笑いをしている。
「談話室には私が着くので、君たちは今日はここまで。姫様の専属ですからね」
ね。の言葉尻が力強く、反論を許さぬ調子だった。思った通り、侍女たちは何か言いたげにしつつも引き下がり、部屋を下がっていく。
トトリは私を上から下まで見て、わー。とまた平坦な声を上げた。
「さっきから変よ、トトリ」
「いやー。ごちそうかんせい! って感じですね。侯爵家こわーい。ろこつー」
平坦すぎて、言葉の意味がつかみづらく私は首をかしげる。
「私が控えていますので、ええ、ひとまずね。ごちそうは眺めるだけにしてもらいましょうね」
では行きましょうか。フェルバートが待ってますね、と歩き出すのを、私は疑問符を散らしながらついていく。扉を開くと空には月が輝いていて、綺麗ね、と率直に思う。あぁ、早くこれを、誰かに伝えなくては。
部屋を出る直前にトトリが、あぁ、そうそう、と振り返った。そして、それはそれは可愛い顔で笑いかけてくれる。
「腕のいい化粧師トトリの手ですから当然ですが。ーー今宵のローズ様、とってもお綺麗ですよ」
開け放たれた談話室に着くと、すでにフェルバートが待っていた。長椅子に腰掛け、私と目があうと瞬時に背筋を伸ばしたかと思えば、深いため息とともにうなだれる。
「いらない気遣いを……。母上……」
そうやって呻く姿に、なぜだか妹を思い出して笑ってしまった。兄妹の一番下のというのは、親の寵愛を受けやすく、当の本人は受け入れがたいものなので。