8.甘い焼き菓子と、青の瞳
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フェルバートが迎えに来る頃になっても、セファとクライドの書斎でのやりとりは続いていた。
「……二人だけですか?」
まず談話室に顔を出したフェルバートは、トトリと二人きりの私を見て眉をひそめる。私とトトリは、その視線を受けて顔を見合わせた。そうしてそのまま、書斎の方へと視線を移す。
つられるようにして、フェルバートもそちらを見やった。
「……クライド・フェロウの声がしますね。もう、きているんですか? 確かに、昼頃あなたの行方を聞かれたので答えましたが」
思ったよりずいぶん早かったですね、その足で会いに行ったのか。と、呟いて、声がする方へ向かう。そんな騎士の背中に続いて、私もトトリと書斎に顔を出した。
二人きりになった最初のうちは、何やら落ち着いた調子で会話しているようだったけれど、しばらくしてから語調の強い言い合いに発展していたのだ。喧嘩や行き違いではなく、なにやら白熱した意見交換といった気配だったので、内容は聞き取れなくとも大丈夫だろう、と、トトリと二人で判断したのだけれど。
「だからどうしてそうなるんだ。この術式をそちらに当てはめて考えてみろ。理にかなっているだろう」
「先ほどから何度も言っているでしょう。その完成陣では、起動できる人が限られる、と。必要魔力量を自分が使えるかどうかで考えるから、汎用性の低い研究ばかりになるんです。そんなんで魔術講師受けたんですか? 苦労しますよ? 主にあなたに受け持たれた生徒たちがですが」
「なんでろくに魔力の研鑽もしてない魔術師でもない君が、ここまで魔術陣の分解と再構築をこなすんだ。おかしくないか」
なんだか盛り上がっているようだった。魔術陣についての意見交換だろうか。魔術師にはなれなかったのだと嘯くクライドだけれど、その母親は魔術講師だったし、他の家族も皆、杖持ちだったはずなので、その手の知識は豊富なのかもしれない。気が抜けているのか、語調が少し荒く皮肉を口にする姿が珍しい。
「……クライド・フェロウ。君、杖持ちにはなれなかったと言うけれど、単に研鑽を怠った結果じゃないのか」
「単純に魔力量が少なく才能がなかっただけですよ。魔力特性も目立ったものはなく、凡人以下です」
あと確か、魔術師嫌いだったわね、と、心の中で付け加える。特に話を聞いたことはないけれど、言葉の端々から魔術師を嫌っていることは伺えた。
隣を見上げれば、フェルバートが心底呆れた顔をして眺めている。「あなたたちは何をやっているんですか」と、口にしたその語調は厳しい。
「セファ、外出しているとは聞いていましたが、戻ってきたならローズ嬢への魔術講義はどうしたんですか。魔術書を前にしておきながら、開いた風でもなくトトリと二人のんきに話していました。とても講義をした様子は見て取れませんでしたが。クライド殿も、ローズ嬢へなにか用事があると伺っていましたが、もしや魔術師セファとつながりを作るための口実で?」
「まぁ、フェルバート。そんな風に怒らなくてもいいでしょう。二人とも楽しそうだったわよ」
フェルバートの言葉にと気まずげな顔をした二人が気の毒で、私が傍に立つ黒衣の袖を引く。ね、と二人に声をかけるのに、二人とも浮かない表情のままだった。それどころか、ちょっと顔を背けてしまう。
「姫様がそれをおっしゃると、多分、トドメになってしまいますよ」
黙ってた方がいいです、多分、とトトリが私の肩を叩いた。振り返って、そう? と聞けば、そうです。と頷かれる。
「でも、セファの工房の中は安全だと言う話だし、ここでは皆肩の力を抜いてもいいでしょう」
結界陣の内側で、護符もいくつもつけてもらった。そうして初めて、セファもフェルバートもトトリも、肩の力を抜いたような気がするのだ。全方位に気を配っていた三人が、やっと柔らかな表情をするようになったと思う。
「それに、私もひとりでやることがあったのを忘れていたわ。だから、おあいこね」
「やること、とは?」
フェルバートに見下ろされ、ええと、とトトリへ視線を投げかける。侯爵家から魔術塔へと持ち出す荷物の全てはトトリに預けてあって、その中の一つに文箱があった。それは、と、フェルバートが気づいたように瞬いた。そうよ、と私はトトリが手にする文箱を撫でる。事情を知らないクライドを憚って、フェルバートに体をかがめてもらい、耳元に顔を寄せた。
「異界渡の巫女が残してくれたもの。読み解くのに少し時間がかかりそうで、人の目がないところ探している最中だったの」
侯爵家では、やはり寝る間際まで部屋に侍女がいた。夜、灯りを残してもらって寝台の中で読む、などと言ったことはできそうにない。ちょうど、セファの工房なら誰にも邪魔されずに読み進められそうだと思っているところだった。
そう思って持ち込んだけれど、結局手をつけていない。託されたものを、遺志を継ぐ覚悟がまだ足りず、怖さがまさった。辺境に伝わる魔王や、魔女について、早く調べなければと思うのに、楽な方に逃げてばかりで状況を言い訳にして取りかかれないままだ。
「あの巫女が、何をあなたに書き残したかは聞きません。ですが、ローズ嬢の思うまま、少しずつやっていけばいいんですよ。ありのままのあなたを、俺が支えます」
その声は思いの外優しく、続いて頭をなでられる感触に思わず目を閉じた。ありのままで、いいのかしら。本当に? そっと目を開けば、かがんだままのフェルバートの青い目が、まっすぐに見てくれていた。
「力になれることがあれば、なんでもおっしゃってください。叶えます」
肩の力が抜ける。ずっとずっと、背中に憧れてきた人に、そんな風に見守られて心強く思わない人間がいるだろうか。
「ありがとう」
そう言って笑って、そうだわ、とセファを振り返った。
「セファにも、お礼を言わなくちゃ」
「……僕?」
反応の遅いセファに、小首を傾げる。どうしたのかしら、と、思ったけれど、すぐに本題に入ることを決めた。
「辺境から、とても美味しい焼き菓子を買って帰ってきてくれたでしょう。さっきトトリにお茶を入れてもらって、一緒にいただいたわ。とっても美味しかったのよ」
帰ってきた時、トトリに渡していた紙袋は甘い焼き菓子だったのだ。トトリは、セファが私のために買ってきたものだと言ってくれたけれど、どうだろう。確かに、私の好きな味だったけれど、同席を許したトトリも美味しそうに食べていたし、セファだって甘味を口にしないわけではないはず。だから、私のためだとか、そうとは限らないと思う。
「あぁ」
セファが納得したように頷いた。その手が、自身の首元をなぞる。
「新しくできた店らしくて。マグアルフの砂糖漬けを見て、思い出して。約束していた魔術講義を突然すっぽかしたお詫びも兼ねてだから、お礼はいいんだ」
セファが告げた事実に、私がどきりとしていると、ほらやっぱりそうでしょう? というトトリの視線が刺さった。
こんなに幸せで、いいのかしら。口元を精一杯引き締めても、頰が緩んでしまった。
フェルバートとトトリを連れ、セファに見送られて工房を出る。明日こそは魔術講義をお願いしなくちゃね、と意気込んでいると、隣にクライドが並んだので驚いた。
「あなたも帰るの?」
「何を驚いていらっしゃんですか。ローズ姫に会いにきたのですから、用が済めば私も帰りますよ」
クライドの灰色の瞳が、心外だ、と言うように細められる。真正面から見つめ返すと、その目の奥に渦巻く苛立ちが透けて見えた気がした。
この先一生、二人きりにならなければ積もり積もったお小言をもらうことはないのだろうか、と悪あがきを考える。
「またきます。姫に有用な手土産を持ってね」
クライドは私に向かって甘く笑い、片目をつぶって見せる。その一瞬後には、あぁそうそう、と真顔になってフェルバートへと向き直った。
「婚約したと伺いました。フェルバート様。お祝い申し上げます」
慇懃無礼な態度だった。なんだか突然雲行きが怪しくなって、私は困惑とともにクライドとフェルバートを見比べる。フェルバートも硬い面持ちで、クライドへと体を向けた。
「俺に、何か用でしょうか」
「ええ、何、二言三言程度です。……ご存知かと思いますが、今、王都でのローズ姫の立場は非常に危うい。国王陛下のご意思がわからない以上、城の近辺に彼女を近付けるのは賢明とは言えないでしょう。
立場が確定するまで、お屋敷にいていただく方が無難では?」
身分差を思えば信じられないほど無礼な口ぶりに、私が青ざめる。それも、どうやら私についてのことでだ。頼りにしたい二人がこんな関係でどうしたらいいのかしら。仲良くなった光景が想像できないのだけれど。
「……それは、城の文官クライド・フェロウとしての発言ですか。それとも、ローズ嬢の幼馴染としての?」
問いかけに、クライドは答えなかった。
その反応を確認するなり、フェルバートは私の背を押して歩き出すように促してくる。戸惑いながらフェルバートを見上げるけれど、進行方向を見据えたまま、取り合うつもりはなさそうに見えた。
「何も知らない魔術師セファが、何を知り、どう動くかわかりませんよ」
その背中に、クライドが言葉を投げつける。口ぶりは厳しい。待って、セファがなんですって? 振り返ろうとする私の肩を掴んで、フェルバートが足を止める。クライドに背を向けたまま、フェルバートが顔だけ振り返った。肩を抱かれた私は、騎士のマントに遮られて、振り返ってもクライドの姿を見ることさえできなくなる。
「ローズ嬢が望まれたことです。俺は、それをできうる限り叶えて差し上げる」
「あぁ、なるほど。あなたはもう、とっくに運命を誓った、と。……残念です」
姿の見えないクライドの声は、失望があふれていた。彼の発言を最後まで待たず、フェルバートとは歩き出す。クライドの声は、もう追ってはこなかった。
ねえ、今のは何? なんの話だったの? そう聞きたかったのに、掴まれた肩が痛くて、見上げる横顔は張り詰めていて、とても声をかけられる様子ではなかった。
馬車の中に納まっても、私とフェルバートは無言のままだった。険しい顔で腕を組み、窓の外を睨むフェルバートに、なんと声をかけていいかわからない。つい、俯いて考えてしまう。こんな時、異界渡の巫女ならどうしたのかしら。
クライドが持つ情報網は使えるなら本当に有用で、本人も使えと言っていたのだから遠慮はいらないと思っていた。けれど、婚約者であり、護衛騎士でもあるフェルバートとのそりが合わないなら話は別だ。二人にしかわからないような会話をしていたけれど、そう言えばあの二人、知り合いだったのかしら。お茶会の前に話した時は、とてもそんな風には思えなかったけれど……。
「……母から、何か不当な扱いを受けることはありませんか」
出し抜けに声をかけられて、私は俯いていた顔を上げる。窓の外を睨んだままのフェルバートが問いかけてきたのはわかるけれど、その言葉に思わず吹き出してしまった。声を堪えきれず笑う私に、フェルバートが驚いた顔を向ける。
「ローズ嬢?」
「ごめんなさい。だって、お前、昨日も一昨日も顔をあわせるなりそう聞いてきたのだもの」
くつくつと肩を震わせて笑いを落ち着かせようとする。あぁ、またつい、お前などと呼んでしまったわ。気づいたけれど、込み上げてくる笑いが止まらない。落ち込んで萎縮していた反動だろうか、一日中侯爵家にとどまっていた一昨日は夕食前に帰ってきて、私の顔を見るなりそう聞いた。昨日はセファの工房に迎えにきた時、やっぱり同じように、馬車に乗ってからすぐに。
「会話を始めるのに適した、他の言葉はないのーー」
「いえ、その」
もう、と笑う私を見るフェルバートと目があって、言葉が途切れた。手持ち無沙汰に黒髪をぐしゃぐしゃとかきながらも、フェルバートの青い瞳が私を見ていた。
トトリは馭者とともに馭者台に座っていて、馬車の中には二人きり。向かい合わせに座っているので、その視線から逃れるすべはなかった。
……私、なんで今逃げようとしたのかしら。
「……ローズ嬢」
「フェルバート、今日もこの後職場に戻る? 帰りは遅くなりそう?」
同時に声をあげて、短く切ったフェルバートの言葉を遮る形になってしまった。ええと、どうぞ、と手を差し出したけれど、言いかけた言葉を続けてどうぞ、と出したつもりの手は、なぜかフェルバートに握られてしまった。手の甲を掬うように重ねられた大きな手の感触が慣れなくて、この後どうすればいいかもわからなくて、固まってしまう。
「戻るつもりでしたが……。俺に何か用ですか?」
「いえ、ただ、これからの、そう。これからの話を、ちゃんとしたくて。それで」
しどろもどろになりながら伝えると、そうですか、とフェルバートが優しく笑ってくれる。優しい顔が嬉しくて、ほっとした。
「それなら、今日はこのまま帰ることにします」
「大丈夫なの? 戻ると伝えていたなら、迷惑が」
「鳥を飛ばしますから、平気ですよ」
そう言えば、トトリも言っていた。連絡に使う鳥って、なんのことかしら。
「……皆、連絡には鳥を使うのね。そんなに便利なの? トトリも使えるなら、魔術具かしら」
「起動に魔力を使うので、トトリは受け取るだけですが……」
フェルバートの手元を見る。そう言えば、フェルバートだって貴族だし、侯爵家だし、第一王子の護衛をしつつ魔術学院に通っていたようだったので、当然魔力はあるのだろう。護衛騎士だし、杖を持っている姿を見たことがないから、杖持ちではないはずだけれど。
返事がなかったので視線を上げると、驚愕に固まるフェルバートの姿があった。首をかしげる。また、何か変なことを言ってしまったのかしら。セファには旅の間、何度もこんな顔をさせてしまったことを思い出す。
「……鳥さえも、教わらなかったのですか」
そうよ、と答える。何をそんなに驚くの、と瞬いた。
「昨日と今日、セファはいなかったのだもの。まだ、魔術講義は始まってもいないのだから、知らないに決まっているじゃない。そう言ったでしょう」
「あぁ、そうか。いえ、そうではなくて」
何か言いたげにしていたけれど、結局、フェルバートは何も言いださないまま、馬車が侯爵家へとたどり着いた。
「フェルバート」
馬車から降りる時に、手を取ってもらいながら話しかける。
「もう、今日はずっといるのよね? 夕食の後、部屋を訪ねてもいい?」
「ええ、別に構いませんーー。いえ、談話室にしましょう。食後に使えるよう、用意を頼んでおきます」
ありがとう、お願いね、と頷いた。扉をあけてもらって、屋敷に入る。すぐに侯爵夫人の姿が見えて、帰宅の挨拶をしようとして、足が止まった。
夫人がこちらを見る。あぁ、もう帰ってきてしまったの。と苛立ち交じりに困り果てた声が聞こえた。その体が向いた先には、深く深く礼をしたまま微動だにしない若い娘がいる。
「お帰りなさいお二人とも。この子には構わなくてよろしいですよ」
夫人の指示の元、家令に促されて、私とフェルバートは顔を見合わせる。そのまま、異様な雰囲気の二人を置いて部屋へと戻った。
「何を何度言おうと変わりません。お引き取りを」
侯爵夫人の、よく通る厳しい声が、ずいぶん歩いた廊下の先まで聞こえてきた。