3.魔術師セファの工房
「……お前のその態度については、心底騎士殿に同情する」
我が物顔で長椅子に座り、嫌そうな顔でそう言ったのは、クライドだ。奥で部屋の片付けをしているトトリを気にしてか、その声はごく小さなものだったけれど。
そうよねぇと、向かいの椅子に座る私は頬に手を当てため息をつく。
「いくらなんでも、栄えある侯爵家の騎士様が、私と婚約だなんて」
違う、そうじゃないとクライドがさらに顔をしかめているが、よくわからなくて小首を傾げるにとどめる。
「だって、私、王家に切り捨てられて辺境へ行くことになったのよ? その上、勝手に戻ってきて、第一王子を引き摺り下ろして、侯爵家の後ろ盾も、宮廷魔術師の後ろ盾も得て、のんきに魔術塔に通ってる。
そろそろ王家からなにも連絡がないのが怖いくらい」
気持ちはわかるけど、話が逸れている、と呟くクライドの顔は物憂げだ。悩める好青年といった風で、細められた灰色の目は、どうやらたくさんの女性を惑わせているらしい。その現場を目撃したことはないし、十ほど年上のこの兄のような幼馴染が、本当にそんな生活をしているのかと思うとピンと来なかったけれど。
長椅子の上で腕を組んだ兄は、それで、と、口を開く。
「とりあえず、婚約おめでとう、で良いのか。裏切られたというなら違うか」
「どうしてフェルバートとの婚約が裏切りになるのよ。裏切りというのは、敵に回ることを言うの。文字通り身内にして、同じ陣営になることの何が裏切りよ」
つい、呆れ混じりに言い返した。フェルバートもフェルバートだ。何が、裏切ったら許さないでほしい、なのか。こんなの、裏切りなどという物の数ではないわ。なんだかムカムカしてきた。
「そうだよなぁ。もっと手酷い裏切りにあったことあるもんなぁ」
冷たい感情に押しのけられて、ムカムカがすっと引いていく。椅子の上で居住まいを正して、両手で頰を挟んで目を瞑ることしばし。平常心を取り戻した私は、クライドを睨むように見つめる。
「……お兄さま、意地悪ですか」
くつくつと笑いながら、「さあね」と、クライドは肩を竦める。
「まぁ、あの騎士は変なとこもないし、今まで通りに大事にしてもらえるなら、幸せになれるだろう」
兄としては、腹立たしいことに文句の付け所ない相手だよ、と猫をかぶったクライドは、穏やかな顔でそう言った。奥から手前から、片付けに勤しむトトリに視線を向け、距離を測っている。つられて私も部屋を見回した。
壁いっぱいの本棚に、詰め込まれている本と謎の魔術具たち。壁際の棚の上には、何やら真新しい実験装置がおかれていた。触れてはまずそうなところを避けて、トトリは床が確認できる範囲を地道に進めている。
「で、この部屋の主は一体どこに行ったのかな。ローズ姫に会うならここへ、と婚約者殿に言われてきたけど。ローズ姫も、花嫁修業はどうしたんだい? 王太子妃と、公爵家の四男、騎士の奥方では振る舞いも何も変わってくるだろう。そりゃ、やることは少しは減るかもしれないけれど、今後侯爵夫人の手伝いをしていくのなら、覚えることが色々あるのでは」
クライドの指摘に、う。と、思わず怯んだ。ええと、と視線を彷徨わせる。
「それが、一昨日と昨日の午前中に少しだけ。侯爵夫人みずからの手ほどきを受けたのだけれど」
ありがたいことにね、と私は遠くを見る。
「今後、午前中にだけ、少しずつ進めていきましょう、と言われて。一昨日は何か言いつけられることがあるかしら、と思って、いただいた客室でおとなしく過ごしていたの。そうしたら、昨日、ずっと屋敷にいるのもなんでしょう? 魔術塔へ行かれてはどう、と。午後にはセファを訪ねることになったのよね」
どう思う? とクライドに問う。クライドが真剣な顔をしていて、そうよね、と私も思う。これはちょっと、追い出されたのでは、と、思いたくなる。もう少し、講師を呼ばれてだとか、お茶に招かれて、だとか。侯爵家に嫁ぐ者としての心構えを説かれるものと思っていたのだけれど。
時間があると言うのなら、婚約者の務めとして新居の布製品を縫うだとか花嫁衣装に針を通すだとか、そういった慣わしは侯爵家には無いのだろうか。そんなまさか。
「……私、侯爵夫人とうまくやっていけるかしら」
「嫡男の嫁じゃないんだし、そこまで深刻に考えなくていいんじゃないか」
そう言うものかしら、と困ってしまう。そういうことに関して助言をしてくれる存在が切実に欲しかった。
「それで、昨日の昼にはこの魔術塔に来たのよね。早かったね、とセファは驚いていたけれど、笑顔で部屋に入れてくれて」
侯爵夫人に話を聞いたフェルバートが、忙しい中昼前に屋敷に戻ってきてくれて、昼食を一緒にとったあと魔術塔まで送ってもらったのだ。勝手のわからない私の前でセファの部屋を確認して、二人で扉を叩いた。
セファは、最初は落ち着いていたけれど、フェルバートが私をここにおいて仕事に戻ると言うと、ひどく慌てていたような気がする。目の前にいる私に聞こえない声量で押し問答を繰り返して、最終的にトトリが残るなら、と、セファが折れていた。
フェルバートの前で魔術具の結界装置をいくつか設置して、扉の魔石に入室制限をかけて、私にもいくつかの護符をつけさせて、フェルバートが真剣な顔でこれなら、と頷いて。セファと二人、仕事に戻る騎士を見送ったのだ。
「そうして準備万端になって、さぁ、これから魔術について一歩前進よ、と意気込みながらセファによろしくね、と挨拶をしたら……」
急に用事を思い出したようで、出かけていったのよねぇ。とため息をついた。
そう言いだした時は本当に突然で、本当に急な用事を思い出してしまったのねと納得はしているけれど。空ぶった気持ちのやり場がないのだ。私に対して害意を持つものは入れないように魔術具で結界を張って行ったから、侯爵家に居づらいと言うのならここを避難所がわりに使っていい。という厚意に甘えて、今日もこうしてフェルバートに送ってもらってセファのいない魔術塔に居座っているけれど。泊まりがけだなんて、一体どこに行ったのかしら。
もう一度ため息をついて目の前の兄を見上げた。クライドは苦笑しつつ、トトリを振り返って見ている。近くまで来ていたようで、上手に猫をかぶったクライドがそこにいた。どう? と兄から声をかけられたトトリは、こちらに背を向け本棚に手をつき、肩を震わせている。
「トトリ、どうしてそんなに笑うの。なあに?」
「いえ、ローズ様。今日も素敵ですよ」
答えになっていないわ。もう、と私は憤慨する。あぁ、なんとなくわかりました。と、なぜだかクライドは納得しているし。
「いい友達を持ちましたね」
「話をちゃんと聞いてた? さあこれから魔術講義を、と思った矢先に、べつの用事に割り込まれて先延ばしにされているのよ」
あぁもうまったく。誰かちょっとでいいから慰めて! 私はため息をつき、長椅子に体を預けるようにして天井を仰ぐ。
つまり、だから、ここは、セファの工房だった。宮廷魔術師は、それぞれこの魔術塔に部屋をもらう。私と、トトリと、クライドの三人がゆったりくつろいでいても狭く感じないのも当然で、五部屋分ほどの役割の別れた部屋に、水回りがついていた。この部屋で十分暮らせるだけの設備の整った、セファ曰く持て余すほどの好物件。とのことだった。
目を離せない実験をする魔術師や、秘匿したい研究の結果が出るまで部屋から出ない者。ただの人嫌い。様々な人たちがこの魔術塔にこもっているらしい。
もっと優れた魔術師だと、塔一つもらう。それも、転移陣付きで。移動陣が開発される以前は、移動用の魔術具がや飼いならされた魔獣がついたらしいけれど、便利な世の中になったものだった。
そのセファの工房の談話室で、私たちはくつろいでいた。
「もっと優れた魔術師なら、と言いますが、魔術師セファよりも優秀な魔術師がどれだけいるでしょうかね。あの人、とんでもない逸材では? 彼の杖を見たことがありますか。身の丈ほどの大杖を」
不思議そうな口調だった。クライドに聞かれて、内心首を傾げながら頷く。
初めて会った時、あの東屋で座っているにも関わらず手放さなかったあの杖だ。てっぺんに石がついていて、多分、素材は木だったとは思うけれど、よく磨かれた艶があって、つるりとした手触りで、何か知らない世界の金属のような。それを手にしているのが銀髪に白い外套を頭からすっぽり被ったセファだったから、なんだかこの世に二つと無いものすごい杖に思えた。
「セファは、そんなにすごい魔術師なんですか?」
「思想派閥にもよりますが、大きな杖を扱える者ほど優れた能力を行使できる。と言われています」
言われている。と、繰り返しながら首を傾げた。思いもよらない会話の流れで、まさかクライドから魔術に関する最初の講義を受けるとは。
「そもそも、魔術の才がある者が集められる魔術学院で、まともに杖を得て魔術師として卒業するのはごく一部です。俺は得ることはありませんでした。あそこは、ある程度自らの力を制御し、魔法を暴走させないためと、いざという時貴族として最低限の魔術を行使できるよう、知識を平たくして広めるための場ですね」
なので、最低限の知識を身につけたとわかれば、学院に通う必要もなかったりする。とのこと。まぁ、私のような例外もいるけれど。
「それで、魔術師は自分の能力に合わせて杖を使います。大掛かりな魔術を行使するには、杖に魔力を通す必要がある。魔力の安定と、術式の補強のために。ただし大きな杖ほど必要な魔力量が増えるので、魔力量の足らない魔術師は小さい杖を当然選ぶわけですが」
ではなぜ、そんな使い勝手の悪そうな大きな杖を、セファは持っていたのか。
「小さい杖では気軽に流す魔力によって粉砕する恐れがあるんです」
瞬いた。
「粉砕」
「弾け飛びます」
「破片が」
「持つ手は血まみれです」
まぁ。と口元を覆う私に、それはもう、とクライドが頷く。どうやら手に握ったその部分から魔力を流すので、手元が無残なことになりかねないのだそうだ。
「そこから考えて、セファが気軽に扱うあの大杖を見れば、今代の宮廷魔術師の中で一番の実力者といえば、魔術師セファでしょうに。なにせ彼は」
「妙なことをローズ様に吹き込まないでよ」
おや、とクライドが視線を部屋の出入口へと向ける。そこに、音もなく湧いてできたかのように佇んでいたのは、今、声を発したセファだった。
「セファ」
思わず私は振り返って立ち上がる。丸一日もどこに行っていたのと詰め寄りかけて、なんだか外套にすっぽり包まれた奥、疲れた様子の友人を覗き込んだ。
私の方は見ずに、セファが外套を脱ぐ。覆われていた銀髪はうなじで一つに結ばれていて、紐を引っ張りほどきながら「お土産」と口にして手に持っていた紙袋をトトリに渡す。トトリは瞬いて中身を確認し、花が綻ぶようにして笑った。
綺麗なセファと、可愛いトトリがああしているのを見ると、なんだかとても幸せな気持ちになる。と同時に、ものすごい違和感に襲われて落ち着かなくなるのも確かだけれど。
私が一人オロオロしている中、セファはため息をつきながらクライドの隣に腰を下ろした。
「なんの実績もない僕に塔一つ与えるほど、国王陛下は考えなしじゃないよ」
「実績がない? 異民族融和の立役者が?」
やめてくれ、と迷惑そうだった。小脇に抱えたカバンから、何冊か本を取り出し私に差し出す。
「これは?」
受け取りながら、表紙をなぞった。しっかりした装丁のずっしり重い本が数冊。セファのように抱えようとして、すぐに無理だと諦めた。卓の上に並べた本を、順に眺める。
「基本的な魔術指南書。僕がローズ様に教えるのは間違い無いんだけど、話を聞くに、君は自分でそういうのを読むのも苦じゃ無いと思ったから」
ありがとう、と囁く。私がなんだかうまく次の言葉を選べないうちに、クライドとセファが立ち上がって挨拶をしていた。なんだか不思議な光景だ。
「宮廷魔術師殿におかれましては、ご機嫌麗しく。この度はローズの魔術指南役を受けられたとか。お役に立てることがあるかと、参上致しました」
「あぁ、ありがとう。こちらから呼ぼうかと考えていたので、手間が省けた。クライド・フェロウ。あなたの母君、ワルワド伯爵夫人が、かつてローズ様の魔術指南役だったと聞いている。当時の情報で何かあれば提示してくれるだろうか」
喜んで、とクライドは魅力的に笑い、ちょっとセファの顔が引きつっていた。甘いマスクと言うやつね、と私はなるほどと納得する。
「ローズ様の魔力特性のことで、あなたの知っていることを教えてほしい。類い稀な結界系の才と、魔力を持つ貴族の伯爵家の生まれでありながら、ごく微量の魔力量。そして僕が見た、彼女の結界。
最初の魔術指南役は、一年と経たずに辞めているね。表向き、ローズ様は王太子と婚約して、全ての教育は王宮が主導となったためとなっているが、本当にそれだけだろうか」
それは、と私は思わず口を挟んだ。身を乗り出して、手をついた先に本がある。ぱっと手を自分に引き寄せ胸に抱いた。セファは私の方を振り返って、困惑顔で見ている。
「何か、思い当たることがあるの?」
思わず首を振りながら、クライドを見る。クライドもやっぱり困った顔をしていた。それは、そうだ。私の、最初にして最大の大失敗。彼は、その一番の被害者。
せっかく周囲に人がいて、猫をかぶったクライドと穏やかに会話ができていると言うのに、きっとこれは次に二人きりになった時の反動がひどいでしょうね、と内心憂鬱だ。
「まぁ、ローズの魔力特性の話をするなら、避けて通れない過去ですね。近いうちに話すことになるだろうとは、思っていました」
さてさて、と顎を撫でる。トトリが身を翻して奥へと行ってしまった。長い話が始まることを察して、お茶を出してくれるのだろう。化粧師であるトトリがこんな風に侍女の真似事をするのはどうなのかしら、と私はつい、よそ事を考えてしまう。
まだ、話をする整理がついていないから、後日改めて、とはいかないかしらね。
「……どこから話せばいいでしょうねぇ」
クライドが、長椅子にゆったりと座り直す。どうやら、彼は話すことにしたらしい。私は小さくなって俯いた。膝の上で手遊びをしながら、どうしようかしらと狼狽える。何に狼狽えているのかしら。あぁ、これは、私の失敗の話だからだ。私の、もみ消された罪の話。
どうか、セファに嫌われませんようにと、願うことこそが悪いことのように思えた。