1.辺境城塞都市
辺境はいつも、浮き足立ったような緊張に包まれていた。
中でも、大きな城砦のある主要都市であったならなおさらだ。毎晩酒場では騎士や人夫がから騒ぎを繰り返し、女たちは家にこもり娘や子どもを守る。
平時であれば明るい空気に包まれてはいても、一度戦闘があれば街を挙げての一大事。女子どもは砦にこもり、戦闘員でない男たちは補給路を確保し時には伝令役も担う。戦闘に出るのは騎士たちだ。
異民族の戦闘行為は常に少人数で、食料を奪うだけのこともあれば魔力の才能を持つ若人をさらうこともあった。
目に見えて組織だった急襲であるため、砦の騎士たちはここを退かない。いつ大群で攻めてくるかわからなかったからだ。
街で暮らすのは騎士たちと、その家族、代を重ねたその親戚、また、他に行き場がなく流れ着いた者。流れてきて、またどこかへ流れていく者、様々だ。
戦闘がある限り砦があり、砦がある限り騎士がいる。騎士がいるかぎり、人々がいて、そこに商いのタネや使命感を見出した商人が行商に来る。店を構える。店があれば物が止まり、物が溢れれば人が集まり、戦闘を日常にしながらも、辺境都市が寂れることはなかった。
怯えや不安と紙一重、箍の外れた狂乱の幕開けはいつか。そんな風に考えていた人々の恐怖を拭い去ったのは、王都からやってきた一人の少女だった。
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窓を開け放つ。三ヶ月以上留守にした家は、空気がこもっていて埃っぽく、風によって簡単に舞い上がった。その只中へ頭から突っ込んでしまって、口元を袖で多いながら咳払いを繰り返す。
咳き込みながらと新鮮な空気を求めて窓辺にもたれかかれば、遠くに笑い声が聞こえ、つい目を向ける。窓の外を見下ろすと、街の誰もがあの頃よりもずっと穏やかな表情で、そこかしこをのんびり歩いていた。人は、心から安心して過ごせるようになると、内側から輝くのだ。誰もがキラキラとして眩しくて、僕は窓辺を離れた。
この書斎は僕の書斎だったけれど、もともと住んでいた頃からあまり足を踏み入れていない場所だった。そもそもが、ここにある本の大半が、自分のものでないせいだろう。あらかた読んでしまったけれど、愛着はない。興味があるのは中身だけで、これらが並ぶこの空間そのものに執着はなかった。
古書の匂いを嗅ぎながら書棚を順番に眺めていき、必要な本を一冊、二冊、と抜き取っていく。床に積んである本を一瞥して、ため息をつきながら本の整理をしようかな、など余計な考えがよぎった時だった。
部屋の外、廊下を誰かが慌ただしく走ってきて、この部屋の扉を蹴破る勢いで飛び込んで来る。
「セファ!?」
黒の外套を着込んだ男が、肩で息をしながらつんのめるようにして立ち止まった。僕と目があうなりつかつかと近寄ってきて、胸ぐらを掴んでくる。僕の身長が低かったなら、きっと釣り上げられていただろう。
懐かしい森の香りに、まさかいるとは思わなくて、目を丸くする。
「師匠? なぜここに」
長身と言われる僕よりもいくらか背の低い、若い男。師匠は相変わらず年齢不詳で、けれど、それは魔術師全般に言えることかもしれなかった。
黒い髪に翠の瞳、その表情は、再会を喜ぶべきか、なんの相談もなく辺境を離れたことを怒るべきかくるくると変化し、連動するようにして口が開け閉めされていた。
「セファ、お前、辺境に戻ってきてたのか。……いつ?」
幸い冷静な対話を選んでくれたらしい。怒鳴られるかとドキドキしていた僕は、内心ほっと胸をなでおろし、今朝、ちょっとね。と、返す。
そうかそうか、と師匠は頷いた。胸ぐらを掴まれたまま、その手に力が込められたのを感じて、うん? と思う。なにやら、頰に冷や汗が伝った。
「……王国の宮廷魔術師になったとか」
「あぁ、うん。まあ。言わなかったっけ」
「いや、それは知ってる。そう。祝いに本を山ほど送ったからな」
「うん。おかげで、もらった部屋の書斎が埋まった。整理が追いついてない。今度手伝えバカ師匠」
うるさいうるさいと胸ぐらを掴んだ手を揺すられたので、仕方なしに黙る。あっちの書斎がここと同じく足の踏み場も無くなったのは、間違いなく師匠のせいだった。
「あの、とんでもないお姫様、ローズ・フォルアリス付きを表明した?」
「……そうだね」
「……そのお前に、王都からここまでの移動陣の使用許可が?」
じとっと、睨みあげてくる師匠に、なんと返していいか固まってしまう。つい、作り笑顔を浮かべそうになると、目がカッと見開かれ慌てて真顔に戻った。危うく逆鱗に触れるところだった。
子どもの頃から面倒を見てくれている師匠に、嘘もごまかしも通用するわけがない。
「その、王国が大切に大切に囲い込んでいたローズ・フォルアリスに、魔術の手ほどきをすることになったんだよ。だから、使えそうな教材を取りに来たんだ」
白状すれば、やっと師匠の手が離れた。ガタガタと埃まみれの椅子を引き寄せ、顔をしかめると懐から短い杖を取り出す。コンコン、と椅子を杖で叩けば、埃が拭われ綺麗な椅子が現れた。
簡単そうにやってみせるけれど、その携帯に便利な短い杖でそんなことができる魔術師はそう多くはない。相変わらず、見た目の年齢にそぐわぬデタラメな人だな、とため息をついた。
「……ローズ・フォルアリスに、魔術指南だと? あの娘、歳は幾つだ」
「十七だよ。教えるといっても、魔力制御や、魔力生成だとかの初等過程のさわりだけ。杖を持つほどの魔術師になる素質はないから、独学となんとなくで行使する癖を直して、より安全な魔術行使をさせようかと……何」
「その歳で、魔力制御を独学でこなしていた? 王都に暮らす伯爵令嬢が」
椅子に座って、足を組んだ師匠が、訝しげに眉をひそめる。それは僕もちょっと思ったけど、と前置きして、でもそんなに問題にするほど変なこと? と首をひねった。
「師匠の師匠だって、魔力覚醒は十六歳くらいだったんでしょ。魔術学院入学直前? いや、一年遅れだったっけ。まぁ、とにかく、それでも伝説級転移魔導師なんて呼ばれるくらいになれるんだし、ローズ様だってそんなに言うほど珍しいことじゃないよ」
「珍品中の珍品を比較対象に出さないでくれ。あの方の例はそうそうあるものじゃないし、あの方が伝説級転移魔導師と呼ばれるまでに至ったのは、それ以前に覚醒しない魔力のまま、他の分野を極めていたからであって、決して魔術研鑽の出発地点が十六歳の魔力覚醒後だったと言うわけではないのだから。そもそも、それ以前にーー」
しまった。師匠の師匠賛美が始まった。耳にタコができるほど聞いた師匠の師匠賛美は、慣れれば生活環境音として耳に馴染むけれど、会話をしたい時には困る。一対一でローズの魔術指南など、僕の手に余ることは明白なので、聞きたいことがたくさんあったのに。魔術の才能だけで宮廷魔術師になった僕だけれど、人に教えるなんてことはこれまで一度だってしたことがないのだから。
その点、師匠は他国出身でありながらこの王国の魔術学院出身で、学院卒業認定者の資格も持っているし、身近にいる人物で話を聞くならこれ以上ない。あぁそうだな、僕も魔術塔に工房を置く宮廷魔術師として、魔術学院で講義の依頼が来ていたと思うけれど、いい機会だし受けてみようか。
ローズ以外の生徒を見ることで、ローズの魔力特性へのより良い教育課程を思いつくかもしれない。
それた思考をまとめ上げ、よし、と師匠に意識を戻す。ちょうど師匠も師匠賛美が終わったところらしかった。
「ところで師匠。前に書いてた、魔物図鑑みたいな本、完成した? 少し確認したいことがあって」
「それなら、魔術塔の方に送ってる。馬鹿みたいにでかく作ってしまったので、探せばあるだろう」
「探すか……見つかるかな……」
げんなりした。本当に本の山がいくつも出来上がっていて体が隠れてしまうほどなのだ。あの中から探すなど、想像するだけで気が滅入る。
けれど、先日知った事実を照らし合わせるためには必要だった。目の前のこの師匠の知識も。ため息をつきながら手にした本の埃を払う。ローズに渡すなら、一通り拭いたほうがいいかもしれない。
僕が師匠の視線を無視して考え込んでいると、その師匠も何か考え込んだ様子で、じっとしていた。
「魔物について確認したいとは、また珍しいことを。何かあったか」
「うん。後でちょっと聞いてほしい。今はとりあえず目ぼしい本を見つけて……、用事を済ませて食事でもしながら、でどう?」
わかった、と師匠は快諾してくれる。なんだかんだと、僕からの頼みは二つ返事で聞くのだ。小言も世話焼きの一種のようで、そんなに気を回さなくていいのにといえば、お前ほど頼って来ずなんでもできて、手のかからぬ弟子も珍しいとぼやかれた。どうも、弟子のことで苦労してみたいらしい。
「で、他には何があった?」
「へ?」
出し抜けに問いかけられて、とっさに素の返事しかできなかった。師匠は僕をじっと見上げて、ニッと笑う。
「その、ローズ・フォルアリスについて。魔術指南のための教材を取りに来た、なんて言うが、それこそ鳥でも飛ばして私に好きに見繕って送るよう依頼すればいいだけだろう。わざわざ自ら足を運ぶなんて真似、お前らしくない」
そもそもね、と師匠は肩をすくめて続ける。
「お前がローズ様に王都へ連れて行かれて、宮廷魔術師になったってきいて、突然手放されたこの家を守ったのは誰だと思ってる。空き巣からも浮浪児からも守っていたんだぞ。そのうち鳥か何かで連絡が来るかと思って、必要な時に必要なものを送ってやれるよう、三日とおかず家にきて留守番をしていたというのに」
一体何があって、こんな面白いことをしているのかな。
好奇心に爛爛と目を光らせ、逃しはしないとニンマリする師匠の顔を見ながら、僕の頰は引きつった。必要だなんて一言も言っていない本は大量に送りつけておいて、この言葉。なんだか良いように責められている気がする。
何があった? 一体何があった、だって? 脳裏に閃く様々な出来事はあるけれど、そのどれも何一つとして師匠に教えてなるものかと口をつぐむ。
「辺境にいた頃はあっちへ行くにもこっちへ行くにも、ローズ様の後ろを付いて回ってたあのセファが、ローズ様に対して魔術指南ができるまでに成長するとは、師匠として心から嬉しいよ。さぁ、彼女となにがあったのか、話して聞かせてくれ。さぁ。さぁ。さぁ」
徐々にかけられる圧に屈しそうになる。杖の一つでもあればこんな圧はねのけてしまえるのだけれど、あいにく、あの身の丈ほどの大杖は手元になかった。
「……しいて、言うなら」
脳裏にいろんな場面が浮かぶ。それを必死にかき消しながら、当たり障りのない話を探した。
「……今、魔術塔にある僕の工房に、いるんだ」
よりにもよって一番盛り上がりそうな燃料を投下してしまったことに、気付いた時には遅かった。わくわくと子どものように輝く師匠の顔に嫌気がさして、もう帰る、とその横をすり抜ける。当然のように腕を掴まれ引き止められた。
「なんだ? あの深窓の姫君、麗しのローズ・フォルアリスが自分の工房にいて、二人きだといたたまれずこんなところまで逃げたのか? 本当に? こんなところって、ここ辺境だぞ。王国の中心である王都から、端の端、対異民族戦闘用の砦を備えるこの辺境まで?」
ぶふ、と吹き出す師匠に、拳を叩き込みたくなる。腹か、顔か、どっちだ。拳を握るのが不慣れなら、より確実なのは腹か。
「何も想像させたくないし、教えたくもないけれど」
震える声で、白状する。まず最初に、二人きりの工房でローズが口にしたセリフを、誰にも教えたくないし、ちょっと聞いてくれ信じられるかと誰かから慰めてもらうために教えて回りたい。
『何もかも初めてなの。だから、どうぞよろしくね、セファ』
工房に二人きり、自然距離の近くなる対面での魔術制御指導。これから始めると言う時に、ローズが改まってそう口にした。目の前で嬉しそうに頰を上気させ、微笑まれてみろ。どこからかふわりとやってくる花の香りに意識が向いた瞬間、気づけばその場から立ち去ることを決めていた。
そんな風に、身の危険を感じて逃げ出した僕は間違っていない。
「…………決定的な問題が起きる前に、やるべきことを決めて揃えて職務を忠実にこなす。そのために必要な、戦略的撤退だったんだ。うるさいな笑うなバカ師匠」
腹を抱えて椅子ごとひっくり返った師匠を、僕は苛立ちに任せ蹴飛ばした。
現在進行形で、色々な感情を脅かされているこの事実もそうだけれど、逃げ出したくなった理由はまだあった。
ハミルトン侯爵家での、晩餐の席で。侯爵夫人がその場を辞し、フェルバートと、トトリと、僕と、ローズだけになったあの部屋での、あの、出来事。
「私と、フェルバートの、婚約」
食器もお茶のカップも何もかも下げられたテーブルに視線を落としながら、ぽつんと囁いたローズ。
ローズの方を一切見ないまま沈黙するフェルバート。
固唾をのんで見守るトトリ。
隣に座っていながら、ローズの方もフェルバートの方も見れず、拳を握っているしかなかった僕。
「許さなくていいと、言いました」
はっきりとそう言った、フェルバート。どんな顔をしているんだろう。なんて声で、ローズを突き放すのか。
知っているくせに、ずるい奴。
僕の心の奥底で、どろりとした何かが囁いた。
「フェルバート」
ほら。
どろりと、黒い塊が、僕の奥底で波打つ。
そんな風に俯く人間を、放っておける人じゃないって、十年以上その身辺にいたという護衛騎士が、知らないわけないじゃないか、
ローズが、席を立つ。頑なにローズの方を見ないフェルバートの傍に、彼女は立った。
思わず顔を上げて、ローズを見る。彼女の手が、あの東屋で僕に触れた時と全く同じようにして、フェルバートの腕を引いた。