2.白銀の宮廷魔術師
体の全部を覆い隠す頭巾のついた白い外套に、身の丈ほどの杖。銀の長い髪を結ぶ紐につけられた、赤色の飾り羽根によって、宮廷魔術師だとわかる。
ひょっこりと東屋から出てきた優男は、私と目が合うと非常に嬉しそうに笑った。眼鏡の奥でにっこりとする顔は、けれど目が笑っていないことはすぐにわかった。明るい薄茶の瞳は、凍えるような哀切を秘めて私を見ている。
「こちらへどうぞ、ローズ様。事情を説明がてら朝食でも一緒にどうかな。トトリ、準備を頼むよ! ……さて、怯えているのはわかるけど、話の前に離れてくれる? 嫉妬で気が狂ってしまいそうだ。フェルバート、君に言っているんだよ僕は」
言いながら踵を返して魔術師は出てきた東屋へと戻って行く。私は魔術師の言葉を反芻して、すがりついたものを認識する。騎士団の黒い制服に覆われた、一本の腕。胸にかきいだくようにして両手でしがみついたそれは、肩につながっていて、首があって、その先の顔は、困惑しきりの騎士フェルバードが……
「ふあああああああ!」
貴族令嬢にあるまじき悲鳴に、されど大声を出し慣れていない声は、張りのないまま空気が抜けたようにしぼんだ。ついでに反射で飛びのいてしまったけれど、あっさりと均衡を崩した体は、テラスの床に叩きつけられそうになり、
「ローズ嬢っ!!」
フェルバートの手に捕まえられ、ことなきを得た。いやそれでよくはない。失態に次ぐ失態に顔が爆発しっぱなしで、私はもう気を失ったほうがいいのではないかと思い始めている。気を失うことも失態の一つに挙げれるので、もう逃げ場はない。
捕まえられた手は、私が平静を取り戻すまで離される気配がなかった。お礼を言うべきか、騎士なのだから当然だと突っぱねるべきなのか、その反射神経を褒めるべきか、そろそろ気が遠くなりかけたところへ、東屋から咳払いと冷気が伝わり、私とフェルバートはパッと離れて東屋へと赴いた。
「さて、君は今どこまで聞いているのかな。今が八月というのは聞いた? 君の記憶は春先の王太子殿下の生誕祭から途切れてる。なるほどね。うんうん。ちなみに今は八月だよ。そう、それはわかってる。でも半年後じゃないんだ」
私を席につかせて、フェルバートは傍らに立ったままだ。それも気にせず、向かいに座った魔術師は笑って話し出す。ともすれば聞きそびれそうなまくし立て方に、私はトトリが用意してくれたお茶にも朝食にも手を伸ばせず、固唾を呑んで耳をすませた。
「一年と半年後、だよ。ローズ様。君はあの後、王城で休む間も無く馬車に乗りこみ、辺境へと旅立った。そこのフェルバートをお供にね」
名前が出て、思わず傍らの騎士を見上げる。彼はこちらを見なかった。ただ、睨むようにして魔術師を見ている。
「そして、辺境で僕と出会った君は、僕の研究に異民族との和解のタネを見出し、そのまま騎士団を率いて異民族との争い収めることとなった。二ヶ月後には互いに利のある条件で交易を始め、今のところそれはうまくいっていて、今はもう民間で行き来が始まっていると聞いているな。ーーあぁ、交易が始まった頃には、僕と君、国王に招致されて城に戻ってるから。君がそのよく回る舌弁を振るって王太子やその取り巻きの不正を糾弾して、フェルバートが証拠集めに走り回って。結局王太子の立場は不適格ということで、第二王子がその座に就いたよ。昨夜は第二王子の生誕祝い」
経緯はわかったかい? と魔術師は笑う。私は目を白黒させながら、聞いた言葉を飲み込めないまま咀嚼した。
……つまり、本当に、私は半年間……、いや、一年半もの記憶を失ったということだろうか。けれど、この私が異民族との和解をとりなし、元婚約者の王太子の不正を暴いてその座から引き摺り下ろした……? そんな、恐ろしいことを、私が?
助けを求めて視線を巡らす。フェルバートが、私の視線をすくい上げるように目を合わせてきた。
「……正しく言えば、異界の記憶を持つ異界渡りの巫女が、あなたの体に乗り移ったのだそうです」
「異界……? リリカ様のことですか」
「まさか!」
いやいやまさか、と声を張り上げたのは魔術師だった。出し抜けに放たれた大声に、びくりと身を震わせる。
「あんなのは、神殿が呼び寄せたただの象徴みたいなものだよ。特別な知識も技能も持ち合わせていない、ただの異世界の上流階級の子どもだ。親の庇護下でのびのびと青春を謳歌していただけの彼女に、望むべくものは何もないねぇ。それでも、教団総本山を抱える我が国が、列強諸国へ権威を示す旗印としての役割がある。召喚されて早々に王太子に目をつけられ、囲い込まれたのは気の毒だったけど。あぁ、今はきちんと勉強に励んでいるよ。覚えることは山ほどある。最近ようやく、他国の使者との会談に同席が許されるようになったとか。発言はまだ許されていないようだ」
言葉を挟む間も無く、魔術師は語る。ひどく冷たい目が、ふと、緩んだ。
「あの人は、あんな子どもとは全然違う。気高く、強かで、貧弱なくせに全部抱え込む」
ねぇ、ローズ様。魔術師が優しい声で囁いた。朝食が並ぶ卓の向こう側、優しい優しい表情で、私を一心に見つめている。
「君に口づけすることを、許してくれないかい」
「……はい?」
突然、その瞳に熱が灯った。燃えるような、怪しげな光を宿して、今にも立ち上がろうと身を乗り出してきそうな重心移動を感じ取った。そんな機微に気づくほどに、私は突然の申し出に神経が張り詰める。
「あの人のことを思って、君に口づけさせてくれ。あの人もそこにいる騎士フェルバートも、許してくれなかったんだ。体は君のものだから、君の許しなしに触れることは許可できないと。もうあの人はここにはいない。もう二度と現れることはない。異界渡の巫女として、役目のために、次へと世界へ旅立ってしまった。その体に入って、あんなに美しく、かっこよく、僕の世界を塗り替えたあの人に、僕は一度も触れることはなく、愛を乞うこともできず、引き留めることさえ叶わないまま、ただ、指をくわえて見送るだけで……っ」
「セファ、もうやめろ」
「昨日まで、君はあの人だったんだ。君は、ほんの昨夜まで、あの人だった。僕はすでに別れを告げられ遠ざけられて、はるか遠くから見ることしかできなかった。もうじきいなくなるあの人に、最後の言葉を伝えることもできず」
あぁ、と唐突に理解する。私は今朝、王城の、贅を尽くした二間続きの客間の寝室で目覚めた。あれは、その異界渡の巫女のための部屋だったのだ。婚約破棄を言いつけられて、親から勘当された私はその場で意識を失って、代わりに目覚めたその人は踏みとどまって、私の代わりに辺境へと旅立った。異民族との融和を果たし、王太子の所業を是正して……、辺境で埋もれていた、とある魔術師を見出し、宮廷魔術師にまで押し上げた。
徐々に取り乱していく彼のその様子、声から、判別できなかった年の頃合いが浮き上がってくる。きっと、私よりも年下か同い年にしかならない男の子だ。人との別れに慣れていない、他者に簡単に価値観を委ねてしまえる子ども。寄る辺を失い、放り出されて、立ち尽くしている。
セファと呼ばれたこの魔術師は、ほんの昨日までいた大切な人との別離に耐えているのだ。
無意識に体が動いた、席を立ち、フェルバートの制止の声も聞かずに、魔術師セファの傍らに立つ。先ほどまで顔を歪めて私に口づけを乞うていた彼は、驚きに目をまん丸にしている。薄茶の瞳が綺麗だなと思いながら、手を伸ばす。大きな杖は常に右手で握っていて、その手に両手を重ねた。冷たい手が、さらに固く杖を握る。
「私が、代わりになりますか」
ひょろ長い少年は、私の言葉にうろたえた。泣きそうな顔になって、杖を持つ方の手を振り払って引き寄せようとするのを、放すものかと力を込める。
「嘘だよ」
観念するのは早かった。セファは、泣きそうな顔のまま、嘘だよ、と小さく繰り返す。十六の私より、……いいえ、ちょっとまって、一年半もの記憶が飛んでいるということは、私はもう間も無く十八になるということでは。そう、それなら、それならこのセファは間違いなく私よりも年下なのだろう。白い外套に、顔を覆うほど大きな頭巾。くわえて滑らかな語り口調に魔術師という肩書きが、年齢不詳にしているけれど。こうして感情をあらわにすれば、簡単に露呈した。
「こんな風に脅せば、近づかないと思ったのに。君はなんなんだ。人がよすぎる。哀れんだのかい? 同情でもしたのか? 哀れんで、優しく声をかければ、力になれるとでも本気で思ったと? そばにいれば、僕は君にあの人を重ね続ける。君にも僕にも生産性のない、くだらない関係を築くつもりはなかったから、だから……っ」
拒絶を続けるセファの手に、私の両手は重なったままだ。えい、と力を込めると、面白いように彼は言葉に詰まった。屋外であることもかまわずに、膝をつく。椅子に座る彼と、視線が近づくように。薄茶の瞳はすでに涙がにじんでいて、褐色のまつ毛を弾く雫は無垢だった。
「お話を聞くだけで、その人はとんでもない女傑だと思ったわ。とても私が成り代われるわけがないとわかるほど。あなたがわかっているだろうことを確認しただけよ」
取り繕いにもならないことを言って、小さく笑う。あんな風に口づけを乞われたのは初めてで、まっすぐ向けられる狂気の目は恐ろしかったけれど。でも、年下の男の子だと思えば怖くなかった。怯えて惑っているだけだと思えば、手を差し伸べるのが年長者の役目だとも。
「私も、いつも泣きそうなの。泣かないでって、言ってほしくて怯えてうずくまっている。情けない、貴族として不適格の落ちこぼれ。だから、それを言う相手がいるなら、膝をついて目線を合わせて言うわ」
こんなのが、元王太子の婚約者をしていただなんて、お笑いだったのかもね、と思う。不適格の烙印を押され位を追われた王太子と、貴族として落ちこぼれの私は、きっとある意味お似合いだった。
あれ、でもまって、これまでの経緯はわかったけれど--、
「ローズ嬢。セファとのお話はすみましたか」
微動だにしていなかったフェルバートが、固い声を発した。
「今後の話を、しなければなりません」