34.祝福のために
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目の前の竜を見上げながら、瞬きを繰り返す。
何から問いかけたらいいのかしらと、とりあえず頬に手を当てて、首を傾げた。
「魔法使いが綺麗な竜だなんて、素敵ね……。竜も、魔法使いも、ただでさえ特別なのに……」
「そんなふうに言うのは君くらいだよ」
銀に輝く鱗をまじまじと見ていると、笑いを堪えるような声とともに頭上にとどまっていた竜がゆっくりと降りてきた。近寄ろうとすれば制止の声をかけられたので、その場で待つ。
「いろいろ見聞きしたって聞いたけど、……銀色の生き物を怖がらないのは、変わらないんだね」
竜が動けば、その背に人影があることに気づいた。白の外套を羽織った彼は、地に足がつくやいなや私の元にやってくる。
本当に久しぶりに見ることになるその姿に、なんと声をかけていいかわからなかった。
束ねられた銀の髪は背中で跳ねて、銀縁の眼鏡の向こう側に琥珀の瞳が輝いている。旅立ったあの時と変わらない姿に、なぜだか安堵した。
なのになぜだかものすごく緊張していて、脈打つ鼓動を無意識に押さえつける。
そんなこちらの気も知らず、あちらは躊躇なく近づいてくるので、衝動のまま距離を取るべく後ずさった。だって今の私の格好を思い出して欲しい。ずぶ濡れのボロボロなのだ。羽織った学院外套の下だってあられもない姿で。
逃げ出すそぶりを見せた瞬間、彼の足が止まる。
「ローズ様?」
「ち、ちがうの、ちょっと待って私てっきり、あなたが竜になったかと」
「そんなわけないだろう。なんで逃げるんだ。——ところで君、僕に何か言うことは?」
「ええと、なんのことかしら。それよりあの、ちょっと、一度止まって————」
言葉の途中で手を取られた。振り払おうと思えば簡単にできそうな優しい力で、でもそんなことできるわけはなくて。それ以上逃げ出さない私を瞬時に察して、優しく引き寄せられる。すぐそばで立ち止まれると思ったのに、そのままの勢いでセファの胸元に顔が埋まった。身動きは許されなかった。
背中にセファの両腕がまわって、強く抱きしめられる。頭上で大きく深呼吸する気配に、なんだかとてもうろたえる。
「な、なんで」
「説明、いる?」
いるわよ! と叫んだ言葉はどもってちゃんと発声できなかった。
力一杯抱きしめられた後、やっと腕の力がほんの少し緩んで顔を上げられたかと思えば、セファの指先が私の後頭部を捉える。上向きのまま固定され、セファの琥珀色の瞳が真正面から見つめてきていた。
その輝きに、息の仕方を忘れてしまう。
「僕は工房にいろって言ったはずだけど。……何か弁明は? ロゼ?」
ひぅ、と喉の奥が悲鳴をあげる。そんなこと、こんなに密着しなくてもいい会話だと思う。なんというか、そう、なんだか卑怯だ。弱みに付け込まれている気がする。別に、私に弱みなんてもの存在しないけれど。
「ロゼ」
「こ、こんな近くなくてもいいと思うの」
「べつにもっと近くてもいいと思うよ」
「もっっっっっっ!?」
もっとってどれくらい!? これ以上ってどういうこと!?
私の髪にうずめたセファの指先が、撫でるみたいに動いたのがくすぐったくて肩が跳ねる。セファは私の表情を何一つ逃すまいとしているみたいに、何? と言う顔をしているけど、こんなのは、なんだか、とても——————。
そらした視線の先にいたクライドと目が合って、今度こそ悲鳴をあげたくなる。
「ひゃ、セファっ……。や、だめ、あの」
「……やっぱり弁明は後でいいか。ロゼ、ちょっと黙って」
そう言いながらこめかみに唇が寄せられて、もう何が起きたかがわからない。声が頭に直接囁かれているみたいで、考えていることがまとまらない。
セファの眼鏡のつるが目元近くに触れ、その金属の冷たさにハッとした。
「ちょっと待ってと言っているでしょう!」
悲鳴混じりにセファの身体を押しのけて、その頬に手を伸ばした。ちょっとつねってやれば、正気に戻るに違いない。八つ当たり気味に、もう!! と内心で叫んだ時、
異常に、気づいた。
手が触れたセファの頬の熱さに、え? とその顔をふり仰ぐ。
「セファ?」
「うん」
「とても熱いわよ。ねぇ、あなた今どうなって……」
私とセファの様子に気づいて、クライドもそばにやってくる。一部始終を見られていたかと思うとうろたえてしまうけれど、クライドは素知らぬ顔でセファの顔を覗き込んだ。
「……魔力が暴走しかけているのか」
「ちょっといろいろあってさ。後から後から魔力が生み出されている状態なんだ。今いろんな術式回して相殺してるところ。あの竜なんかは結構な魔力量持っていかれるからちょうどよくて————」
「馬鹿か、ずっとなんて無理だそんなの。————狂ってしまうぞ」
そこにいる竜はつまり、セファが作り出して維持しているものだと言うことがたった今判明して、それはそれで私の頭の中に疑問符が飛び交う。けれどそれはともかく、セファは今果てしなく難解な術式を常に展開し続けなければいけない状況らしい。そしてそれは、体に著しく負担を強いるものだとクライドが眉をひそめる。
知識の足りない私には、それがどれほどのことかわからない。
ただ、赤の王国から術式の竜を作り出してここまでやってきたというのなら、すでに今、負担は蓄積しているはずだった。
「なんで、そんな」
「いろいろあって。まぁ、どっちにしろ君の誕生日までには戻ってくるつもりだったから」
想定していなかった言葉が聞こえて、私はぽかんとする。
あれ、とセファが首を傾げた。
「今日でしょ?」
「……そうよ。だけど」
「うん。間に合ってよかった。ローズ様、十八歳おめでとう」
優しい顔で告げられる。
彼は今、体が辛いはずなのに。早くどうにかしないといけないのに。なんでそんなことを今、何よりも一番大事なことみたいに。
「でも十六の春から記憶が飛んでるなら、実質君って十七なんじゃない?」
「来月にはあなたも誕生日がきて十八になるでしょうに、ほんと変なことにこだわるわよね……」
セファが年上みたいに振舞いたがるのは、きっと私が頼りないからだろうけれど。魔法使いになる人に年齢の概念なんて、誤差みたいなものじゃないのだろうか。少なくとも、いずれはそうなるだろう。
呆れ半分で息を吐いていると、セファの手が私の頭に乗った。ひと撫ですると、ずぶ濡れだった私の衣服が一瞬で乾いていく。自覚していたよりもずっと冷え切っていた体が、暖かさにほっと弛緩した。
それも束の間で、深刻な表情でまじまじと見下ろしてくる琥珀の視線に、何を言われるのかと身構えた。
「……この下に着てるのって、婚礼衣装?」
「? 違うわ。今朝着たこれは、異界渡の儀のための衣装。でもここにくる途中でいろいろ脱いだから、ほとんど原形をとどめていないわ。夜着みたいなものよ」
「……ふうん。クライド、ローズ様の着替えはないの」
「あるけど」
あるのね。と呆れる。
でもこの場所は開けていて、着替える場所なんてない。衣服や髪が乾いただけで十分だったので、勧められても断る気でいると、セファも同じことを考えているのか別の提案をした。
「せめてローズ様の足元だけでもどうにかできないか。靴とか」
「それも用意はある。だが」
足元に視線が落ちる。足袋に包まれた足は、もちろん脱げば素足となる。それを知っていて、脱げと言う。いや確かにせっかく乾かしてもらった足元、また歩き出せば濡れてしまうし足袋ではどこへ行くにも歩きにくいけれど。
「……知っていると思うけど、衆目の中素足を晒すなんて非常識極まりないことよ」
「着替えはともかく、足元に関しては最優先だし。ここを出たら履き替える場所なんてもっとなくなるでしょ」
「可能なら着替えもここで済ませたほうがいいだろうが、ローズ姫、できそうか?」
セファとクライドから立て続けに告げられて、私はちょっと待ってよと思考を巡らせる。まさかとは思うけれどと眉をひそめた。
「あなたたち、何を言っているの。これからどうするつもり?」
「お前は今から、セファと竜の背に乗って、あの天井部から脱出する。旅支度はここで済ませたほうがいい」
「クライドお兄様!?」
「……話が違う、クライド。ローズ様は全然納得してないじゃないか」
「俺が言っても聞かないんだから、お前に説得してもらうしかないなってところだ」
「わ、私はこれから異界渡を行なって、精霊王から救世の法を受け取りに行くのよ。こうして会えて本当に嬉しいけど、セファは一刻も早く今の状態から回復する方法を探さないと。どうしてあなたがそんなことになってしまったのか、どうすれば回復できるのか、私にはなにもわからないけれど……」
クライドと私の顔を見比べて、セファはなるほどと頷く。
「僕はここにくる途中でクライドと連絡を取って、ローズ様を儀式の前に連れ出してどこか二人で遠くに逃げろと言われたけど、————クライド? ローズ様が納得してないならその案には乗れないよ」
言い訳する事もなく、クライドは肩をすくめるだけだ。
「だから、セファとクライドが竜の背に乗って。私は救世に。ねえクライドお兄様、セファの状態はどうしたらいいかわかる?」
「セファの身にあまるほどの強大な魔力についてはお手上げだ。魔法使いを頼るしかない。青の王国の魔術師なら、青の魔法使いを頼るのが筋だが」
「なら中央神殿かしら」
ちょうどいいではないかと名案がひらめいた。私も救世の法を手に入れた後は中央神殿にいくのだから、うまくすればセファと救世の儀の前に会え————。
魔女の取り巻きとして、倒れ臥す騎士と魔法使いの光景が瞬時に脳裏にひらめいて、浮かれた思考を打ちのめした。
あれは、抵抗した魔女が討たれる場合の話だと、恐ろしい光景を慌てて振り払う。救世の儀式をするつもりである私が行くのだから、戦いになることはないし、聖剣をどう使うかだってまだ決まっていない。大丈夫だ。大丈夫。
「……ローズ様?」
「なんでもないわ。とにかく、セファは中央神殿に行って。青の魔法使いに診てもらって。クライドお兄様、セファをお願い。魔法使いが何を考えているかわからないけれど、世界のために魔法使いとなる人を失うわけにはいかないはずよ」
「君は、どうあっても行くんだね」
「この道を行くことは、もう決めているのだもの」
あなたと一緒で。
心の中で付け足したのは、口にすると皮肉に聞こえかねないと思ったからだ。
魔法使いになる人。悠久を生きると決まっている人。
いつの日かあなたは、私のことなど忘れてしまうかしら。
口が滑って、想いを告げそうになる。こぼれないように口を引き結んで、笑みの形に変えた。一歩踏み込んで、セファの体を抱きしめる。驚く様子が見て取れたけれど、顔を埋めて知らないふりをした。
聖剣の都合のいい使い方が奇跡的に見つかったとして、世界を救った後の自分がどうなるか想像もできないけれど。魔法使いとなるセファとの距離が縮まることはない。それだけは、確かだろう。
だから、心の中だけで囁く。
(好き)
私の気持ちを一番に考えて、この場から無理に連れ出そうとしない、そんなセファのことが好きだ。無理を押して会いに来てくれた。誕生日に間に合うようになんて考えて、こんなところまでやって来てくれた。
思いもよらない部分で、私を大切にしてくれる。やること全てが優しく降り注いで、私の心を満たしてくれる。
今までの私の全部を、慈しんでくれたひと。
(だから、これからのあなたの世界を、少しでもより良くするために)
王と、民と、世界のため。なんて言ってみせているけれど、これはずっと個人的な感情だ。それでも、結果が一緒なら別に構わないでしょう。
パッと顔を上げて、不敵に笑ってみせる。勢いをつけて離れると、セファの手が一瞬引き止めるように伸ばされた気がした。そんなのはきっと、気のせいだ。
「先にいくわね」
中央部のくぼみに湛えられた水が、先ほどから光り輝いて主張している。せっかく乾かしてもらったのにとくぼみの脇に膝をつき、手を伸ばして触れる。それは本当の水ではなく魔力がそうみせているだけのようだった。
触れた先から、光が溢れ視界が奪われる。
光は精霊で、きゃらきゃらと耳元で声がする。異界渡の道を示してくれる。誕生を祝う声に、もしかすると、誕生日は精霊が祝福してくれて、力が増すのかしらなんて考えた。
戻ったら誰かに聞こう。ホルミスか、ゴダードか、案外メアリに聞いたほうが早いかもしれない。多分、キラキラ眩しいってそういうことだ。
ゆっくりと立ち上がって、異界渡の道へと踏み出した。
そのとき、セファ! と誰かの叫び声が聞こえた気がした。
腰のあたりに誰かの腕が回って、抱き寄せられる。
驚く間も無く、どぷん、と深い水中のような層界の海に投げ出された。




