29.銀の呪い
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翡翠の瞳がじっと見つめてくる。
わかっていたはずだと、胸の内で何度も繰り返した。
何もかもわかった上で、飲み込んだ上で、世界を救う方法を知るためにイシルイリルとの婚儀臨んだのは他でもない私自身だった。
だから、いまこの胸に押し寄せるこの感情は、全くおかしな話なのだ。
『夫』と床に入るための夜着をまとって、寝台の上にに二人きり。
こんな、途方にくれたような気持ちで別の誰かのことを思い浮かべるだなんて。そんなつもり、なかったはずなのに。
イシルイリルの身じろぎひとつ、寝台の軋みひとつに限界を迎え、思わず悲鳴をあげそうになったところへイシルイリルがどさりと背後に勢いよく倒れ込んだ。両腕を伸ばしたかと思えば肘を曲げ、こちらを向いて横たわる。
悲鳴を飲み込んだ私は、腕を抱きしめるようにして体をひねって彼の姿を追った。翡翠の目は変わらぬ輝きで私を見ていて、やがて、ふ。と緩ませる。
「な、なに」
「く、くく」
肩を震わせながら笑い出したかと思えば、寝台に突っ伏してなお笑い続ける。私はあっけにとられて何も言えず、しばらく呆然としたまま、ねぇ、や、あの、だとか意味をなさない言葉を重ね制止を試みる。それでも笑い止まないイシルイリルに、ちょっと、と立ち上がった。
「いったいなんなの!」
イシルイリルは答えず、笑うのをやめてむくりと体を起こしたかと思えば私へと手を伸ばす。え、と思った時には、その手は何かを掴み取り、離れて行く。
結い上げられていた私の髪が、ぱさりと肩に落ちた。
「我が妻となった証はこれにしようか」
その手に握られていたのは、初夜へと臨む私の髪を結い上げていた一本の簪だった。見ず知らずの、今初めて見たような品で、思い入れの一つもない。イシルイリルの言葉の意味がつかめず、顔をしかめる。
「大事な『妹』の、大事な友人を手折る気が起きようはずもないのは、わかるだろう?」
片目を閉じたイシルイリルは、簪の飾りを目の前に掲げる。翡翠色をしたとんぼ玉に透かすようにして、私にかざす。
私は困惑していた。だって、これから私は、イシルイリルと、
「精霊王への誓いは、すでに婚儀で果たされている。これ以上は過分となる」
きっぱりとした断言だった。私のは混乱の渦の中にいたけれど、じわじわとその言葉の意味を頭理解し、全身から力が抜ける。
寝台に手をついて床に座り込んだ私を見下ろしながら、イシルイリルは自分の首筋をひとなでした。ぼんやりと、古い術式の環状文言の光が浮かび上がる。
「君が私へ求めていたことは、そんなことではなかっただろうに」
促されて、寝台に座る。イシルイリルは私に背を向けると、そのまま寝台にもたれるようにして座り込んだ。
せめて何か敷くものをと枕に手を伸ばしたけれど、続く言葉があまりにも侮蔑に満ちていて、かける言葉を失った。
「これから語るのは、愚かな我が一族の失態の歴史。世界が困窮し果てている現状の発端。ことが公になれば精霊の民は迫害を免れぬからと隠匿し、告白の機会を逸したたものについて」
イシルイリルは言葉を止めて、私を振り返った。
「大災の魔女アーキフェネブはそもそも、救世のためこの地に招かれた異界渡の巫女だった」
そうして語られたのは、異界渡の巫女アーキフェネブが魔女となった物語だった。
夢の巫女によって見出されたこと。族長の妻となったこと。婚儀をあげたこと。異界渡の儀に臨んだこと。
アーキフェネブのかつての行動が、自分と重なる。きっと、いままでの異界渡りの巫女たちも同じ道筋をたどったのだろう。
巫女たちは、異界渡りの儀に臨んで、救世の法を手に入れて、世界を救った。
けれど、アーキフェネブが違ったのは、異界渡りの儀の直前のできごとだった。
「無二の親友となっていた、夢の巫女が死んだ」
イシルイリルの口から、何故死んだのかは語られなかった。何者かに害されたのか、事故だったのか。なんにせよ結果的に、アーキフェネブは巫女を生き返らせる術を得ようと異界渡の儀を強行したのだ。
そうして戻ってきた時には魔女となり果て、殺戮を始めたのだと。
巫女は救われず、救世は行われず、精霊の地と隣接する青の王国土地は破壊し尽くされた。事態を重く見た魔法使いたちが討伐に動き、殺されて、やがて異世界からやってきた聖剣の巫女によって討たれた。
「アーキフェネブは、夢の巫女を大切に思っていただけだったのに」
イシルイリルが纏う空気が変わる。
その瞳には憎しみが燃え盛り、遠い過去の幻影を今でも呪って、酷薄に笑う。
「ただ、さみしいだけだったあの子は、たったひとりを喪いたくなくて一縷の希望にすがったんだ」
たった一人の親友を救いたい一心で、精霊王の元へと走ったのだ。
救世の運命を受け入れて、世界と一緒に親友も救いたくて。
「救えなかったその時、その思いは裏返って塗りつぶされ、彼女は魔女へと変貌した。
そしてその力の矛先は、最も忌むべき相手へと向けられた」
「忌むべき相手、って」
「夢の巫女を殺した、当時の精霊の一族族長。および中央神殿神官長。直接手にかけたのは神官長の護衛だというけれど、命じたのは神官長で、招き入れたのは族長だった」
耳を疑った。
イシルイリルの横顔を凝視して、立ち上がろうと腰を浮かしかけたけれどやめた。
「どうして彼らはそんなことを」
「……当時の族長は、継嗣としての教育を受けていなかったんだ。先代と継嗣であった長兄が急死し、なんの準備もなく傀儡として据えられた男だった」
そしてそれを厭って、中央神殿の神官長と縁を持ったのだという。
「もともとが好色な男だった。完全に習わしを私物化し、定められた婚儀も自分のいいように解釈して進めていた」
イシルイリルが言葉を切る。私に対して告げるには、はばかりある言葉を飲み込んだのだった。
「……族長という身分を利用して、高貴な出自の少女たちを私物化できると考えたのね。……もともと族長家の末子として家名を利用し、きままに振舞っていたのかしら」
結界王国群にいた頃は聞かない話だったけれど、ここは経済力さえあれば複数人の妻を娶ることのできる精霊の民の居住地。宮殿に潜り込んだ数日間で、同室の少女たちから様々な話を聞いたものだった。
噂話は多種多様で、毎日移り変わって行く。そのうちの一つと合わせて考えれば、想像できない話ではなかった。
「では、神官長はどうして彼に協力を? 中央神殿は救世のために聖剣の巫女を異世界から呼び寄せるのよ。どうして救世の妨害になりかねないこと———」
口を閉ざした。まさかと眉をひそめる。イシルイリルは私の方を伺っているようだけれど、沈黙したままだ。
「救世を果たす聖剣の巫女を、独占しようとしたの……? 結界王国群と精霊の民の地との関係悪化はそのため? ———アーキフェネブを陥れた神官長の罪は、闇に葬られたということ?」
中央神殿を管理する黄金の魔法使いをはじめとして、魔法使いはほとんどがアーキフェネブに殺された。神殿は都合の悪いことを揉み消して、結界王国群と精霊の地の関係は破綻した。
夢の巫女の力を借りれなくなった王国群は、国中の魔力持ちの管理を厳にして異界渡りの巫女を『魔女』として管理するようになった。救世において聖剣の巫女は魔女を討つだけの存在となり、巫女を召喚できる神殿は、救世において絶大な権力を誇ることとなる。
青の王国はどこまで知っているのだろう。今となっては、救世ごとに神殿に言われるがまま魔女を探すだけなのだろうか。『異界渡の巫女』という言葉さえ伝わっていないのなら、儀式が改悪されていることにも気づいていないのかもしれない。
すでに、神殿の思いのまま。それが、狙いだったのだろうか。
「結界王国群内での権威を絶大なものにする。そのためだけに、そんなことをしたというの?」
破綻している。実際、儀式は失敗し続けていて、今となっては元の形さえわからない。世界が壊れてしまっては意味がないのに、どうして。
「魔法使いのことはどこまで知っている?」
「どこまでって……。六カ国ある結界王国群と、中央の神殿をそれぞれ司る、七人の魔法使いとしか。とんでもない力を持っていて、不老長寿の存在で、世界を護っているんでしょう?」
魔女としてのローズ・フォルアリスには、必要のなかった知識だった。あれだけあらゆる学問を身につけさせられていたけれど、魔法使いについてはじつに巧妙に取り除かれていたのだ。用意されていた書籍ももしかすると私のためだけに用意されたものだったのかもしれない。
だから、魔法使いについてはおとぎ話や絵本程度の知識しかなく、魔術学院に出入りするようになってセファやメアリたちに教えてもらっただけだった。
「魔法使いたちには、救世が円滑に行われるよう各国の長を補佐する役割もあった。それが、アーキフェネブによって多くが一度に害されたことで、機能しなくなったんだ。現存する魔法使いたちが今何をしているか知っているかい?」
「黒の魔法使いは青の王国で教鞭をとっていて、赤の魔法使いのことはよく知らないわ。青の魔法使いは中央神殿に引きこもっているし、緑の魔法使いは各地を放浪しているという話だけれど」
こうして並べ立ててみると、まともに担当の国で大人しくしている魔法使いがいなかった。赤の魔法使いだって、少なくとも赤の王国にいるとは聞かない。黒の魔法使い以外はみな、人前に現れることすら稀だという。
「若い魔法使いである黒と赤はほとんど何も教えられていない状態だろう。赤は話に聞く魔法使いとして、強大な力をむやみに使わないよう振る舞っている。黒の意図は不明だが……」
まぁ、いいか、とイシルイリルは続けた。
「緑の魔法使いは、他の結界王国群を見回っている。白銀、紫、青、緑の四カ国をだ。これは魔法使いの素質のある人間探しも含まれていて、魔力量の多い人間の噂を聞けば確認しに行っていく。本来は、その国の魔法使いの仕事だ。赤と黒は行き届いているらしいが」
「それなら、青の王国は青の魔法使いがするべき役目じゃないの」
「青の魔法使いは、中央神殿をかなめに王国群全域へ展開する結界陣の維持のため、ほとんど動けていないはずだ。構成する魔力のほとんどを維持につぎ込んでいるため、人の形さえ保っていないだろう」
その言葉に青の魔法使いの姿が思い浮かび、文句を口にしかけた言葉が止まった。
あの姿が、世界を維持するために必要に迫られてのことだったのだとしたら、青の王国の民は彼女のありがたみを何一つわかっていない。王国を留守にしているのは世界のためだと、どうして誰も知らないのだろう。
「私、ここには知るために来たのに。理解できないことばかりが増えて行くわ」
膝を抱えて苦笑する。おもむろにイシルイリルの首元へ指先を伸ばした。
「……精霊の民の族長は、随分結界王国軍について詳しいのね」
淀みなく語られた言葉は、まるで彼にとっては当たり前の知識のようだった。調べを尽くし報告を受けた内容を口にしているにしては、こちらに問いにもすぐに答えてくる。
光る環状文言がくるくると回りながら指先を透けて行く。美しい術式だと思った。ただし随分と古い型で、ところどころ知らない組み合わせがあるけれど。
「これは記憶? それとも感情? 本当の魂を保存しているのかしら」
ぴくりと、イシルイリルの肩が震えた。いいえ、きっと、彼はイシルイリルではないのだ。
誰かはどうでもよかった。大事なのは『誰が』施した誓約なのか。
「精霊の地にこれほどの魔術師がいるとは思えないわ。緑の魔法使いが関わっているとみていいの」
このまま世界が滅びかねないほころびを、精霊の民は公表しないのではない。できないのだ。この話は、族長と婚儀をあげた異界渡の巫女にしか話せない誓約。その巫女は婚儀のあとは異界渡の儀、そして救世の儀へと臨む。秘密が漏れる余地はない。
問いかけに、イシルイリルは口の端を上げるだけだった。
「これは呪い。アーキフェネブを慈しみ、その不幸に陥れた罪を永劫許しはしないと放たれた、銀の呪い」
捉えどころのない言葉を、歌うように囁く。その目が見つめる先は遠く、喉を震わせるようにして笑う。
「かつて自分が誰にどんな思いを向けていて、誰を慈しんでいたのか、もうわからない。私はここで、何百年を経て引き伸ばされ、消滅を許されることもない魂だ」
ただかつての罪を語り、巫女たちを送り出すだけの。




