28.禊の儀/婚儀
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青の王国を旅立つときの旅装束は、自分の足とお金で買い求めた初めての衣服だった。
あまり時間をかけることはできなかったけれど、満足のいくものを選べたと思う。
宮殿に来て以来久しぶりに袖を通したその旅装束を身にまとい、さらにその上に黒の学院外套を羽織る。
時は婚儀前夜。
私はこれから、禊のために宮殿を出発する。
奥の院の境まで見送りに来たリリカとサクラサマラを振り返った。
多くは語らず、リリカが私の外套にブローチをつけて、サクラサマラが私の髪に飴色の髪飾りをさしてくれる。二人は私を軽く抱きしめてくれて、離れがたくなる前に一歩距離をとった。
「神殿で」
「うん。神殿でね」
「待っていますから」
交わすのは、再会を約束する言葉だ。
小さくうなずき合って、私は出迎えの人々へと向き直る。神事を司る西方氏族の面々だ。私が頷いて見せると、出立の用意が整ったとして伝達が前方へ向かい、先頭が進み始めた。
宮殿の北側を守る岩山を、長い列が登って行く。
同道には女性も多く、足取りはゆっくりだった。列の真ん中あたりにいる私は、周囲に控える人間が促すままに岩山を登って行く。足元は悪いし、時には岩壁に張り付くようにして突き立てられた杭や鎖を頼る場面もあったものの、無茶な高さや絶壁をよじ登るようなことはなかった。
初めての経験ということには変わりなく、一つ一つをこなしては息を整える。
これから先に何が待ち受けているか、予想はしていても、備えることはほとんどしていなかった。
むしろ、本来異界渡の巫女はどうこの出来事を受け止めるのか。実際にこの身を持ってなぞり、一つ一つの意味を考えることにしている。
本来の私。
サクラサマラに憑依されることもなくこの地へやってきた、セファに出会わない私だったなら。
今この瞬間は、いったいどんな気持ちだっただろうか。
疲労が蓄積する中で、ようやく目的の水場にたどり着く。泉のそばには小屋があった。このために建てられたもので、これから中で着替えて清めの儀式を行うのだそうだ。
今こうしている間に水場が人目に触れないよう囲いが用意されているのが見える。年嵩の女らに連れられて小屋に入ると、四、五人の若い女たちがすでに用意を整えて待っていた。
これから、私が身につけているものを彼女たちに一つずつ預けて行くのだそうだ。
最初の一つはブローチだった。
若い女が胸元から取り外し、年かさの女がうやうやしく掲げた盆の上に置く。あっというまに私の視界から消え去って、次に促されたのは学院外套だった。
腕を下げて後ろに軽くそらすと、若い女の手元へするりと落ちていく。丁寧に畳まれて、盆に載せられた。
衣服も、靴も、飴色の髪飾りも。何もかもが、ひどく丁寧に次々と一片の躊躇もなく、私の体から遠ざけられていく。
例外はなかった。
最後に脱がされた一枚で文字通り一糸まとわぬ姿になるが、その時間はほんのわずかで、いたわるようにして白衣を纏わされる。
湯帷子のようなものだろうか。肌を晒すことを極端に厭うサクラサマラが使用していたのは知っていたけれど、私自身にもこうして着用の機会があるとは想像していなかった。
裸身に白衣一枚。入り口とは反対側の出口から外に出るよう促され、従った。
素足に岩場の地面は固く、足元を確かめながらの歩行だった。
目の前には泉があり、足を浸す。わかっていたが身体の芯が凍るほど冷たく、長くは浸ることはできないだろうと直感的にわかる。
振り返ると囲いがあり、一緒にやって来たものたちは泉で何が起きているか見ることはないようだった。
なるほど、と息を吸う。おそらく、先ほどの一連のできごとが禊ということなのだろう。
思い出の品、友人との繋がり、家族との絆。それらを目の前で象徴的に断ち切って、後戻りさせなくするための。
思考を止めて、泉に肩まで浸る。足がつくかどうかのところで膝を抱えて、頭のてっぺんまで泉の中に沈んだ。
きゃらきゃらと笑い声がする。ものすごい速さで遠くからやって来て去っていく。近づいてくる声と遠ざかっていく声が入り混じって、気づけばそばに寄り添う何かが感じられた。
(……精霊、なのかしら)
笑い声に混じって、祝福を、と声が聞こえてくる。
祝福を
祝福を
我らが巫女に祝福を
耳をすませば聞こえてくる言葉を意識した途端、すぐ耳元で囁く声があった。
『どうして泣いているの、私たちの救い主』
泣いていないわ。
『願って』
『望んで』
『思い描いて』
『私たちを導くの』
『今のあなたは、祝福を受け取る資格があるのだもの』
『望んで』
『心のままに』
『望んで』
『望んで』
『望まないなら』
『望まないままあなたが泣くくらいなら』
「———ローズ姫っ!」
声量は落とされていたものの、鋭い声で名前を呼ばれて顔を上げる。思いもよらない近さにイシルイリルの顔があって、うろたえた。
「……イシルイリル様、ちか」
「しぃ。落ち着いて、婚儀の真っ最中だ」
婚儀。目の前のイシルイリルは、私の言葉を封じるために、朱塗りの盃に注がれた透明な液体を私の唇にあてがう。この地の婚姻の儀式は、花婿が用意した氏族の酒を花嫁が飲み、体に取り込むことで証立てとする。
馴染みのない酒精に喉が焼けた。それでも飲み込み、空の盃を受け取って頭上に掲げた。面は伏せて、混乱を表に出さぬよう思考する時間を稼ぐ。
盃を受け取るイシルイリルのささやきが降ってくる。
「君は昨夜の禊の儀から今の今まで、心身の喪失状態にあった」
途切れる直前の記憶は、泉の中で精霊の声を聞いていたこと。彼らは私を祝福していたけれど、その祝福が私が思い描くものと同じかどうかの保証はない。
精霊界に生きる、別次元の存在の、違う価値観での言葉だ。
心身の喪失状態だったとイシルイリルが言うのであれば、以前のように別存在に憑依されたのとは違う。
婚儀は進んでいく。
最も重要な場面は終えているから、あとは進行に沿って待機し、やがて退室するだけだ。宴もない儀式だけの婚儀はまさしく形だけのものだった。
花婿よりも先に広間を辞して、控えの前で衣裳を改める。純白の花嫁衣装は工芸品とも言える美しさで、ゆっくり眺められなかったことがほんの少しだけ心残りだ。
夜着に身なりを改めて、寝室へと通される。イシルイリルがいないうちに考えをまとめようと、部屋の隅に腰を下ろした。
ひとまず何が一番気になるかといえば、先ほどの状況と同じように心身を喪失し我に返った時、リリカの聖剣に貫かれてしました、とならないかどうか。その一点に尽きる。
精霊は、祝福をしたがっていた。
私に、望みを思い描けと。
突然のことに何も考えられなかった私に焦れた、精霊の暴挙だったと考えられるだろうか。
そして、もう一つ、リリカも同じ状況に陥らないかどうか。
「……はぁ」
ここに来て新たな不確定要素に、ため息が漏れる。ただ膝の上で拳を作った。
「我が花よ。待たせた」
イシルイリルが現れた。大股で颯爽と部屋の隅にいた私へと手を差し伸べ、中央の寝台へと連れていく。
「雪はまだとはいえ底冷えする。寝台に座りなさい」
そう言って、自分も隣に腰掛けた。距離は空けてあるとはいえ、二人きりの寝室、寝台の上という状況に、今更ながらどきりとする。
何もかもわかっていたことだというのに。
ぎくりと、体がこわばったのだった。




