15.腕の中の温もり
『お城になんか戻らずに、一緒に逃げよう』
無造作に結ばれた美しい銀の髪に、細いフレームの眼鏡。その奥の薄茶の瞳は、真剣で。よく見ると、この白銀の宮廷魔術師は、とても綺麗な人だった。線が細くて、困った顔や呆れ顔をさせてばかりだけど、時々笑う顔は年相応で、可愛げがあって。
手を引く力は頼もしくて。
出会ったばかりの私を探し出して、こうして旅の手助けをしてくれて。
友達になってくれると言った。でも。
「セファの言っていることが、わからないの。どうして? なんでお城に戻ってはいけないの」
今までの繰り返しだ。求められる役割をこなして、義務を果たす。それだけのことだ。持てる者の義務として、この国の貴族として生まれたのだから、当たり前のことだ。
それに、逃げる場所なんてないわ。結界の外には魔物がいて、結界の内側は国王陛下の内側と同義。他国の結界に入ったとして、魔力持ちの貴族や宮廷魔術師をかくまってくれる国などない。かくまった側が批難を受けるし、弱みになる。国家間の問題が発生する。
セファの赤い羽飾りが、鮮やかに風に揺れる。白銀の色彩に輝くかのような赤は、彼が宮廷魔術師である象徴だ。
「なんで? なんでだって」
セファが苦しそうで、思わず掴まれて居ない方の手を伸ばした。両の手を取り合って、私は見上げてすぐにあるセファの目を覗き込む。少しひるんだけれど、持ち直すのは早かった。
「君たちの言う青い血に生まれついたとはいえ、ローズ様の今までの生活は変だよ。実際、君の兄や妹は魔法学院に通って普通の生活をしているんだろう。どうして君だけ、そんな扱いを受けるいわれがある」
だって、それは、私が、王太子の婚約者になったから。
「王太子妃は学院に通っちゃいけないの? 王太子妃には友達を作る権利もないの? 朝から晩まで教師に囲まれて、息を抜く暇もなく、敵対派閥の大人とわたりあわなくちゃいけないの? まだ十代の君が?」
歴史上、若き君主や王女が目立った逸話を残すことはある。けれど、それはどれもこれも非常事態、戦時下や大厄災の最中のことだ。なんで、こんなにも平和で、戦争も外敵もいない、国王も健在で結界も安定して、王妃様もいて、王子は二人。どこに君がそこまで詰め込んだ生活をする必要があるんだ。
「どうして……かしらね」
困ってしまった。そんな風に考えたことはなかったから。私自身の適正としか、考えてこなかった。何をしても凡人程度の結果しか残せない私。だから、相応の環境と努力を求められたのだと。
何か、裏があるのかしら。でもあの生活は婚約者になってからだ。王太子の婚約者となった、五歳の時。そんなに前から、何か考えがあったとは思えないけれど。
「五歳の女の子にそんな生活させて平気な顔してたのか、君の両親も、王も」
「国王陛下はともかくとして、両親は、優しい方々よ。たしかに、おしゃべりする時間は取れなかったけれど、寝る前には必ず頭を撫でてくださったわ」
本当は、学院の話をする兄や、衣裳選びを相談する妹を羨ましく思ったりもしたけれど。言ったところで仕方のない話だ。
「あのね、セファ。私は、貴族なの」
なんと言えば伝わるだろう。そうなのだ、私、あの生活を嫌だと思ったことはなかった。逃げ出したいと考えたことも。いつか至る王妃の座を目指して、隣に立つ王太子にふさわしい伴侶になるべく、努力することが苦痛ではなかった。
「貴族はね、生まれる国を選べないのよ」
何を言い出すのか、とセファが目をみはる。握り合った手に力を込められて、少し痛い。
「民は、国を選ぶわ。好きなところに行っていい、土地を離れたくなければ、力を蓄えて蜂起すればいい。私たち貴族は、そうさせないために善政を敷くの。民に見放されぬよう、他国に蹂躙されぬよう」
そのために生きていく。
「私たちは、この土地を統べると決めた。魔力でもって結界を張り、土地を豊かにして、国を発展させる。そこに住まう民を守り、土地を平らかにし、誰も病むことも飢えることも嘆くこともない、楽園を作ると目指す。いつか、孫子の代で完成する楽園を祈るの。自らの行いが、そこに至る一助になると信じるの」
貴族として生まれ育った私。辺境で異界渡の巫女に見出された、セファ。その生き方も、目的も、信じているものも、何もかも相入れない私たち。
一生懸命、言葉を探すセファ。私の生活はおかしいと否定した上で、私の望み、生き方を聞き出して、その上で、否定することをやめたセファ。
全部を否定して、自分の考えを押し付けても良かったのに。
「やっぱり、あなた、やさしいわ」
セファは優しい、魔法使いだった。
「……そんなの」
セファの額が、私の肩に埋められた。震える肩に、怒っているの? と頰を寄せる。手を握る力が緩んで。両手を伸ばした。何に怒っているの? どうして怒っているの? 私の話、生き方を聞いて、怒ったの?
銀の髪が頬に触れる。くすぐったくて、ふふと笑った。
「得難い友人を手に入れたのね、私」
「なんで喜んでるんだ……」
ずしりと重みが増す。内心戸惑い果てているけれど、なんだか暖かくて離れがたかった。
こんな風に誰かに寄り添われるのは初めてだ。両親にも、兄にも、妹にも、触れられた記憶があまりない。婚約者とも、節度ある距離を保っていた。
セファとは、止むを得ないとはいえ、接触も密着も多いわね、と振り返って笑ってしまう。でも、友人なのだから、少しくらいいいわよね、と。
「友人を心配して、怒っているのでしょう? 私、幸せ者ね。ありがとう」
ああもうとセファの手が私の背中に回された。ひえ、と悲鳴が漏れる。ぎゅうぎゅうと抱きしめられて、頭が真っ白になった。こんな風に抱きしめられたことなんてないわ。あったかい。力は強く、背中に回る手のひらは大きくて。
あぁ、と思う。幸せね。顔が熱くなって、胸が痛くて、息も苦しいけれど、泣きたくなるほど幸せだと思う。こんなことは、初めてだった。
大きく息を吸って、吐く。ばくばくと鳴り響く心臓をなだめて、ありがとう、と心の底から笑った。
しばらくじっとして、温もりを分けてもらって、さて、もう戻ろう。明日から、また、王都を目指すのだ。おそらく舞台を下された私だけれど、下されたからにはまた別の役割を与えるつもりだっただろうから。
「……うん?」
身じろぎするのに、セファの手が緩まない。とんとん、と回した手でセファの背中を叩くのに、セファはピクリとも動かなかった。
「せ、セファ? そろそろ」
「……ローズ様は、どんな状況になれば王都に戻らないって言う?」
「無茶苦茶なことを言いだしてない……?」
優しいセファは、時々突拍子ないことを言う。
「もちろん、辺境行きを命じられた時みたいに、王都から出て行けと言われれば行くわよ。そういえば辺境行きを命じられた後、私、辺境の貴族と結婚するかと思ってたけど、そういう話はなかったの? 異界渡の巫女はどう振る舞ってた?」
「僕がいたから、そういう話は聞く耳持たずに振る舞ってたよ」
「……セファがいたから?」
僕がいたからね、とセファは笑う。耳元でくつくつと笑われるとくすぐったくて困ってしまう。
「……異界渡の巫女は、辺境で見つけたセファのこと、大事にしてたのね」
どんな関係だったかは、今度聞こう。いや聞くまでもないかもしれないけれど、私の話ばかり聞いてもらったので、今度はセファの話も聞きたいと思う。今はともかくこの手を解いてもらわなければ。
王都に戻って今までの暮らしをしてほしくないと、セファは言う。王太子の婚約者でなくなったのだから、同じ生活は待っていないと思うけれど。セファが危惧しているのは、そう言うことではないのだろう。命じられるまま従う私に、怒っていたとも言えるから。
「ええと、そうね。私が王都に戻りたいのは、貴族としての義務を果たすためだから」
解放してほしくて必死にくるくる思考を回す。話しながらも時々力を込めて脱出を試みるけれど、その度に抱きしめ直されてしまって、そろそろ頭が沸騰しそうだ。なんだろう、どう言うべきかわからない感情が胸に押し寄せて目がぐるぐるする。
「貴族としての義務を果たさなくても良いと言えるほどの、なにかを成せたなら」
言いかけて、一度口を閉ざした。少し前、熱に浮かされた頭で、何かを考えたような気がする。なんだっただろうか。
あぁもう、心臓がうるさくて考えがまとまらないわ。
「世界でも救えば、私、好きに生きてもいいかもしれないわ」
なんて、と笑ってみせる。その時が来たとして、好きに生きると言ってもどんな生き方をすればいいかもわからないけれど。異界渡の巫女からも手紙を残されているし。私、ひとまず世界を救うことを目的にしてみても、いいかもしれないわ。そうして、全部手放して身一つになって、
「……ただのローズになっても、友達でいてくれる?」
びく、とセファの体がこわばった。疑問符を浮かべていると、両手が肩を掴まれて、そーっと体を離される。ほっと息を吐いた。肩は掴まれたままだけれど、やっとセファの薄茶の瞳が見れてにっこりする。
だというのに、セファはぼんやりとした声で私の言葉を繰り返す。
「友達……」
「……私、また自惚れたのかしら。セファは嫌?」
不安になって思わずセファの胸元に手を伸ばす。「……嫌じゃないけど」とセファは困った顔をした。
「僕の方が、友達のままでいられるかどうか……」
「ではそれまで、どうかよろしくね」
わかってないよね君、とセファは言うけれど、私の顔をじっと見てから宿に戻ろう、と動き出した。手を引かれるままに、街を歩く。散歩がてら面白そうなところをくるくると辿りながら、他愛ないおしゃべりをしつつ、私たちは宿屋への道を歩いた。
宿屋の前に、見知った人影があった。セファがとっさに私を背にかばって、私はその背中に隠れながら顔を出してその人を窺う。
私たちに気がついたその人は、あっと声をあげた。
「やっと見つけましたよ! ローズ様! セファ!」
すれ違わなくてよかったですね、と旅装姿のトトリが、今日も可愛く笑顔で立っていた。




