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【五章開始】あの人がいなくなった世界で  作者: 真城 朱音
四章.異界へ渡る、救世の巫女
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9.精霊の民とのくらし

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暑い日が続きますので、皆さま体調にお気をつけてお過ごしください。


 たらいに向かって両の手を伸ばす。なみなみと満たされた水はひんやりと冷たかった。

 秋に差し掛かった今でこれなら、真冬ともなればどれほど冷たいだろうと、想像もできないそれを実感する日はきっとこない。

 思考が沈む直前に大きな声で呼ばれ、弾かれるように顔をあげた。


「ロゼ! ぼんやりしていないで、手早く取り掛かる!」

「はい」

「あんたはいつもそうだねぇ! そんな調子じゃ、用意の前に高貴な方々が起きちまうよ!!」


 大きな声に促されて、たらいの底の大根を掴み取る。まくった袖がずり落ちないようタスキで押さえ、二の腕まであらわにして野菜の泥をたわしで落とす。

 藁を束ねて結んだだけのもので、すぐにボロボロになって取り替えるのだけれど、それでも泥だらけの野菜がピカピカになるのはなんだかすごい道具のように思えた。

 泥の落ちた大根をくるりと回しながら泥がついていないか確かめて、指導役の女性をふり仰ぐ。


「できました」

「一本ずつ見せるんじゃないよ! ほら! 足元をご覧!」


 言われて足元を覗き込めば、子どもが入りそうなほど大きなカゴが三つ。大根と、人参と、長葱。それぞれの畑から運ばれてきたとれたての野菜たちだ。


「それ全部があんたの仕事。そのうち別の子を取りによこすから、それまでに終わらしといておくれよ」


 それじゃあね、と女性は去って行く。

 さて、とたらいに向き直り、たわしを握りなおした。





 精霊の民の長イシル・イリルと、精霊の巫女姫サクラ・サマラに会うため、宮殿に入り込んで数日。そろそろ慣れてきた作業を開始する。

 フォロスによって連れてこられて、引き渡されたのは下働きの女性たちの元だった。訳ありだけどよろしくたのむ、とフォロスは笑顔で押し切って、戸惑う女性たちへ半ば無理やりに預けられた。あぁまたなの、と誰かがため息をついていたので、よくあることなのだろうか。立場の弱そうな何人かの少女たちが、気の毒そうな視線を投げかけてきていた。

 ひとまずしばし観察していると、彼女たちが行う下働きとは掃除や調理、客人の小間使いなどその他、多岐にわたる宮殿内の雑務を請け負っているようだった。

 では、私にできることは何があるだろうか。


『それで、あんた、何ができるんだい?』

『できることは何も無いと思うわ』


 問われるまま、正直に返した。どうやらそれが原因で、ぞんざいに扱われるようになってしまったようだった。


『何もかもやったことがないから、ぜひやってみたいと思うのだけれど』


 そう申し出て、ようやく渋々といろいろな作業場へ案内されたのだった。



 掃除は隅々まではとても行き届かず、繕い物は手が遅く、飾り刺繍は不要だと取り上げられ、小間使いは仕えるべき相手よりも偉そうだと追い出された。それらを踏まえ、一番適性がなさそうに思えると言われながら、調理場の方へと案内されたのは先日のことだ。

 いくつか見知った道具を前にしつつも、『包丁は持ったことがないの』と言えば、調理場担当の指導役はあらあらと困ったように頰を押さえ、それならもう、これくらいしか任せられるものがないのだけど、と申し訳なさそうに野菜洗いを指示された。

 説明を聞くに、なるほど私でもできそうね、と頷いた。

 挑戦してみて数日。力が弱すぎて泥が落ちてないと怒られた次の日には、強くこすりすぎて皮むけていると怒られた。丁寧にやれば時間がかかりすぎだと言われて、なるべく急いでやれば行き届いてない点を指摘される。ようやく求められている仕事の完成図が見えた気がして、今日はなんだかうまくいきそうだった。


「ロゼー」

「ヒナ」


 私のことを呼びながら駆け寄ってきたのは、精霊の民下級氏族の出だという少女だった。私よりも年下の十四歳でありながら、くるくると宮殿内の下働きをいくつも掛け持ちしていて、人手が足らないところ、人間関係が険悪なところ、不安のある人員配置のところへ、緩衝材のようにして配置される。


「あっ、えへへ、名前呼んでくれたー。うれしーい。あのね、今日はロゼと一緒にお仕事してもいーい?」


 間延びした語尾が可愛らしく、なんだかニコニコしてしまう。


「私は構わないわ。他の場所は大丈夫そうなの?」

「うん。……たぶん?」


 はっきりしない返事だった。首をかしげるヒナに合わせて、私も首を傾げて見せる。ヒナはパッと笑って、お野菜、洗っちゃおう! とたわしをつかんだ。


 次から次へと人参を洗うヒナの隣で、私は大根を洗っていく。あまり強くこするとよくないので、泥を落とすだけ、やさしく、やさしく、と念じながら。手が慣れて無心でできるようになると、ヒナが口を開いた。



「なんかねー、お客さん? が来るみたいなのよぉ」

「お客さん?」

「そう。宮殿にしばらく滞在するんだけど、イシル・イリル様のお嫁さん候補ってわけじゃなさそうなんだってー」

「お嫁さん候補……。ねぇ、ヒナ。族長に奥さんっていたと思うんだけど」

「いるねぇ。今何人くらいいたっけねぇ」


 思わず黙ってしまう。ヒナはあれ? と呟いて、「あぁそっか、ロゼってばフォロス様が連れてきたからぁ」と一人納得して、なんでもないふうに笑う。


「まず、有力氏族から一人ずつお嫁にもらうでしょ? 宮中にいる気に入った子もお嫁にもらうでしょ? 政略的にもらわないとまずそうな子も拾いあげちゃうでしょ? それで、御子が生まれなかったら、また考えないとだし。今は三人くらいいたと思うけど、これからどんどん増えると思うよ」

「一人の男性の元に、たくさんの女性が嫁ぐ、のよね」


 話には聞いていたけれど、改めてその最中にいると思うと、とんでもないところだと感じる。青の王国だって一人の夫に複数の妻がいるのは、まずありえないことだ。禁じられているわけではないけれど、何かしら複雑な事情が絡む場合が多いためあまり広まることでもない。


「お金をいっぱい持ってる人は、たくさん養いなさいってことなんだよぉ」


 精霊の民がどのようにして暮らしの糧を得ているかは詳しく知らないけれど、南は砂漠に、北は関係の悪かった結界王国群に挟まれていて、一族全体、個々人がそれぞれに豊かになるのは難しいことなのだろう。


「私もねぇ、もう少しおっきくなったら、イシル・イリル様の目に止まるようなお役目をもらえるよう、頑張るんだぁ。もう少し早く生まれてこれればよかったんだけどね。でも、若い方が有利って聞くよねぇ?」


 ヒナは族長の妻を目指しているようだった。宮中で働く女性の多くはそうだと彼女は笑う。家業を手伝わずこんなとろこにいる時点で、そういうものなのだと。

 とはいえ、希望者のためのお見合いのような制度があるので、宮廷作法を身につけ一定の期間勤め上げた後はそれを利用するとのことだった。

 私はといえば、誰かの妻になんて、今はもうなんだか遠い世界の話に聞こえて、返事にも困ってしまう。


「ええと、ヒナは若いのに、随分いろいろ考えているのね」

「……? ロゼだって、宮中にいるってことはいつお召しがあるかわかんないんだよ?」

「えっ」


 思考に空白が生まれた。洗い桶の野菜から、ぱっと顔を上げて、ヒナのまん丸な瞳を見つめる。

 

「…………そう、なの?」

「うん」

「ええと、いわゆる、族長の伴侶候補って、こと……?」


 イシル・イリルに会いにきたとはいえ、今、この身分で会うということはそういう意味につながってしまうかもしれない、というのは想定外の事態だった。


「そう。あれっ、フォロスに連れてこられたってことは、ロゼってば結界王国の人なんでしょ? 嫁ぎ先探しにきたんじゃないの?」


 これには素直に頷いていいかわからず答えに窮した。あぁいいのいいの、答えなくて、とヒナはたわしを振る。


「よくいるの。向こうで行き場がなくなって、フォロス様に連れて来られる人」


 初耳だったけれど、周囲の反応を思い返すと納得する。扱いかねているような様子というか、端的にいって腫れ物扱い、というか。


「こっちにきてすぐ紹介されて誰かの奧さんになったり、職人に弟子入りしたり、色々だよぉ」


 あの人が拾って来るの、男女問わずでねぇ、とさらに続けた。


「けど、ロゼは宮中にいれられたってことは、いいとこのお嬢さんだったんでしょう? 働いたことなさそうな手だもん。なら、早くイシル・イリル様に見初められたらいいんだよ。そうしたら、ここで野菜洗いなんかする必要もないし、何も心配いらないからね」


 眩しいばかりの笑顔を向けられ、ふるふると首を振りながら大根に向き直った。思わず力がこもって折ってしまいそうだ。

 ……大根でよかった。人参や牛蒡だったら折っていただろう。





 ここで暮らし始めてまだほんの数日。用が済めば出て行く場所ではあるけれど、案外居心地は悪くないと思っている。

 最初フォロスに提案されたときはどうなることかと思ったものの、朝起きて、自分で着替えて身支度を整えることを数日こなして、少し自信がついた気がする。

 朝食は数人ごとの当番制で仕事仲間が用意したものを食べた。いずれ私も当番表に名前を書かれるはずだけれど、ヒナをはじめとした先達にいつから加わるべきかを問えば、もう少し慣れてから、とのことだ。


 宮中に客人が滞在する話を聞き、ヒナと野菜を洗い終えたその日は、そのあと彼女と色々な作業場へ赴いた。少しずつ、働いている人たちの仕事と顔を覚えていく。

 やるべき仕事を終えたあととはいえ、持ち場を離れたわけだけれど、どこで何をしていたか説明できれば厳しくとがめられることはないらしい。


「せっかくだし、明日はもう少し内向きの仕事に行ってみよっか! ロゼ、ここんとこ野菜洗ってばっかりでしょ? 手も荒れちゃうしさ!」


 そんな理由で別の仕事を求めてもいいのだろうか。きまり! とヒナが無邪気に言うので、頷いた。

 そうして今日は、新しくやってきた客人の側仕えたちの補佐、という立場に潜り込む。客人は気難しい若い女性で、前もって用意したものがどれもお気に召さず、今日もまた揃え直しているらしい。私も指示されるまま香木や油の用意のために出入りしていると、用事でどこかへ出かけていたその客人が、部屋に戻ってくるとの先触れがあった。

 作業中に戻ってきた場合は切りのいいところまで終えてから部屋を出るように、と教わっていたので、その時私は習ったばかりの手順をさらいながら、じりじりと香木を焚いていた。

 誰か代わりに手早くやってくれないかしらとちょっと思いながら。

 私がやるにはちょっと時期尚早というやつだったのでは、などと内心悲鳴をあげつつ、やっとの思いで香木を焚き終えて、部屋を出るために顔を上げる。

 は、息を飲む声がした。


「なんでっ」


 瞬間、両肩を掴まれた。

 抵抗できないまま、草を編んだ敷物の上に仰向けに押し倒される。火元が近い焦りは、すぐにかき消えた。

 黒髪が紗のように視界を覆う。その、中心。押し倒してきた少女の顔を、信じられない思いで見上げる。


 まっすぐな黒髪。漆黒の瞳。

 荒れ一つない滑らかな両のてのひらが、私の頰をむにゅっと挟んだ。


「なんでロゼが、こんなところでそんな格好で、下働きなんてしてるのよおおおおおおおお」


 混乱ここに極まれり、といったふうのリリカが、そこにいた。



ひとりずつ、役者が揃っていきます。



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