出会い:ある伯爵家子息にまつわるむかしばなし(3)
多くの業務を担うフォルア伯爵夫人は、西の空が夕焼けに染まるころ、やっと一息つくためお茶の時間を設ける。息子たちが家を出て、別棟で暮らす娘たちが未成年である現在、晩餐を共にする夫の帰りが遅いと、夜の食事は軽いもので済ませがちだった。
昼間の食事の量を増やすことで調整しているが、豪勢な晩餐を作る機会が減ったことで料理長は残念そうだ。
ともあれ、その夕刻のお茶の準備をしている時、書類を片付けた伯爵夫人が私を手招きして口を開いた。
「エマ」
「はい、奥様」
ここ数年は、奥様付きの侍女見習いとして働いている。覚えたこともだいぶ増え、筆頭侍女が見ていなくとも仕事を任せてもらえるようになった。再び変えた名前もだいぶ耳に馴染んで、やっと、これから先の自分の人生を考えられるようになってきたところだ。
「東棟への立ち入りを許可いたします。明日から、あの子の世話をお願いね」
あの子。それが誰を指すのかわかって、息を飲んだ。伯爵夫人を見上げると、窓を背にした逆光の中で、彼女は笑う。眩しくて、表情がうまく読み取れない。
「フォルアリス家の第三子。ローズと言います。わたくしの、大切な娘よ。その世話を、あなたに頼みます。あの子はうちで暮らしているけれど、その立場は王家が厳しく監督しているの。詳しい決まりごとは、専任の侍女が他にも何人かいるから彼女たちから聞いてちょうだい。わたくしからつける侍女はあなただけだけれど、肩身の狭い思いはさせませんから、困ったことがあったら気にせずおっしゃいね」
疑問符がいくつも飛び交う中、私は承諾し、主人に対する一礼をした。
ローズ。ドミニクの妹。クライドが気にかけていた、小さなお姫様。
今はもう、初等課程卒業生と同じくらいの年頃だろうか。私が、ドミニクの従者になった頃と同じ。
いまだに一度も会っていない、伯爵家の第三子。東棟は、出入りは愚か庭に近づくことさえ禁じられていたのだ。やっと会えるのだと、感慨深かった。
私が、いつ会えるかとじりじりしていたことなど、誰も知らないけれど。
「……わたくしは母親として、あの子の行く末のためならば、道を阻む魔王の役を喜んで演じるわ。でも、エマ。あなたは知らなくていいこと。関わらなくていいことがあることを、よくよく肝に命じておきなさい」
あれ、と思う。すくなくとも話し始めは、穏やかな優しい母の声音だったのに。徐々に温度がなくなって、きんと感情が凍りついたかのような響きに変わっていた。
表情は、相変わらず読み取れない。奥様、と呟こうとして、声は吐息に変わってしまった。
「疑問を抱いても、軽率に問いただしてはダメよ。相手をよく見て、口にする言葉を選んで。そうすれば」
神殿で、神様に祈るような必死さだった。
「そうすれば、あなたはあの子のそばに居られる。そばに居て、はなれないで。ただ、そこにいるのが当然として、支えてあげて」
東棟への禁止事項は、そのままローズ姫へのそれになるのだと、ゆっくりと理解する。広いお屋敷とはいえ、棟一つに近づいてはいけないだなんてそんな変な話があるのだろうかと、勤め始めた当初は疑問に思ったものだった。けれど東棟に対する疑問は全て黙殺され、長く勤めたいのであれば関わらないほうがいいと忠告を受けた。
王太子の婚約者に選ばれた、いずれ、この国の貴族女性の頂点に立つお姫様。貴い地位を目指す彼女の周囲は、そうやって整えられているのだわと納得していたけれど。
「余計なことをあなたに話していたら、ドミに怒られてしまうかしら」
ふふ、と小さな笑い声に、温度が戻ってくる。ドミニクのことを語るその口元は優しく笑みを浮かべているのに、伏せがちになったその眼差しは物悲しい。
「ローズに対して、あなたは発言を許されていません。よくよく注意しておきなさいね」
その言い方はひどく真剣で、今までにそうして侍女でいられなくなった者がいるのだろうかと想像した。ともかく、私は雇い主である伯爵夫人の要求を理解する。ローズ姫のそばにいること、味方であること、何もせず、ただ、そばにいることを第一に、寄り添うこと。
これでも貴族社会の末端にいたために、伯爵夫人の言葉の裏をうっすらと読み取れた。ローズ姫にまつわる物事のすぐそばに、黒々とした空洞が、ぽっかりと迫っているのだ。足を踏み外せば、二度と戻ってこられない暗黒。見て見ぬ振りをして、ただ、笑っていなければならない。
私ごときが、その暗闇を覗き込んではならない。
「かしこまりました、奥様」
フォルア伯爵家の第三子。ずっと会いたかった女の子。誰もがその幸福を願っていながら、手の出せないところに行ってしまった彼女。誰に、だとか、どうして、だとか、私はけして考えてはいけない。ただ、私が、彼女を大切に思う誰かの代わりにそばにあれるというのなら。
それは、果たす甲斐のある役目だと思ったのだ。
歪な自己満足だろうか。
幸いローズ姫は非常に勤勉で、真面目で、まったく手のかからないお嬢様であったので、決まり切ったを日々を淡々とこなすだけの毎日だった。年若い侍女ということで最初のうちは警戒され自由に動くことは叶わなかったけれど、数年も経てば私自身の働きぶりも評価され始めた。ローズ姫のすぐそばに侍ることを許されるようになり、甘味やお茶の用意に口を出せるようにまでなったが、相変わらず言葉を交わすのは許されない。
もどかしかった。
ドミニクにも、伯爵夫人にも、なにをどうしろと願われたわけではないけれど。それでも、もっと彼女の力になれることがあればいいのに、と願わずにはいられない。
勤勉で、ひたむきで、素直なお嬢様。努力家なのはもちろんのこと、与えられた課題をこなす頭の回転の速さと、物分かりの良さ。自分の立場と役割を理解し、与えられた通りに振る舞うだけのお人形。
彼女が籠から羽ばたくことを許されたなら、どんな未来だって手に入りそうなのに。
私程度の立場では、指摘することさえ許されなかった。
休日に一人で街を歩き、業務に支障をきたさないよう気晴らしをしていた時だった。やることが特別あるわけでもないし、もう屋敷に戻って、こっそりみんなの仕事の手伝いでもしようかしら。つい最近人が辞めたばかりで、人手も足りないところがあるし、などと考えていると、「ちょっといいかな」と声をかけられる。昼間から暇な人がいるものだなと内心ため息をついた。どうにか穏便にお引き取り願おうと周囲の人影にそれとなく目を向けながら振り返って、言葉を失った。
「ねぇ君、フォルア伯爵家の侍女で間違いないかな」
甘く笑う、濃茶の髪越しに見える灰色の瞳。そういえば、近頃、多くの人妻が彼の灰色の瞳に夢中だという大衆記事を読んだことがある。遠い人になってしまったなぁなどと他人事のように思っていたけれど。甘い花のような香りを身にまとった彼に、いざこのように迫られると、あぁほんとうに、自分の理解の及ばない人種に成り代わってしまったのだと納得した。
手を取られ、壁際に追い詰められる。鮮やかな手並みだった。足元には木箱があって、簡単に抜け出せそうにない。惜しむらくは、かつて勉学を共にした同窓だったところと、私がそうだと気づかない鈍感さだろう。
「ちょっと協力をお願いしたいんだ。美しいお嬢さん」
慣れた仕草、言い回しからして、これが初めてではないのだろう。こんなにも真正面から見つめあっているのに、気づかないのは一体どう言うことだろう。
「お戯れを、クライド・フェロウ様」
思いの外冷たい声が出た。なんなら、握られた指先から冷気が漏れる。ぴし、と目の前の青年——、クライド・フェロウの笑顔が引きつった。
「親しくさせていただいたのは短い期間でしたが。あぁ、爵位ある家名も失って魔術学院高等課程にも行けなくなった小娘の顔など、とっくにお忘れでしょうか」
自分でも驚くほど辛辣な物言いだった。ぱっと手が離される。こちらを恐れるかのように両手をあげる知人男性、というのは、想像よりもずっと情けない姿なのだと初めて知った。
「エメリナ……?」
「ご無沙汰しております。今はエマ、とお呼びください」
望まぬ名前を呼ばれて、遮るように名乗った。感情の高ぶりから、きん、と氷の粒が周囲に具現する。それが誰かを傷つける前に、心を落ち着けて消し去った。
「先日同僚が勤め先の伯爵家を辞し、田舎に帰りました。もしや、あなたのせいですか?」
「誤解だよ」
両手を上げたまま、クライドは気を取り直したのかにこやかに答える。ふうん、と目を眇めて見つめると、さすがに居心地悪そうに視線を逸らした。
「……それで、王妃様の腰巾着だとか懐刀だとか、あることないこと悪し様に言われているあなたが、私に今更、何の用でしょうか」
「事情を説明する気は無いから手短に言おう。ローズ姫あての書簡の束に、俺からの手紙を紛れ込ませて欲しい」
「…………、ローズ様に? ご冗談を」
ゴミを見るような眼差しを向けるけれど、クライドはひるまなかった。にこやかな表情のまま、一歩詰め寄ってくる。
「君、あの屋敷でローズ姫付き? ドミニクの指示? まぁどうだっていいけど。ローズ姫のあの暮らしを見て、どうかしてるとは思わない?」
突然の指摘に、とっさに表情を取り繕えず、反応してしまった。ほら、とクライドが笑みを深める。
「俺の手紙は、あの子のためになるよ。エメリ……じゃなくて、今はエマって呼んだらいいのかな? ねぇエマ。ちょっと俺を信用してみないか」
「…………」
「せめて何か言ってくれ」
冗談ではない。口をひらけば最後、良いように言質を取られて約束を取り付けられてしまう。
親しくしていたのはわずかな時間。それでも、全てが変わってしまったその後も同じ教室で学んだのだ。その口のうまさも、魔術の器用さも、なんなら魔術陣や呪文を省いた効率重視の手際も覚えている。相当の手順が必要とされる誓約の環状文言だって、クライドにかかれば何手で展開されるか想像もできない。
杖持ちでないにも関わらず、高水準での魔術行使を実現する。それが、かつての宮廷魔術師輩出の名門、ワルワド伯爵家の三男だ。
「警戒しすぎ」
「あなたの実力を、よく知ってます。杖持ちじゃ無いからと油断できるわけがありません」
「研鑽を怠った下級文官なんて、腕は鈍る一方だよ。君も、魔術制御の訓練は続けたほうがいい。火と同じで、氷の魔術特性は扱いが難しくて危険だから」
「ご忠告、どうも」
壁際に追い詰められたまま態度が軟化しない私に、クライドはため息とともに笑った。一歩下がって、片手を上げてその場を去る。
「姫様宛の手紙は君へ送るよ。そのあとは好きにしていい」
「は? ちょっ」
「俺だって、君の性格もよく知ってる。今後、俺に煩わされたくないならいっそ今ここで流されてみるといい。深入りしないほうが身のためだだとか言われてるだろうけど、結局」
最後に、にこやかな表情に見合わぬ冷たい声が、その場に残った。
「すでに君は巻き込まれてるんだし」
がたん、という揺れで目を覚ました。
顔を上げれば、うつむいて腕を組み、目を閉じているクライド・フェロウの姿がある。揺れる馬車の中で瞬きを繰り返し、さらに首をめぐらせれば窓の向こうに広がる荒地が見えた。
随分、むかしの夢を見ていた気がする。いまはローズ様の辺境行きの最中だった。
あまりにも急に決まった出来事で、私自身は詳しいことはわからない。魔術師セファが赤の魔法使いの元へ旅立ち、学友に会いに魔術学院へ行ったはずの姫様は、なにか騒ぎがあったあとしばし魔術塔にとどまった。そうかと思えば、王城へ行くための支度をと私とトトリが呼び出され、王城の一室を借りて姫様の身なりを整え、送り出し、戻ってくると姫から辺境行きを告げられ、同道するよう求められたのである。
貴人向けの馬車にローズ様が一人で乗り、そのすぐそばを騎士であるフェルバートが馬で並走する。辺境地域周辺に詳しいトトリは化粧師兼案内役として姫様が乗る馬車の御者台に同席し、交渉、記録役として文官のクライドが侍女である私ともう一台の馬車に揺られている。
クライド・フェロウ。魔術学院高等課在学中のある時を境に魔術研鑽を怠るようになり、杖持ちとなるための認定試験を受けることもなく卒業した。
姫様は昔馴染みだし、信用しているのだとのんきに笑うけれど、それだってクライド自身が姫様に自分を売り込んだからだ。姫様は、自分に対して言葉を尽くしてきた人間を無下にしない。身の回りの世話をする誰からも優しく声をかけてもらえない経験が、そうさせるのだろうか。
過去の事件についても詳しく知らないけれど、クライドの母親が姫様誘拐を企て、それに与した一族が領地謹慎を言い渡された。それだって、どちらが悪いのか明白だ。姫様がクライドに遠慮する理由など何もないのに。
二人の間には、私の知らない事情がある。わかるのはそれだけだ。
結局、侍女の私は命じられたことに従い、彼女についていくことしかできない。それだけを許されている。フォルア伯爵家からやってきた私自身も、信用に足る人間か判断の途中なのだ。そばにおいてもらえるだけでも感謝すべきだろう。
考えても仕方がない、と結論づけてため息をついた。思いの外大きな吐息となって、向かい側に座るクライドが顔を上げた。
「疲れましたか。そろそろ休憩にしましょうか。姫様は我慢強いところがありますし、君に合わせていいと思いますよ」
「その話し方、とっても胡散臭いですよ」
笑みを浮かべたまま、クライドがおし黙る。しまった。と、思わず目をそらした。
「フェルバートに声をかけましょう」
そのままそう続けて、クライドが窓を開けた。
時折、遠目に姫様に対してだけ気安げな態度になっているのを見る。私にはもう、あんなふうに話しかけることはないのだろう。
無邪気に笑えたあの頃とはもう違う。重ねてきた時間だとか、しがらみだとか、知らなかったことと知ってしまった事情とで、どんどんがんじがらめになっていく。
ただ、姫様に仕えていればいいだけなのに。そんな余計なことを考えてしまうのは、誰のせいにしたらいいのだろう。
「エマ」
街道脇に馬車を停めて、姫様へお茶を出しに行く。たったそれだけなのに、姫様は私の顔を覗き込んだ。
「フェルバート様。お茶の間の話し相手に、エマを使います」
そういうなり、私を馬車に引き込んで、戸を閉めた。座りなさい、と言われるがまま、向かいに腰を下ろす。
「めまぐるしい日々で疲れたでしょう」
こちらを案じる眼差しに、いいえと首を振る。それでも、姫様の顔を見ることができずうつむいた。
「ここでは何を行っても不問にしましょうか。フェルバート様の目も届かない密室だもの。エマ、なにか、私に聞きたいことはある?」
本当に聞きたいことを言っても、困った顔をするだけで答えてくれないのは想像できた。姫様を困らせたいわけではない。駄々をこねたいわけでも。確証のない想像を口にして困らせたいわけでもない。
「……姫様こそ、悩んでいることは、ありませんか」
寮に帰ってきてお世話をさせていただく時、話してくださるのはいつだって魔術師セファのことだった。その白銀の魔術師は、もういない。彼と一緒にいた時の表情がもう見られないかもしれないということは、それだけ心が閉じていることにならないだろうか。
鬱屈した気持ちでそう問うたのに、顔を上げた先で、姫様はふわりと笑って見せた。
「エマ。あなたが知っていることと、私がしていることで、戸惑っているのはわかっているわ。でも私はね、もうどうしたいか決めているの。どうなりたいか、一番に目指す場所を決めている。だから、そこに向かってだた走って行くだけなの。望むものを手に入れるために、手を伸ばしているところよ」
膝の上で握りしめていた拳に、ローズ姫の手が添えられた。
「エマも、あなた自身のために、あなたが望む景色を目指したらいいわ」
祈るように思う。どうかこの人に幸を。
大切だった人たちの、大切な女の子。ただそれだけだったあの頃とは、もう違う。それだけの時間を、私だってこの女の子と重ねてきたのだった。
〜現在〜
●クライド
魔力特性 ★☆☆☆☆E
魔力量 ★★☆☆☆D
●ドミニク
魔力特性 ★★★★★A
魔力量 ★★★★☆B+
●エマ
魔力特性 ★★★★☆B
魔力量 ★☆☆☆☆E++




