出会い:ある伯爵家子息にまつわるむかしばなし(2)
ご挨拶も随分遅くなりましたが、本年もよろしくお願いします。こつこつと続けてまいります。
——なんでこんなことになったのか。
途方にくれた気持ちで、壁に手をつき進行方向を遮ってくる下級文官を見上げた。見かけたこともなければ言葉を交わしたこともない、初対面の相手だ。
自分よりもはるかに上背のある、地位も上の相手に見下ろされて、早く問いに答えなければと思うのに、何を聞かれたのかよく分からなくて言葉が出てこなかった。
冷たい眼差しが鋭さを増した。
「で? もう一度聞こうか。——君はなぜ、出入りできる人間が限られる、この王太子執務棟の廊下を堂々と歩いてる」
「エミリオと申します、閣下。あの」
「口答えはいい。子どもだからと言って、潜り込ませたものがいるな。雇い主は誰だ」
深々としたため息とともに言葉を遮られ、えぇ、と思う。通りすがりの人間を疑うなら、もうすこしやり方を選んだほうがいいと思うのだけれど、どうだろうか。というかこの人、そこかしこに立っている騎士が仕事をしていないと思っているのか、それとも不審者を捕まえて功績を挙げたいあまり盲目的になっているのかどちらだろうか。
良くも悪くも育ちの良さを感じさせる正義漢に気を取られ、つい返事が遅れてしまう。
「あの、誤解です、自分はちゃんと許可を得て」
「ほう? なら言ってみろ。お前みたいな年端もいかぬ子どもが、いったい誰の許可を得てここにいる」
とにかく、思い込みと個人的な感情論で早合点をすると身の破滅となる。そのわかりやすい例なのだろう。成人男性を前にしみじみそんなふうに考える余裕があるのは、この窮地を救ってくれる存在への信頼からだった。
「私の従者が、なにか」
静かな声が、その場を切り裂くように響いた。
哀れな下級文官は弾かれたように振り返り、紫紺の眼差しに射抜かれる。とっさに目を伏せ礼を取ったので、こちらへの被害は最小限だった。ふん、と忌々しげな吐息が聞こえたかと思えば、下級文官は早口に謝罪らしきものを口にして、その場から逃げ出した。目上の人間の許可もなく行動するなんて、彼の方こそ許可をもらってこの場にいたのか怪しい。
「お手を煩わせてしまい申し訳ありません。ですが、助かりました。ドミニク様」
今現在、従者として使える主人である彼の名を呼び、顔を上げる。見上げると、しかめた顔が口うるさい母親のように小言を聞かせてくる。
「城内を歩く時は護衛をつけろと言っただろう」
「護衛つけてお使いに出歩く従者なんて、聞いたことがありませんよ」
普段と変わらない真顔で言うので、冗談かどうかが分からない。神妙な顔で返せば、彼の後ろに控える護衛騎士が、「どっちもどっちですよ」と多くは語らず肩をすくめるにとどめた。
「もう言いつけた仕事は終わっただろ。戻ってお茶にしよう」
護衛に見送られ、主人のあとに続きドミニクの仕事部屋へと入る。言われるままに、用意の整った道具を使って、教え込まれたドミニク好みのお茶を入れた。
王太子補佐、鉄仮面のドミニク・フォルアリスには、氷雪の従者とあだ名される年若い少年が付き従っている。そんな噂を聞いたのは、このお役目を終えてずいぶん経ってからのことだった。当時は魔力制御がうまくいかず、氷の魔力特性で周囲に随分迷惑をかけてしまっていたために、そんなあだ名がついたのだろう。
魔術学院、高等課への進学がかなわなかった自分は、杖持ちになることもなく、こうして労働階級に身を落とし働いている。
ふと、なぜドミニクはあの場に居合わせたのだろうか。窮地を救ってもらったとは思うけれど、なにか用事があっての通りすがりではなく、そのまま真っ直ぐ執務室に引き返したと言うのなら、それはまるで、自分が困った状況にあることを察知してのことのような——。
「エメリナ」
捨てた名を呼ばれ、反射的に振り返る。かつては魔術学院の先輩で、現在の主人であるドミニク。彼は、どんなにやめてくださいと願ってもその名を口にする。エミリオという偽名を与えた本人にも関わらず、ごくまれに、気を抜いている時に、いつもの調子で呼びかけてくるのだ。その度に肩を跳ねさせ振り返り、聞くものが他にいないか周囲を見回してしまう。
「そろそろ、君をぼくの従者として働かせるには無理があるな」
「ええ。……まぁ、三年よく持った方だとは思いますが、おっしゃる通りです」
十代も半ばを迎え、そろそろ成人という頃だ。さすがに、今回のように不審がられることも増えた。フォルアリス伯爵家の次男で王太子殿下の覚えもめでたい側近が、妙な趣味を勘ぐられるのもまずいだろう。それこそ、ドミニクとて適齢期を迎えて、今に婚約者がきまる頃だろう。そのとき、従者といえど私がいれば迷惑がかかってしまう。
初等課程修了目前に、父の不正が発覚して男爵家はあっさりと取り潰しとなった。私を魔術学院に放り込んでこっそりやっていたかと思えば、そんなことだ。おかげで私の未来は閉ざされたわけだけれど、そこを拾ってくださったのがフォルア伯爵夫人。
その息子であるドミニクが魔術学院で知己だったと分かるや否や、彼の従者として働くことになってはや数年。背丈も手足も年相応に伸びて、子どもの従者だと誤魔化すにも限度がある。フォルア伯爵家には年の近いご令嬢が二人いるけれど、姉の方はドミニクが仕える王太子殿下の婚約者だった。王妃教育に差し支えるとの理由から、年若い侍女は屋敷に置かない方針だと聞いていたのだけれど——。
「母が、君を使いたがっている」
「お屋敷で、ですか」
ぱちりと瞬く。それをきっかけに、手元の作業を再開して、主人の元へとお茶を持っていった。仕草で座れ、と言われたので、失礼します、とふかふかの椅子に腰を下ろす。
渡したばかりのお茶を一口飲んで、ドミニクは息を吐いた。
「妹の侍女として、だな」
そうですか、とうなずく。栄転だろうか。左遷とは言わないだろう。侍女といえば、華やかな職場だ。下位貴族の男爵家、しかも魔術学院育ち、初等課程止まり。果たして務まるだろうか。
「——………………しての、…………だ」
ささやきのような言葉とともに、ぎし、とドミニクの座る椅子が軋んだ。茶器から顔をあげると、紫紺の瞳は伏せられ、こちらを見ていなかった。
フォルア伯爵家。最初こそ伯爵夫人の手によって救われたが、ほとんどドミニク越しにしか関わりを持ったことはない。だからこそ、ドミニクが一家と絶妙な距離感を保っていることは察せられた。
伯爵夫人は、路頭に迷う寸前の私を拾い上げ、ドミニクに従うように告げた。不審な行為があれば、報告するように、と言い添えて。それに対しドミニクは、何かあれば母に報告するんだろう、とせせら笑った。ぼくは何よりも家族と伯爵家のためだけを考えているのに。と、常ならざる芝居掛かった仕草で。
伯爵夫人はドミニクの行動を監視したがって、ドミニク自身もそれをわかっている様子だった。
……仲が悪い、なんて言葉で済むような、単純な関係じゃなさそうだけれど。
「母のことだから、待遇については心配しなくていい。妙なことをしていたら、知らせてくれると助かるが……」
再びぱちりと、瞬いた。
それはつまり、……いわゆる二重間諜に……? 私の凍りついた表情に気づいてか、ドミニクは「いや」と、素早く呟いた。呟いてから、言葉を選ぶようにして続ける。
「母とぼくの利益は一致している。フォルアリス家のためを思って、選択し、行動している。それは、間違いなく、君もぼくらの間で惑う必要はない」
ただ、とドミニクは言い淀んだ。有能な彼にしては、珍しい様子だ。
「そう、母の言う『フォルアリス家』と、ぼくや父、兄が心に決めている『フォルアリス家』が、違う場合が、ある。『フォルアリス家』と、『フォルア伯爵家』と言うべきか」
「——かしこまりました、ドミニク様」
ひたすら言いにくそうにしている主人の言葉が途切れた隙をついて、一礼した。
貴族の末席とはいえ、男爵家の一人娘、杖持ち城勤であれば、もっと詳しい話が聞けて、力になれたのだろうか。かつての同窓として、従者でありながらともに席につき、お茶を飲むのを許された間柄としても。今の立場とは比べ物にならない、あの頃の自分が得るはずだった未来を思い返す。
そして、もうそんな未来がないことを、心に刻み込んだ。
顔を上げた私を、紫紺の瞳がじっと見てくる。もう、あの頃のように優しく緩むことは、二度とない。
「……エメリナ」
捨てた名前を、ドミニクが呼ぶ。その名を持っていた頃のことは、早く忘れてしまいたいのに。目には見えずとも、深い傷は癒えぬままだった。
その痛みをかばって「はい」と、微笑む。
「ぼくたちは、多くの秘密を持っている。君はもう負う必要のない秘密だ。いいか、触れれば瞬く間に火に巻かれて燃え尽きる。そういった類のものだ。君は見て見ぬ振りをし、ただ職分を全うしろ。不用意に近づくな」
『ぼくたち』といった。そこに、もう私自身は含まれないのだと、ドミニクが言い聞かせてくる。はい、と笑みを保ったまま、うなずいた。
そこには、いったい誰が含まれるのだろう。王族、貴族、フォルア伯爵家、フォルアリス家——。
もう、随分会っていない、『彼』はどちらに含まれるのだろうか。




