出会い:雪原をさまよったとある男の場合
大したことはありませんが、ちょっとだけいかがわしいことをしています。苦手な方はそっと閉じてご自衛ください。
降り積もった処女雪の真ん中に、裸体の女がうつ伏せに横たわっている。
とっさに精霊へ祈りを捧げ、そのままにしては置けないだろうと足を踏み出したが、雪原に広がる銀の髪に気づいた瞬間、杖を構えた。
銀の髪は、魔族に連なる者の証。
それは、紛れも無い事実だ。けして事実無根のおとぎ話などではない。この世界、この層で、銀の色彩を持つものは魔族に連なる者と決まっている。
であれば、この死体にしか見えない女も。——ただの人間の死体などではない。
これ以上は、不用意に近づくべきではなかった。今にも動き出す可能性もある。上長に連絡を取るべきか、この場で今すぐ拘束するべきか、杖先で拘束術式を書き殴りながら、手の中には魔術具を用意しつつ、思案する。
こちらが答えを出す前に、女の体がピクリと震えた。
がばりと、雪を散らしながら体を起こす。体を覆うほどの銀髪を勢いよく振り乱して、ふ、と黄金の瞳と目があった。
「……アラ?」
雪の中、四つん這いなどという随分な体勢で、それでも恥じらうように女は笑った。
血の気の失せた素肌を晒して、凍えるような唇で、ふふと息を漏らし、体を起こしてその場にぺたんと座る。
その仕草だけ見ていればただの少女のようだった。惑わされるな、と心中で叱咤しながら、杖先を向け睨みつける。
「お前、いったい、そこでなにをしている」
「タンのしておりマシタうぃ」
はぁ? と言いかけた口を閉ざす。反射で返すのではなく、十分に考えた上で、目を眇めて小さく首を振る。
「なんだって」
「ん? ウー。アーあー。ええ、ソウ。も一度。堪能、しておりました。デス。ええと、雪ヲ。うぃ」
意味をなさない音が多すぎて再び考え込む。つまり、と声を上げながら、自分は何をしているのだろうかと、早くも徒労感を覚え始めていた。
「雪を、堪能していた?」
「ですハイ。うぃ」
こくこくと小刻みに頷く。よいしょ、と女は立ち上がり、くるりとその場で回った。一糸まとわぬ姿であることを、まるで、披露するかのように。
長い銀髪を両手でひと房ずつとって、まるで貴族令嬢の衣装の裾に見立ててみせる。かるく膝を曲げて、視線を伏せて。
「こわくなーい怖くない、デスヨ。うぃ」
なんだかバカバカしくなって、杖を下ろす。宙に描いていた術式も消して、ため息とともに上着を脱いだ。放り投げると、女は体で受け止める。
やはり気恥ずかしそうに笑って、言い訳するように言葉を紡いだ。
「雪、素敵デス。ずっとずーと、あこがれておりマシタ。ここは、非常に、豊か、うぃ」
結界の外の、この、厳しい自然の只中で。豊か、だなどと。
変なことを言う、と思うと同時に、その正体を思えばこそ、そういうものか、と納得する。
「……層界を超えて来たのか」
ぱちりと銀のまつ毛が瞬いた。
「はいデス。うぃ」
「なんのために」
続けざまに問うと、女は投げつけた上着を抱きしめ、顔をうずめるようにして、笑った。
「だいじだいじを、探しに、タメニ。はるばる、やってきマシタ。うぃ!」
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ラジスラヴァと出会ったのは、意外と最近のことだ。黒の魔法使いになってから随分と経った、セファが生まれる少し前に初めて出会って、そして、隣に並び立つようになったのは、ほんのここ十数年。
だというのに、もう出会ってから随分長いことそばにいるような錯覚があった。
紆余曲折を経て愛を交わすようになり、我ながら、わりと凶悪な独占欲を抱いていると思う。
ま、同じだけの感情をラジスラヴァが抱いているかどうかは、知らないままだ。
黒の王国を離れて青の王国に入り浸る。青の王国の魔術学院で講師をすると宣言した時、赤の魔法使いは絶句したのちに常識を考えなさい。だの、青の魔法使いの領域だというのに、などと言って来たが、青の魔法使いが不在の青の王国に、黒の魔法使いが入り浸って何が悪いと言い放てば、赤の魔法使いに言い返す言葉などなかった。
それはそうだろう。なにせ、遠慮すべきその青の魔法使いが、黄金位不在の大神殿に入り浸っているのだから。
黒の王国とは書簡のやり取りもしているし、青の王国と断絶している青の魔法使いよりマシだろ。
赤の魔法使いこそ、黒の王国に干渉が過ぎる。いくら生まれ育った国で、死別した最愛の伴侶が黒の王国王家の人間だったからって。
ともあれ、必要だから青の王国に住み着いた。国王陛下ときちんと交渉をして、学院講師や宮廷魔術師が工房を置く魔術塔の部屋は断った。そのかわりに、塔を一つ借受ける。辺鄙な場所に立つ古い塔だったけれど、魔術結界で保護すれば居住環境は十分保証されたし、移動陣のおかげで移動に不便はない。
何も予定のない日は、その塔の一室で、ラジスラヴァとそれぞれ読書に興じるのが常だった。
広い寝台の上で、思い思いの格好で読みふける。
ふと、集中が途切れた。体を起こす前に声をあげる。
「スラヴィ」
返事の代わりに、足先が絡められた。眺めていた本から顔をそらせば、ラジスラヴァもなにか薄い冊子を熱心に眺めている。手を伸ばして、細い腰を引き寄せる。
「なんデスカ」
迷惑そうでもなければ、ことさら嬉しそうでもない。いたって平坦な調子で声を上げ、黄金の瞳がこちらをむく。やっと意識が向いたのでその目元をついばめば、もう、なんナノ、とくつくつ笑う声に気分がよくなる。
「出会った日のことを思い出してたんだが」
そういうと、ラジスラヴァの表情が固まった。わざわざどうして、と言わんばかりに、微笑みを貼り付けてこちらを探るように見てくる。
「今更だけど、どうして素っ裸だったんだ」
「ほんとうニ、なぜ今更そんなことを聞くんデスカ」
「気になったことは、間を置かず解決したいじゃないか」
素直にそう答えれば、そういう人でスヨネ、と彼女は枕に突っ伏する。
室内でくつろいでいるだけあって、どちらも薄着で、ラジスラヴァはいつものことであったけれど、でもこうして寝台に揃って寝転がっていては、なし崩しに行為が始まるのも致し方がないというものだ。
口づけひとつで、案外簡単に絆される。
絶世の美女らしく、きつめの顔立ちに濃い化粧をして、興味のあることにしかまともに取り合わず、お高く止まった振る舞いが目立つ、私の最愛。さらに言えば、世界の何もかもを知ったふうな笑みを浮かべて高みの見物を決め込むたちであるけれど。
「なぁ、どうしてだ?」
行為がひと段落したのちに耳元で問えば、枕に顔を押し付けたままラジスラヴァが唸る。
「ワタシが、下手だったからデスヨ!! そういうものなのデス!!」
「ふうん?」
「————!」
弱いところに手を伸ばせば、声にならない悲鳴が上がる。くつくつと肩を揺らして笑えば、ふと、弟子からラジスラヴァと笑い方がそっくりだと指摘されたことを思い出した。
「君は、セファが『だいじだいじ』だと言っていたな」
呼吸を整えるので精一杯の彼女に答えは求めなかった。
「そのセファを連れて行くけれど、いいか」
「まもってくれるナラ」
滑らかに繰り出された条件を、曖昧に笑う。それはセファ次第だったし、赤の魔法使い次第だった。自分がどうこうできる問題ではない。
「守れなかったら?」
「恨みマスヨ」
「妬けるな」
ええそうですトモ、とくつりと笑う。
「ワタシとあなた、どちらかが息絶えるまで。永劫に。恨み言を囁いて差し上げマショウ。可愛い可愛いセオルセファ。ワタシたちの、だいじだいじ。ですからね」
魔法使いの自分とラジスラヴァ、その時が来るのは果たしてどちらが先だろうか。競うのはそれはそれで興味深かった。お互いの何がどれほど違うのかは、比較し続けないとわからない。それはいいね、と思考に沈みながら頷いていると、隣の彼女が掛布をはね上げガバリと体を起こす。襲いかかる獣のごとく、その肢体がのしかかって来た。
「やられっぱなしは好きじゃありマセン」
押し倒されて、銀の髪は顔にかかり、黄金の瞳が見下ろして来る。あぁ、絶景かな。ふと、あのローズ・フォルアリスとやらは、このようなやりとりは軽蔑するたちだろうかと思考がそれる。ラジスラヴァほどあけすけにいうつもりはないけれど、ああも純粋培養なお姫様より、もう少し遊びの効く自由度の高い割り切った相手の方が、愛弟子には合っているような気がする。
熱中するものがあると、周囲をおろそかにしがちな人種であるから。周囲の人が自分のために振る舞って当然のお姫様は我慢ならないだろう。
長く隣にいるようになれば、セファは早々に愛想をつかされてしまうのでは、と心配してしまうのも無理はない。
くるくると思考しながらラジスラヴァの手練手管を受け止めつつ、隙を見てその柔肌に歯型をつける。ぎゃ、と色気のない悲鳴さえも愛しく思うのはもはや重症だった。
私の、最愛。
魔法使いの生の中で、ラジスラヴァを最愛にできた私はなんと幸運だろう。一方で、その最愛のいない世界で魔法使いとなった赤の魔法使いの気が知れなかった。おそらく一生わかることはないだろう。
「ラジスラヴァ」
黄金の瞳が、見下ろして来る。名前を呼べば、その眼差しは必ず私へ向けられる。失う日のことなど考えられなかった。す、とその黄金が、眇められる。何を考えてマスカ。と問う声は冷たい。
「仕方のない人デスネ」
呆れたふうに、嘆息しながら彼女は囁いた。
『こちらの層の、魔法使いという生き物は本当に。歪な生き物だこと』
故郷の言葉で呟かれたそれを無視し、私はのしかかる美しい生き物を引き寄せた。




