61.いなくなってしまうということ
拍手、お気に入り登録など、いつもありがとうございます。
セファが、遠くに行ってしまう。そうと知った私は、すべきことのためにただ行動した。——すべきこと、というよりは、私がそうしたいと望んだことの、ために。
魔術学院寮で寝起きして、学院外套で素性を隠しながら、王城と魔術塔と魔術学院を行き来する。セファの工房には行っていない。準備で忙しいと思うから、呼ばれるまで行くつもりはなかった。
独り言のように現状を話して聞かせると、その相手は青い目を眇めて、深いため息をつく。
「それで、よく俺のところには来れますね。それどころじゃないのでは?」
「そうは言っても、フェルバート様、私が突然来なくなったら困るでしょう?」
相変わらず訪れるごとに山となっている書類を、フェルバートとジャンジャックに振り分けながら憎まれ口を受け流す。組んだ両手に顔を伏せるようにしてフェルバートはうなだれていたけれど、気にせず作業を続けた。ジャンジャックも無言で作業を進めている。
「それにしても、これって本当にただの嫌がらせよね。皆、暇なのかしら」
不備の書類や部署違い、数年前に終わっているはずの事業の計画案など。どうしてフェルバートのところに回されているのかわからない書類をいくつも抜き出して、部署と作成者を記憶していく。作成者はおそらく存在しないか無実の人間だろう。部署名も、そんな部署なかったはずよと呆れたくなるものが多い。重要そうなものほど署名が怪しく、他愛ないものはおそらく実名だろう。嫌がらせの自覚もないのかもしれない。
「……さぁ、どちらにしても、ローズ嬢が構わなくていいことですし、その手を煩わせることこそが業腹です。あなたがすることではないでしょう」
その言い方では、もうここに来なくてもいいのだと言っているように聞こえる。そんなこと言って、そもそもここにくるようになったのは——。
ふと、手を止める。ここに、くるようになったのは。
「やだ、今後の話なんて何もしていないじゃない」
「本気で忘れていたんですか……」
忘れていた。色々ありすぎて、もはや必要性もなくなりつつある。というより目の前の仕事量が気になりすぎて。ジャンジャックまで使ってさばいて、その日のうちに大部分を処理したかと思えば次の日また増えているのだ、片付いてから話を切り出す、などと言っている場合ではなかった。
「現状、ハミルトン侯爵家の扱いとして、『ローズ・フォルアリス』が今どうなっているのか、聞いてもいいかしら」
「以前お話ししたまま、変わりありませんよ」
「でも、私とフェルバート様の婚約って、嘘でしょう」
フェルバートが黙る。
「私に対してだけの」
返事はない。向かい側で作業しているジャンジャックが固まっているけれど、構わず続けた。
「婚約なんて、どこにも公表してないものね。直接問い合わせてきた人には話したのかしら。内々にと、発表する予定もない婚約について。私の身柄を預かる理由のために。私が提案したジルギット討伐後の行方不明だって、もともとそうするつもりだったのではない? 失踪したことにすれば、婚約発表だってうやむやになるものね」
だから、つまり。
「婚約破棄のその後をどうするかなんて、話し合う必要もなかったのよね。でも、それだとどうして私がここに毎日来ることを、フェルバート様が許してくれたのか——」
話している途中で、ジャンジャックが控えめに手を挙げているのがわかって、言葉を止めた。瞬いて見ていると、視線を下げたまま、ジャンジャックがごくごく控えめに声を上げる。
「……あの、これ、自分が聞いてていい話じゃないと思うんスけど……っ」
執務机のフェルバートと顔を見合わせること数秒、それぞれジャンジャックの方へと向き直る。
「俺はいてくれて構わないが」
「いてくれないと困るわ。さすがに二人きりはまずいもの」
「ただし他言無用で頼む」
「そうね。みんなには内緒にしてくれる?」
心配なら環状文言でも使いましょうかとフェルバートが提案してきたけれど、流石にそこまではと首を振る。環状文言、という単語がなにか引っかかり、じっと宙を見つめた。フェルバートとジャンジャックの視線はあっという間に気にならなくなって、思考の海に浸る。言葉のかけらを、そこから拾い集めるようにして、フェルバートをみつめた。
「……もしかして、制約をしているの」
返事はない。
先ほどから核心に触れようとするたび、フェルバートは返事をしてこなかった。どうして気づかなかったのだろう。環状文言による制約をしているというなら、何を聞いても答えてくれるわけがないのだ。
フェルバートと目があう。やっと。久しぶりに、ちゃんと顔を見ている気がした。いままで、いったい、何を見ていたのだろう。何を見ているつもりになっていたのかしら。
抜けるような快晴の深い青が、私を射抜く。癖のある黒髪の奥で、まなざしが柔らかく笑う。
「答えられることにだけ、答えましょうか」
思いもよらないことに思い至った矢先で、上手く返事ができない。
「諦められたら、苦労しないって、言いましたよね」
言われた気がする。いいえ、正しくは違った気がするけれど。そういった意味合いのことは言われた。
「なんだってよかったんです。このまま会えなくなるくらいならいっそって、ただそれだけですよ。あなたがいずれ気づくにせよ気づかないにせよ。勘違いしてくれたまま、ここにきてくれるというなら、それで」
呆れてものが言えなかった。お前、そこまでして、と言いかけて、どう続けていいかわからなくなる。「そこまでして」と思わず言葉がこぼれてしまって、フェルバートがその笑みを深めた。
「それほどに。あなたが好きですよ」
び、と固まってしまう。しばし沈黙が流れて、続いて聞こえた呆れたようなため息に、なにも言い返せない。
「オウガスタ」
「っはい!」
「見ての通り、非常に危機感に欠ける方だ」
「はい!」
「この方の隙を見ると付け入りたくなる人間は、昔からそれなりに多い。気をつけるように」
「はい! ——えっ」
ジャンジャックが言われるがまま返事をして、今なんてと顔を上げた時にはフェルバートはもうこちらに向かって話していた。
「セファがいたから様子見していた者も多いでしょうし、ハミルトンの盾が見せかけだけだと気づく者も今後現れるでしょう。魔術師セファの弟子・ロゼ=ローズ・フォルアリスと明るみになるのも時間の問題ですし、そうなると伯爵夫人や王妃がどう出てくるか、どこかに避難した方が無難かもしれませんよ」
「男爵令息程度の自分じゃ太刀打ちできないっスよねそれ!」
横からジャンジャックの悲鳴を聞いて、胸元を抑える。あぁ、だから、と理解した。
「他にすることがあるのなら、今日はもういいです。明日以降も、あなたが世界のために旅立つというのなら、いつでも馳せ参じますよ」
だから、そんなもの。ともに破滅に向かうためだけの愛など、いらないと言ったのに。
「本当に、開き直っているわ」
ようやくそれだけ呟いて、書類を整え立ち上がる。ジャンジャックに呼びかけて、フェルバートの執務室を後にした。
魔術学院寮まで戻って、メアリの部屋に置いてある私物をまとめる。飛ばした鳥を受け取ってすぐに戻ってきたのか、メアリが帰ってきた。
「ロゼ?」
「ええと、鳥で伝えた通りなんだけど。だめね、まだちっとも魔力を込められなくて、安定しなくって。たくさん言葉が吹き込めないのよね。あれじゃ伝わらないものね」
血相変えたメアリの様子に、とにかく弁明しなくてはと彼女が何か言い出す前にと話す。大丈夫なのよ、と繰り返した。
「セファが旅立ったら、セファの工房にうつるわ。少ないけど私物をいまのうちに移動させておこうと思って。大事なものばかりだから。それまではこの部屋で寝起きするし」
大丈夫よ、と繰り返す。メアリの顔色は次第に落ち着いて、ふらふらと私に歩み寄ってきた。両手を広げてみせると、そのままぎゅっと抱きしめられる。こんなやりとりも、なんだか改めて不思議だと強く思う。家族でもないのに、ただこうして抱きしめてくれる人がいることが。
「そういえば、この前言ってたこと。なんとか、なりそう?」
ぎゅーっと抱きついたまま聞かれて、うなずきとともに抱きしめ返した。私にわからないことはたくさんあるけれど、メアリやミシェル、ジャンジャック。それに、リリカとエマ、トトリ、クライド。みんなの手を借りて、どうにかやっていけている。
「ゴダード先生のところに行かないと。そのあとはまた相談に——」
「わかった。セファ先生には、上手く言っておくわ」
会う予定もないし、わざわざ偽りの行動を伝える必要はないのだけど、と苦笑する。私の行動はセファに伝わるらしいし、何がどこまで誤魔化せるのかわからない。
魔術学院に行って、ゴダード先生から約束のものを受け取る。その足で魔術塔に行き、一階奥の術具師受付を訪ねた。
「力になれそうかしら」
二度目の訪問だったけれど、緊張は相変わらずだった。一度目の時にあれやこれやと気づけば話すつもりもなかったことまで聞き出され、その時の目の輝きがちょっとメアリに似ていたことを思い出す。メアリと違ってくるくると表情を変えながら楽しそうに話すので、ついこちらも口が軽くなってしまうのだ。
「ご提案いただいたうちの一つを、お願いしたいの」
「承りました、お客様」
魔術塔の窓口に立つほどの術具師は、ふんわりと笑って椅子をすすめてきたのだった。
ジャンジャック「なんで俺ここにいるんだ……」
(セファはローズに「関係ないことだし」って言われてしまった話し合いの場になぜか同席している)




